石原純について
いしわらじゅん 物理学者・歌人
石原純(1881~1947)
来日中のアインシュタインと石原純
慶応義塾ホームページより転載(1922年11月21日付三田新聞)
石原純は、理科ハウス館長 森裕美子の祖父にあたります。
理科ハウスでは、石原純の残した資料を保存し、調査研究することを事業のひとつとしています。
相対性理論で有名なアインシュタインは、大正11年(1922年)に来日し、全国で講演を行いました。そのほとんどの講演会でアインシュタインの講義の通訳を行ったのが物理学者・石原純です。当時の日本には理論物理学者といえる人は少なかったのですが、すでに石原純は31才のとき(1912年)、ドイツ・スイスに留学しアインシュタインの下でも相対性理論を学んでいました。相対性理論を日本に紹介した最初の物理学者と言っていいでしょう。
後年は科学ジャーナリストとして新聞、雑誌、書籍などで科学の大切さを広く伝えることに力を注ぎました。子どものための科学読み物も書き、多くの人に影響を与えました。
石原純は学生時代から和歌を作り始め、アララギの歌人となり、伊藤左千夫、斎藤茂吉、土屋文明ら多くの歌人と交流しました。同じく歌人の原阿佐緒と恋愛関係になり、大きく報道されたことで東北大学を辞職しました。大正末期には、それまでの定型の和歌から「新短歌」という自由形式の短歌を提唱し『立像』などの短歌雑誌を発行しました。
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当時、純は千葉県南房総鋸南町保田に新築の家を建てたところでした。
家は保田小学校の近く、海岸から歩いて数分の小高い丘の上に立っていました。
文中に登場するY子というのは、歌人の原阿佐緒さんです。
この文章は2007年に見つかった純自筆の原稿から書き写したものです。
1枚目がなく文は途中からになっています。
この文章が何かの雑誌に掲載されたものかどうかはわかりません。
もし、ご存知の方がおられましたら理科ハウスまでご一報いただけると幸いです。
(館長 森裕美子)
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2012年5月21日の朝には、日本で金環日食が起るので多くの人がそれを見るのを楽しみにしています。
今から約90年前頃、同じように日食が起るのを非常に楽しみにしていた人たちがいます。
それは、1919年5月29日と1922年9月21日に起った日食です。
このふたつの日食の観測によってアインシュタインの相対性理論の正しさが実験的に証明されたのです。
今ではゆるぎなく受け入れられている相対性理論ですが発表された当時はどうだったのでしょうか。
この文章は1922年11月号「改造」に載せられた記事を書き写したものです。
(館長 森裕美子)
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アインシュタインが日本に来日したのは、1922(大正11)年11月17日でした。
連日アインシュタインの行動が報道される中、石原純は相対性理論についてわかりやすく説明しています。
全部で8回にわたって書かれた新聞記事を紹介します。
新聞の写真の下に書き写したものがあります。
読みやすくするために、古いかな遣いや漢字を代えたところがあります。ご了承ください。
(館長 森裕美子)
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石原純の著書で、1928年8月にアルスから発行されたものを書き写したものです。
文章は非常にわかりやすく書かれています。しかし、現在からすると不適切な表現がされている部分があったり、
解説の中には不十分なものもあるので理科の初学者が読むのはお勧めしません。100年近く前に書かれたということを意識してお読みください。
でも読むことができます。
(館長 森裕美子)
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1933(昭和8)年3月に株式会社新光社(現在の誠文堂新光社)より発行されました。
電気についての歴史をわかりやすく書いたもの。
(館長 森裕美子)
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1941(昭和16)年8月にアルスから発行されました。
この本をリメイクされたものが昭和24年に株式会社学園出版社から発行されています。
下の書き写しはこのリメイクされたものを元に初版の図を加えたりしたものです。
本の中に出てくる用語や年代は当時のもので、今は全く違っているところが非常に多くなっていますのでご注意ください。
(館長 森裕美子)
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石原純が1922年~1942年に書いた新聞記事をPDFファイルにまとめました。他にもありましたらご一報ください。
(館長 森裕美子)
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