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「科学者が書いたもの」の中から「理科ハウスの独断」で「本文の一部」を紹介します。

おまけとして解説をつけてみました。科学者がちょっとでも近い存在に感じていただけたらうれしいです。

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第八十四回

『黒いトノサマバッタ』   P46 

矢島稔/著

偕成社/発行 1998年  


P46

一齢幼虫の体の色はみんなうすい褐色だったのですが、三齢くらいになると、緑色のものや灰色がかった褐色、少し濃い褐色など、さまざまなものがあらわれました。

つまり、バッタにも系統があって、親の体色が遺伝するのだと思っていました。

事実、こういう体色だと、土に石がころがっていて草が生い茂っている河原では、どの色のバッタもめだたないから、体をかくすカムフラージュ効果はあるはずです。まわりは、緑と茶色や灰色などが混然としている場所ですから・・・・。

ところが、大量飼育のために、縦・横・高さがそれぞれ六十・五十五・五十センチの飼育箱に三百ぴき以上の幼虫を入れ、コムギをたくさんあたえて飼いはじめると、幼虫の体の色がみんなおなじになり、一様に黒くなってしまうのに気づきました。

密度を高くすると、黒さはますます濃くなり、しかもみんなおなじ色になってしまうのです。

この体色の変化は、アフリカなどで大発生するサバクトビバッタなどでもられるのは知っていましたが、日本のトノサマバッタでもおなじ現象がおこるのは、このとき(1961年) はじめて体験して知りました。

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解説 森裕美子


黒うなってしもたトノサマバッタは「群生相」と呼ばれてるねん。

緑色のは「孤独相」。

色だけやのうて体の特徴や性質もちょっと変わってまう。

バッタは草食やのにこの群生相は共食いしてまうんや。

個々を離して何世代か飼育したら、群生相から孤独相に戻すこともできんねん。


矢島稔(1930~2022)が狭いとこでバッタをぎょうさん育ててたんは、多摩動物公園の園長さんから動物のエサにするバッタをたくさん育ててほしいって頼まれたからなんや。

育ててるうちにどんどん黒うなってびっくりやで。

矢島はNHKのラジオ番組「夏休み子ども科学電話相談」の回答者を30年以上もやりはった。

群馬県立ぐんま昆虫の森の園長でも有名や。

何年か前に昆虫の森に行ったとき、「昆虫おもしろ講座」で子どもの質問に答えてはったけど、これがうまいんやなあ。

「どういうときにそう思ったの?」とかちゃんと会話してから答えてくれはる。

講座の後に会うことができて、サインもろたわ。

トノサマバッタの話を書いたこの本は、わたしの昆虫記全6冊のうちの一冊目で、小学館児童出版文化賞、産経児童出版文化賞などたくさん賞をもろてはる。


それにしても緑色から黒うなってしまうバッタの話は不思議やなあ。

なんでギューギューに飼うだけでこうなってしまうんやろ。

矢島の本には理由が書いてなかったんで、前野ウルド浩太郎著『孤独なバッタが群れるとき』(東海大学出版部 2012年)を読んでみたで。

ファーブルみたいにめちゃ実験してるわ。

理由が気になる人は読んでみてな。


余談ですが、映画『シン・仮面ライダー』の主人公は孤独なんやて(仮面ライダーをこよなく愛している高校生の説)。

凶暴な黒い敵が数人登場するらしいけど、バッタが見たらおこってまうで。

2024年12月13日

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第八十三回

『「ご冗談でしょう、ファインマンさん」Ⅰ』  下から見たロスアラモス   P202 

リチャード・P・ファインマン/著

大貫昌子/訳

岩波書店/発行 1986年  


P202

「もしもし、ファインマンかね?」

「はあ。」

「こちらはジム・ベイカーだが、おやじと僕とで君と話がしたいんだが・・・・・」 相手はボーアの息子だ。

「え? 僕にですか? 僕はファインマンといいまして、ただの・・・・・」

「その通り。八時ならいいかね?」

というわけで僕はみんなが起き出す前の朝八時に、約束の場所に出かけていった。技術関係の事務所に入ると、ボーアが口を切った。

「僕らはずっと原爆の効率をもっと上げる方法を考えてきたんだが、次のような考えがある・・・・かくかくしかじかだ。」

「だめだ、だめだ。そんなものはうまくいくはずがない。ぜんぜん効率が悪いですよ」 とばかり僕がまくしたてると、彼が 「これこれではどうかね?」 と言う。

「その方がまだましですね。しかしそれにはこのおよそ下らんアイデアが入っていますよ。」

といった調子で二時間ぐらい、いろいろな考えをぶっつけ合い、口角泡をとばして議論を闘わした。あの大ニールスは、一所懸命パイプに火をつけるのだが、そのたんびに消えてしまう。しかもむにゃむにゃ言う彼の話し方ときた日には、わかりにくいことおびただしい。息子の方はおやじよりはまだましだった。

最後に「さてと」とニールスがパイプにまた火をつけながら言った。

「これでお偉方を呼びいれるとするか。」 こうして彼らは他の連中を呼びいれて、全員での話合いとなったのだった。

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解説 森裕美子


第二次世界大戦の終戦前1943年に原子爆弾を作ることをミッションとされたマンハッタン計画の舞台、ロスアラモス。

そこでのエピソードの一個。

当時、大学出たてのファインマン(1918~1988)、かたや、量子力学をやってる人なら誰でもひれ伏すやろと思われるニールス・ボーア(1885~1962)。

ボーアはデンマークの人やから英語は上手やなかったんかもなあ。

  

ファインマンは相手がどんな偉い人でも恐れずズバズバ言えるのがすごい!

ボーアもそういうファインマンのええとこをちゃんと見てるのがすごい! 


今年の春に映画「オッペンハイマー」が公開されたんで見に行ったで。

中身が濃すぎてついていくのが大変やったわ。

ファインマンも登場してたって後でわかって「どこにおった?」てなってしもた。

ボンゴをたたいてた場面があったらしい。 

そういえばそんな画面もあったなあ。

もう一回見たなったわ。


この映画、ノーベル賞を受賞してる科学者が9人も登場してるやん。

当時すでに受賞していたアインシュタイン、ボーア、ハイゼンベルグ、フェルミ、ローレンス、ラビ、戦後に受賞するブラケット、ファインマン、ベーテ。

こんなに一流の科学者がぎょうさん登場する映画ってすごすぎひん?

原爆を作ったんはオッペンハイマーが代表者になってるけど一人で作れるわけないやん。

みんなで作りはったんや。 


紹介したこの本には当時のエピソードが書かれてて臨場感あったわ。

最初の妻が結核で亡くなりはったエピソードは読むのがちょっと辛かった。

ファインマンは文章を書くのが上手やなあ。面白いし。

そやからめちゃ人気あんねん。 

ファインマンがノーベル賞を受賞したんは1965年で朝永振一郎と一緒にやったんやで。

2024年11月2日

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第八十二回

『江沢洋選集 Ⅵ 教育の場における物理』 P248 

江沢洋・上條隆志/著

日本評論社/発行 2020年  


P248

江沢 石原先生や寺田先生のお話を少ししていただければ・・・・・・。

玉虫 アインシュタインが1922年にこられたときに、東大でもアインシュタインの一般講義がありまして、そのとき初めて私も石原先生のお顔を拝見したんです。

(10行略)

玉虫 石原先生は『理化学辞典』 (初版1935年) の編集のときも先頭に立って熱心に原稿を見られました。たいていの原稿はご自分で書き直されて手を入れておられました。黙々とした方で、これは岡田先生も柴田先生も追悼文のなかに書いておられるけれども、石原先生は理論物理学の秀才であり、アララギ派の重鎮であるということで、さだめし颯爽とした風貌の方だと思っておられた、ところが岩波でこういう講座の仕事が始まったりして親しく接触するようになってみると、自分が想像したよりはずうっと地味な方で、あんまり言葉も多くはない、しかしつねに口元に笑みをたたえてやさしい方だ、そういう印象がちょっと述べてあります。

そういう非常に地味な方なんです、ですけれども沈潜していつも何かものを考えているような風貌の方でしたね。

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解説 森裕美子


じみ、じみ、てゆわれてんなあ、うちのじーちゃん。

まあ、うちの父ちゃん(石原純の三男)もどっちかてゆうとしゃべらん人やった。

ばーちゃんが、じーちゃんは都合が悪なったらだんまりになるて書き残してるから、本人は口は災いの元やと思とったんかもしれんなあ。


紹介した文は、1980年に岩波の雑誌「科学」が第50巻に達したのを記念して行なわれた座談会の一部やで。

出席者は玉虫文一、坪井忠二(第59回を参照)、江沢洋。

玉虫(正しい漢字は玉蟲)(1898~1982)は物理化学者、江沢(1932~2023)は理論物理学者。

他の登場人物も紹介しとくわな。

寺田はもちろん寺田寅彦(1878~1935)、岡田は中央気象台長やった岡田武松(1874~1956)、柴田は化学者の柴田雄次(1882~1980)、どの人も一級の科学者や。


理科ハウスに時々来てくれる児玉照男さんがこの本を寄贈してくれはった。

「石原純のことがいっぱい書いてあるよ」って教えてくれたんや。

うちはこうやっていつも人からじーちゃんの偉さや人となりを教えてもろてるねん。


江沢が書いた『だれが原子をみたか』(岩波書店)は名著やからお薦めしときますわあ。

昨年亡くなってしもて会われへん。

理科ハウスに来てほしかったなあ。

来てたらまじでほめてくれはったやろなあ。

なんでかゆうたら 『物理の「おもしろさ」は相手を選ぶ。だから、公教育で100%教えきることはできない。また、自由に問い、気長に、あるいは熱中して考えるおもしろさも、学校には望めない。科学の雑誌や本、そして科学工作の材料で学校の外を溢れさせよう』(232ページ) って書いてはるやん。

理科ハウスはまさにそういう場所になってると思うねん。

来たことある人しかわからんと思うけどな。

2024年10月5日

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第八十一回

『北里柴三郎読本 上』 破傷風病毒菌及びそのデモンスタラチオン

    (第18回ドイツ外科学大集会に於て 1889年4月27日)    P104

北里柴三郎/著

書肆心水/発行 2013年  


P104

 諸君、千八百八十四年に於て カルレCarle及び ラットネ Rattoneの両氏は破傷風病者の傷面より膿を取りこれを家兎に接種せしにその家兎は破傷風の症状を発せり。因りてそれより他兎に順次これを接種すればことごとく同症を発せしを以て初めて該病の伝染性なることを証せり。その翌年 ニコライエル Nicolaier 氏は土地の表層に一種の細菌ありて大いに布蔓しこれを南京鼠モルモットMeerschweinchen 及び家兎に接種すれば破傷風の症状を発しその動物をして死に至らしめたり。これに次て千八百八十六年に ローゼンバフ Rosenbach 氏は彼のニコライエル氏の細菌なるものは破傷風病者の膿汁中に存在することを報道せり。爾後破傷風病者の膿を検査する人は大概皆な該細菌あることを証明するに至れり。(5行略)

 未だ今日に至る迄誰れありて一人も破傷風毒菌を動物体外に分離しこれを人工培養基に順次培植し、而してその純正なる培養菌を以て試験動物に破傷風症を発起せしめてこれを証明したるものなきに由ればなり。

 さて余は未だ充分なる証明を得ず且つやや相矛盾するの説あるこの問題に就き一定の判断を下さんがために恩師コッホKoch氏の誘導に由り当ベルリン大学衛生実験場に於てその試験に従事せり、今ここにその実験成績の要を簡約に演述せんとす。

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解説 森裕美子


北里柴三郎(1853~1931)の演説文、読みにくー。 

新1000円札の人。

ドイツに留学してコッホに学びはった。

ほんで破傷風菌を培養するのに成功!

その後、破傷風菌抗毒素(免疫体)を発見、血清療法も研究して一躍有名になりはった。

北里がやりはった破傷風菌培養の方法を簡単に説明するわな。

まず、破傷風にかかって亡くなりはった人の膿をもらってくるねん。

その汁を鼠に接種、鼠は破傷風になって死んでまう。

鼠を解剖して膿を培養したら、16種の菌があるのを見つけはった。

その中でニコライエルが見つけた破傷風菌と思われるんを除いて動物に接種してみたけど破傷風にはなれへんかった。

もとの膿の菌を孵卵器であっためて菌を増やす。

これを今度は80℃で1時間放置(これで死んでまう菌あり)。

これを普通の培養と水素を入れて密閉したガラス皿で培養の二通りやってみた。

そしたら水素のほうにたくさん増えたんやって。

破傷風菌は熱にわりと強うて、酸素が嫌いやってわかったんや。


北里は破傷風菌の研究以外にもペスト菌の発見とかぎょうさんすごいことをやってはんで。

日本の医学のためにも大活躍やった。

伝染病研究所の創設、北里研究所創設、慶応義塾大学医学科創設、日本医師会設立なんかや。

これはお札になるわなあ。


ところで副題にある「デモンスタラチオン」てなんやねん!と思て調べたらドイツ語で「示説」という意味らしい。

デモンストレーションと同じ意味かあ?

医学会界隈で、やってみせるのをこうゆうてたみたいや。

「デモンスタラチオンには数頭の試験動物の破傷風に罹りたるもの、該菌の純養基及びその撮形等を公衆に示せり」と書いてある。

これは見ものやったやろなあ。

お医者さんやったら絶対見たなってまうわあ。

2024年9月3日

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第八十回

『解読! アルキメデス写本』 羊皮紙から甦った天才数学者  P58

リヴィエル・ネッツ  ウィリアム・ノエル/著

吉田晋治/訳

光文社/発行 2008年  


P58

 問題は、アルキメデスほどの著名人になると、どうしても伝説がつきまとうことだ。史実と伝説をどう区別すればいいのか。歴史学者が悩むのはそこのところだ。十九世紀までは、古代の物語を実話として受け入れるのがあたりまえだったが、その後は懐疑論が優勢になった。今日の歴史学者が慎重すぎるのかもしれないが、わたしたち歴史学者はアルキメデスについて言われていることをやたらに否定してかかるきらいがある。ほんとうに「ヘウレーカ(わかった)」と叫んだのだろうか。わたし自身もこの逸話は疑っているのだが、それには理由がある。最もよく知られたウィトルウィウスによるもの(最も古いものでもある)を見てみよう。書かれた時期と著者からして、すでに疑問の余地がある。アルキメデスの死後およそ二百年たって書かれたものであり、著者のウィトルウィウスは、歴史家としてはそれほど信頼できる書き手ではない(そもそも、この本は建築の手引書で、興趣を添えるために歴史上の逸話が入れてある)。    (15行略)

ウィトルウィウスがアルキメデスの科学について何ひとつ知らないのは明らかである。アルキメデスにまつわる話は、ウィトルウィウスからツェツェスまで、すべてがこのパターンだ。どれも都市伝説のたぐいと思われる。あしからず。 (森注 ツェツェスは12世紀の著述家)

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解説 森裕美子


なんや、「ヘウレーカ」の話は作りもんやったんかあ。

だまされとったわー。

これ、アルキメデス(紀元前287年頃~212年)の専門家がゆうてはんねんからほんまのことやねんやろなあ。

考えたら、アルキメデスが生きてたんは、今から2300年も前やねんやから、書いたものが残ってるなんてことは奇跡的なことやわ。

その頃、書くのに使われてたんはパピルスやねん。

アルキメデスも使てはった。

今は残ってないで。 

残ってるんは写本や。

ほんで、紙とちゃうねん、羊皮紙。

羊皮紙は貴重なもんやから使い回しされてたんや。

時は13世紀、アルキメデスの写本を消して上に祈祷が書かれたんや。

あー、ここで消えてしもたんや! 

アルキメデスが書いたやつを写したもんが。


ところがや、これを甦らして読もうとする物語が、この本の内容やねん。

著者のネッツは古代科学の専門家でノエルは博物館の学芸員。

めちゃ、おもしろかったで。

1998年に見つかったこの写本はボッロボロの状態やったんやけどな、オークションで2億円で買い取った人がおってん。

本はその後、博物館の人にゆだねられてな、修復する人、数学史家(左の本の著者、斎藤憲さんを含む)、古文書学者、写真技術者、X線の専門家、コンピューター処理技術者、加速器の専門家、とかいろんな分野の人が集まって、これをちょっとでも読めるようにしたんや。

いままで知られてたアルキメデスの写本では知られてなかったアルキメデスの数学が2200年の時を経て明らかにされたんやで!

すごいやろー。


字が浮き上がった本のデータは、誰でも見られるように公開もされてるんやて。

解読したかったらしてみてな。

ギリシャ語やけどな。

2024年7月17日

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第七十九回

『シーボルト日記』 再来日時の幕末見聞記  P66

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト/著

石山禎一、牧幸一/訳

八坂書房/発行 2005年  


P66

 私の最も有能な門人の一人である奥州(日本の北部)出身の高野長英は、一八二六年から三〇年までの間、常に私のそばにいて、私のために日本語の書物をオランダ語に翻訳してくれた。また、私の求めに応じて密かに対馬や韓国の釜山海Busankai〔釜山港〕の日本人居住地にまで旅をした。彼は私が日本を離れた後、一冊の書物を著わした。それは『夢物語』という書名で、彼の夢の記述である。その中で近いうちに日本は外国の列強に対して開国するであろうことを予言した。また、彼は祖国における科学的進歩の必要性を説き、ヨーロッパの有用な書物を日本語に翻訳することにも従事した。彼は嫌疑をかけられ、逮捕されて江戸に連行されたが、そこからの逃亡に成功した。その後、彼は名前を変えて〔沢三伯〕、またしばらくの間長崎に潜伏し、それから大坂に滞在して、そこで発見された。私は彼が屈強で、大胆で、勇気がある若者であることを知っていた。江戸からの逃亡以来、彼はもし再び見つかり捕えられれば、もはや赦免などは望めないと確信していた。捕まったときのことを覚悟して、最後の最後まで生きのびようと決意して、切れ味抜群の日本刀を肌身離さず持っていた。彼は捕まりそうになったときは、絶望的に戦い、逮捕を命じた何人かの役人や手下たちを殺害した。しかし深手は負わないものの多勢に無勢、力ずくで縛られ、引き立てられた。このような状況で、戦っている間には、刀で自刃する機会を失っていた。そこで彼は、ついに可能な限りのばした舌を噛み、出血多量のために衰弱し、意識がないまま、牢獄に連れてこられ、そこで数時間後に死亡した。この真相報告は、彼の友人で同じように勇敢で不屈な私の門人二宮敬作から聞いたものである。

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解説 森裕美子


高野長英はシーボルトの教え子やってんなあ。

亡くなったんは1850年。

上の文章はシーボルト(1796~1866)の1861年3月12日付の日記。


1828年のシーボルト事件で国外追放になってしもたあと、日本に来るのはあかんかったんやけど、1858年にこれが解除になって、また日本に来てもええことになったんや。

久しぶりに門人たちと会うのはうれしかったやろなあ。

シーボルトが初めて日本に来たのは1823年、そのとき27歳。ひょえー。

ほんで、ちょうど200年前の1824年に長崎で「鳴滝塾」ってゆうのを開きはった。

そこでオランダ語、医学、植物学、薬学なんかを教えたり、病人を診たりもしてた。

ぎょーさんの門人も育てはった。

これ、鎖国してた日本にとったら影響力大きいよなあ。

西洋の科学に触れることができたんやから。

シーボルトは日本が大好きになってしもて、「もう帰りたない」と思てたみたいやったけど、シーボルト事件が起きてしもた。

シーボルトに地図を渡した天文方の高橋景保は捕まって獄死しはった。

悲しすぎるやん。


この本は1859年から1862年の日記を解説付きでまとめてあるねん。

長崎から横浜、そっから江戸に行ったときの様子がよーわかるわ。

日々ごとの気温、気圧が書いてある。

植物、虫、鳥の名前も。

それに地震の記録もやけに多いなあ。

これ、安政の大地震て呼ばれてるやつの余震かなあ。

当時、幕末の江戸では外人が殺されたり、浪人がうろうろしてて物騒やったみたいや。

イギリス公使館が襲撃されたとき、シーボルトがいた赤羽根の宿舎でも厳重警備になったらしい。

こわー。


シーボルトは江戸でやってた仕事のことはあんまり書いてへん。

日本にいるはずの妻の瀧や娘のイネのこともなんも書いてへん。

なんでなんやろなあ。

2024年6月19日

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第七十八回

『アンデスに宇宙線を追う』   P55

藤本陽一/著

岩波書店/発行 1979年  


P55

 全体で120トンもある鉛の板と、3000袋あまりのたくさんの封筒をすべてサンドウィッチにしてエマルジョン・チェンバーを組み立てる作業は大変なものだ。そのために私たちの仲間と共同研究の相手のブラジルの研究者とがチャカルタヤに行くのだが、高所に馴れてない二~三人の力ではとてもできる仕事ではない。10人あまりのインディオの諸君の応援を得て、一週間あまりの連続重労働でやっとできあがる。アルチプラノに生れて育ったインディオの人びとの強さは、眼をみはるほどである。重い鉛板を重ねて頭の上に差し上げて、重量あげの競争をしてよろこんだり、鉛板を背負って走るような速さで運んだりして私たちを驚かす。この強力な応援団のおかげでチャカルタヤの実験は支えられている。

 組立てを終ったエマルジョン・チェンバーは、宇宙線をつかまえるために張られた網である。高いエネルギーの宇宙線がエマルジョン・チェンバーにやってくると、鉛板で衝突をおこしたくさんの粒子を発生して、それがX線フィルムと原子核乾板に写ってつかまえられる。こうやってエマルジョン・チェンバーは、研究者が常時傍(そば)についていて面倒をみなくても、つぎつぎにやってくる宇宙線をひとりでつかまえてくれる。

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解説 森裕美子


ここは、標高5000mを超える場所、南アメリカのボリビアにあるチャカルタヤ山やで。

そこに行くだけでも大変やんか。

なんで、わざわざこんな高いとこで実験してるんかてゆうたら、宇宙線は高いとこと低いとこでは姿が変わってまうからやねん。

それに高エネルギーなやつは高いとこの方がぎょーさんあんねん。

宇宙線は、陽子とか、素粒子とか、ガンマ線みたいな電磁波の仲間とかいろいろや。

これな、落ちてくる途中で変身してまうねん。

変身するときに2つとか3つとかに分身するからどんどん増えてシャワーみたいになんねん。

その様子を捉えてくれるんがエマルジョン・チェンバーや!


 著者の藤本陽一(1925~2022)は実験物理学者。

1962年からアンデスでお仕事してはった。

この実験場では、1947年にブラジルのセザーレ・ラッテス(1924~2005)が中間子を発見しはった!

中間子は、湯川秀樹が「こんなんあるかも」ゆうて予想した粒子。

本の67ページに中間子をつかまえた原子核乾板の写真があったから載せるで。

この写真はものすごう拡大してあるで。

顕微鏡で調べてるんや。

 

下にAと書いてある横のπは中間子のこと。

AからBまでがミューオン(当時はミュー中間子と呼ばれてた)で、その飛距離は600μm、Bから左は電子。

π中間子がミューオンに崩壊して、さらに電子に崩壊したとこ。


中間子の発見で1950年にノーベル賞をもらいはったんはイギリスのセシル・パウエル(1903~1969)。

若いラッテスはそのチームの一人やってん。

世界で誰も見てへんもんを見たんや。

藤本もやけど、実験物理は人を動かす能力も必要や。

いろんな人に支えられてんのがわかるなあ。

2024年5月24日

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第七十七回

『ノーベル賞』   P9

白井俊明/著

弘文堂/発行 1950年  


P9

 ノーベルの発明したダイナマイトは、人類の福利を増進する平和的事業(土木業など)の利器として使用される外、職場において幾多の生命を屠った。生来理想主義であった彼の心はこの矛盾に苛まされたが、「武器を置け」という小説の著者で彼の知人であったベルタ・フォン・ズットナー夫人の平和思想に影響されるところ大きく、こうして遂に「人類の幸福増進に貢献する科学上、文学上並に平和上の功労者」に酬いる「ノーベル賞」が、彼の遺言によって設置されるようになったのである。

 その遺言書には次の如く書かれてあった。『・・・余の残った財産は左の如く処分されたい。遺言執行者により有価証券に振替えた資本は、これを以て一個の基金を設定し、各年度に生ずる利子を以て、前年度中人類のため最大の貢献をした人々に贈与されたい。 即ち利子はこれを五等分し、一部は物理学の領野に於て最重要な発見乃至発明をした人へ、一部は最重要の化学的発見乃至改良をした人へ、一部は医学並に生理学の領野に於て最重要の発見をした人へ、一部は理想主義傾向の最も高い文学作品を創作した人へ、一部は国際間の友誼化のため、軍備の撤廃又は縮少或は又平和会議の形成と拡張のために最大乃至最善をつくした人々へ、授与されたい。(6行略) 』

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解説 森裕美子


アルフレッド・ノーベル(1833~1896)の遺産は、約三千万クローネって書いてあったわ。

日本円に直したら4億円?くらいらしい。

けど、百年以上前の話やからなあ。

今やったらものすごい金額なんやろなあ。

賞金には利子を使てるから何年たっても続けられる。

ノーベルは自分が残したもんが、こんな有名な賞になるって想像してたやろか。

それにしても遺言ってすごいなあ。

今でもちゃんと守られてるんがすんごいわ。

経済学賞は遺言にないやろ。

あれはほんまはノーベル賞やないねんて。

そやから賞金もノーベルの遺産やのうて他のとこから出てるんやて。


文中に出てくるズットナー夫人は、平和活動家で、1905年にノーベル平和賞を受賞。

秘書を務めはったことがきっかけでノーベルと知り合いになりはった。

ノーベルは自分が発明したダイナマイトが戦争に使われてたから、戦争を止める方法を誰よりも考えてはったんや。

そやから彼女のやってる平和活動に関心があったんや。

ノーベルはダイナマイトが抑止力になるって考えてたのに、現実はそんな甘うなかったからな。

ノーベルに影響を与えた、ズットナー夫人の『Die Waffen nieder!(武器を捨てよ!)』読んでみたいわー。(まだ読んでへんのんかい!)


この本の著者、白井俊明(1900~1975)は化学者。

読むとこが40ページ足らずのこの本のうち前半はノーベルのことを書いてて、後半はノーベル賞をもろた25人が次々登場してくるねん。

1900年代前半の科学にとって激動の時代を説明してくれてまっせ。

特に物理学。

レントゲン、キュリー夫妻、アインシュタイン、ボーアとか。

ノーベル賞が有名になれた理由がこれなんちゃうやろかなあと思てまうなあ。

タイミングってあるんかなあ。

2024年4月25日

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第七十六回

『逆転の発想』   P91

糸川英夫/著

プレジデント社/発行 1974年  


P91

 私は以前、人工衛星を打ち上げる仕事をしていたのだが、鹿児島の内之浦などという場所は山また山の、自然そのままの土地だった。山が五つくらいあって、急に海へ落ち込んでいる。断崖絶壁で、平らなところはほとんどない。 「ここでロケットを上げよう」 といい出したら、各省庁とも大反対する。道路もないし、平地もないから建物も建てられないはずだと言う。

私は山があるわけだから、山のてっぺんを削れば台地ができるし、削った土で道路ができるじゃないかと主張した。そうしたら、あいつは気違いじゃないかと言われだした。しまいには、地質学の先生まで出てきて、かこう岩だと発破をかけても、簡単には削れないと主張するのである。かこう岩かどうかはダイナマイトをかけてみなくては分からないと言うので、それなら確率は五〇%ある。

科学の研究はだいたい五%ぐらいの確率があればやるわけで、五〇%というのは非常に高い確率だということになって、ようやく工事にとりかかった。

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解説 森裕美子


鹿児島には2つのロケット発射場があるやんか。

一個は、内之浦宇宙空間観測所で、もう一個は、種子島宇宙センターや。

「内之浦がええやん」って決めはったんは糸川英夫(1912~1999)やったんやなあ。

知らんかったわあ。

糸川は日本で最初にロケットを作りはった人や。

23㎝のロケット。

ちっちゃ!! 「ペンシルロケット」てゆわれてた。

バカにしたらあかん。

これが糸川流、逆転の発想や。

  

戦後の日本で借金ぎょーさんあんのに、ロケットなんか作られへんと普通やったら思てまう。

ちっちゃかったけど、ちゃんと飛んだんやで。

だんだんと作れるロケットは大きなってな、秋田県の道川ってゆうとこで日本海に向けて飛ばしてたんやけど、高う飛ぶようになって、そこでは危ないゆうことになってしもてん。

そやから他のとこを探しはった。

  


太平洋側がええからと候補になったんは、北海道襟裳岬、青森県下北半島、茨城県神栖村、和歌山県太地町、宮崎県串間市、鹿児島県内之浦町、鹿児島県種子島、の7カ所や。

( 宇宙航空研究開発機構発行「内之浦宇宙空間観測所の50年」による ) 

現地調査に行った糸川は内之浦に決めたんや。

1961年のことや。

山の上にロケット発射場を作るなんて、他の人には、まあ考えられへんかってんな。

道路もなかったし。

今ではすっかりロケットの町にならはりましたわ。


この本はベストセラーになったんやて。

ロケットのことはあんまり書いてへん。

60歳を過ぎてから始めはったバレエのこととか書いてあるわ。

大胆な人やなあ。発言も大胆や。

けど、先見の明がある人やったんやと思うわ。

糸川が、今の日本を見たらなんてゆわはるんやろかなあ。

聞いてみたい気がするわ。

2024年3月27日

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第七十五回

『光る生物の話』   P55

下村脩/著

朝日新聞出版/発行 2014年  


P55

 その前夜のことである。いつものように結晶化の方法をいろいろ試していたが、夜11時頃になって、もう試してみる案がなくなってしまった。それで残っているサンプルを加水分解してアミノ酸分析に使うこととし、黄色いルシフェリンの溶液に同量の濃塩酸を加えた。サンプルの色は前におこなったときと同じく、どす黒い赤色に変化した。それをいつものようにオーブンで加熱しようとしたが、オーブンが用意してなかったのである。私はそこで、まだ塩酸を加えたルシフェリンを放置する実験をしていなかったことに気づいた。というのは、ルシフェリンがアミノ酸の化合物であればたぶん塩酸で分解するであろう。しかし、たとえ無意味であっても害はないから、私はサンプルを加熱せずに放置することにした。そして、サンプルの入った濃赤色の試験管を机の上に置いたまま帰宅した

翌朝、実験室に来たら、試験管中のサンプルが無色透明になっていた。多分加水分解したのであろう。しかしよく見たら、試験管の底に黒いごみのようなものがほんの少しあった。顕微鏡で調べたらそれが赤い針状結晶だったのである。結晶化は、濃塩酸中という常識では考えられない条件で起きたのであった。このルシフェリン結晶化の成功は、私の生涯で最もうれしい瞬間であった。

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解説 森裕美子


これは、1956年2月のことや。27歳の下村脩(1928~2018)は、この実験を全身全霊でやりはった。

ルシフェリン、知ってるでえ。

ホタルが光るのはこの物質のおかげや。

けど、下村がこのとき実験してたんは、ウミホタルルシフェリンやねん。

ホタルルシフェリンとは別もんなんや。

  

えーっ!? ルシフェリンって何種類もあんのんかい!

  

下村は、誰にもできんかった結晶化に成功してよかったなあ。

結晶が作れたら、それにX線をあてて回折像を調べて、ほんで構造を考えるんやろなあ。

X線回折像はDNA二重らせん構造の発見物語にも登場してたなあ。

とにかく結晶にするんは大事なことらしいな。

  


この成功は、オワンクラゲの緑色蛍光タンパク質GFPの発見 (これで2008年ノーベル化学賞受賞) につながっていくんや。

GFPより先に見つかったんが、イクオリンってゆう青色に光るタンパク質や。

GFPはこのときのおまけで見つかったんや。

おまけでノーベル賞もらいはったんやからすごいなあ。

GFPはお役にたつことが多かったからなんやけど、イクオリンも役に立つねんで。

イクオリンはカルシウムイオンがあったら光るから、カルシウムがあるかどうか調べるのに使うんやて。


話を元にもどしてウミホタルのことなんやけど、海やったらどこでもおるもんやと思てたらちゃうねんて。

外国にはあんまりおらんらしい。

そやからウミホタルを研究したかったら日本から送ってもらわなあかんねんて。

へー、びっくりや。


下村は発光生物を研究する人が少ないわってゆうてる。

そのうちの一人でもある横須賀市博物館長やった羽根田弥太(1907~1995)とは長いつきあいがあったことを書いてはる。

羽根田の娘である由紀さんは、ちょくちょく理科ハウスを訪ねてくれはって、いろいろ教えてくれはんねん。

ありがたいですわ。

2024年3月1日

 

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第七十四回

『化学史傳』 第八章 メンデレエフ   P339

山岡望/著

内田老鶴圃新社/発行 1968年  


P339

 1869年の三月六日、セント・ペテルスブルグ大学において開かれたロシア化学会の例会の席上で、一つの歴史の論文が発表せられた。ロシア化学会は前年の末に創立せられたばかり、創立早々目出たい幸先をこの歴史的論文によって祝われた次第であった。その論文は ”元素の性質とその原子量との関係” 、著者は同大学の教授メンデレエフ博士、折悪しく教授が出席出来なかったために会の委員メンシュトキンが代ってこれを紹介した。

その内容は極く簡単なもので、元素のすべてを原子量の小さいものから順番にならべて行くと同じような性質をもった元素を同じ列に納まるように排列することが出来る。ここまではニューランヅの発表と同じように思われるけれども、メンデレエフはその上に次のことを加えた。すべての元素をかくの如く排列した場合に、各元素の原子価の間の規則正しい関係を認め得ること、またこの排列において、ある元素の未知の性質を見出し得ること、またこの排列において、空席に相当する所の若干の未知元素の発見を予想し得ること、要するに、元素の性質がその原子量の値によって支配されているということが判る。

翌々年、メンデレエフは以上の主旨を大いに敷延して、非常に詳しい、そしてまた非常に行届いた論文を作り、これに ”元素の週期律” という題を与えて、ドイツの ” リービッヒのアンナーレン” 誌上にこれを発表した。

(週期律の漢字は原文のまま)

以下はニューランヅとメンデレエフの周期表(p316,p319)

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解説 森裕美子


ニューランヅ(英)の考えたんは「オクターヴの法則」と呼ばれてるん。

二人の他にもフランスのドゥ・シャンクルトアは「テルールの螺旋」てゆうのを考えはった。

これは円柱の表面に元素を並べていく方法や。

ドイツのローター・マイヤーも発表しはった。

あっちでもこっちでも元素を並べてる人がおったんやな。

そやけど他の科学者は、並べるんが面白かったらアルファベット順に並べてみたらええやんてゆうて、冷たい眼で見てたそうや。

メンデレエフ(1834~1907)の周期表はすぐれてたけど同じような反応やったらしい。

ところがや、論文が出た4年後の1875年にメンデレエフが予言してた元素、ガリウムが見つかって、さらに4年後、今度はスカンディウム 、ほんでほんで6年後にはゲルマニウムが見つかったんや。

予言してた元素が次々と見つかって、さすがにこれはすごいわあ! ってなったんやなあ。

メンデレエフの周期表を眺めてたらなんか今のとちゃうなあと思うやん。

一番右側にあるはずの貴ガスたちがおらん。

なんでー?と思て調べたらアルゴンの発見は1894年、ヘリウムの発見は1895年(これ以前に太陽光スペクトルでは見つかってたけど)やた。

希ガスは他の元素と化合しにくいから見つけるのが難しかったんやて。


メンデレエフの写真を見たらおひげがごっつう立派やんか。

頭やひげは一年に一度、夏になる前に切ってたらしい。

ひげの科学者はぎょーさんおるけど、やっぱりメンデレエフが一番やな。

ロシアでは国葬されるほど有名人やったんや。

  


うちのじーちゃん(石原純)が『偉い科学者』の中でメンデレエフについて書いてんねん。

青空文庫で読めるから読んでみてな。

石原純 メンデレーエフ (aozora.gr.jp)

2024年2月12日

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第七十三回

『発見者ファラデー』    P55

ジョン・チンダル/著

矢島祐利/訳編

社会思想社/発行 1973年  


P55

 彼は磁電気の発見をパリの友人アシェット氏へ手紙で知らせました。アシェット氏はこの手紙をフランス科学学士院へ提出しました。その手紙は訳して公表されました。そうすると二人のイタリアの科学者が直ちにその問題をとりあげて多くの実験をおこない、ファラデーの論文が公表されないうちに結果を発表してしまいました。これは彼をいら立たせたようです。彼はイタリアの科学者たちの論文を 『フィロソフィカル・マガジーン』 へ再録し、これにきびしい批評をつけました。また彼は1832年12月1日付でゲーリュサックに手紙を書きました。ゲーリュサックは 『アナル・ドゥ・シュミー』 の編集者の一人です。この手紙で彼はイタリアの科学者たちの結果を分析し、彼らの誤りを指摘して彼の性格について汚名を着せられたと彼が思う点について弁解しました。この手紙の体裁は非の打ちどころのないものです。というのはファラデーは紳士として以外には書けなかったからです。しかし彼はやろうと思えばもっとこっぴどく書けたことが文面からわかります。私どもはファラデーがおだやかで優しく柔軟なことについて多く聞いております。それらは全部真実ですが、たいへん不完全です。(3行略) 彼のおだやかさとやさしさの下には火山の熱があったのです。彼は興奮することのできる、火のような性質の人でしたが、その火を無用な感情に費やさないで、生命の中心の輝き、また原動力に変える高い自制心を持っていました。

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解説 森裕美子


これは、ファラデー(1791~1867)でも怒ることがあんねんなあ、というエピソードやねん。

「磁電気の発見」てゆうのは1831年の電磁誘導の発見のことやで。

ファラデーを最も有名にしたやつや。

他にもぎょーさん発見してるけどな。

問題になった二人のイタリアの科学者てゆうのは、ノービリとアンティノリとゆう名前の人や。

どんな人らか調べてもわからんかったわ。

この二人の書いた論文は、「ファラデーはまちごうてまっせ」てゆう内容やったし、ファラデーからしたら論文の中身もまちごうてたんや。


そやのに『アナール・ドゥ・シュミ―・エ・ドゥ・フィジック』(化学・物理学年報)に載せてもろてるやん。

これは、なんぼおだやかなファラデーでも「なんでやねん!」てなるわな。

書いた手紙はこの本の付録でつけてあるんやけどめちゃ長いねん。

どこがまちごうてるか、説明せなあかんかったからや。

内容はアラゴーの円板の渦電流の説明やねんけど、ちょっとむずかしい。

ファラデーはアラゴーの円板にヒントをもろて発電のしくみを思いついたんや、って知らんかったわー。


この本の著者、チンダル(1820~1893)は「チンダル現象」とか「チンダルの花」とかで有名やな。

チンダルはファラデーの後を引き継いで王立研究所の実験主任になりはった。

出会いは1850年頃やったから17年くらいの付き合いやったけど、ええ関係やった。

チンダルがファラデーに王立学会の会長職を引き受けてほしいと頼みに行ったとき「チンダル君、私は最後までただのマイケル・ファラデーでいなくてはならない」てゆうたんよ。

ファラデーは名誉やお金をちっとも欲しがらん人やったんやなあ。

  


(付録)アラゴーの円板の実験の簡単なやり方

水の上にアルミ鍋の蓋を浮かばせます。強力な磁石(大きなネオジム磁石)を蓋のふちに沿って回転させます。

アルミは磁石に反応しないはずなのに磁石を追いかけるように回転します。

このときアルミには渦電流が発生しています。

2024年1月26日

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第七十二回

『記憶の切繪図』    P208

志村五郎/著

筑摩書房/発行 2019年 (2008年に刊行したものを文庫化) 


P208

 さて1986年の12月はじめのある晩、私は家内といつものようにふたりで食卓に向い合って食事をしていた。子供達はその時にはもううちにいなかったからふたりだけなのである。谷山の話をしていて、それは何かわけがあったのだが今では思い出せない。食事も終り話がとぎれたが私はまだ彼の事を考えていた。ところが突然涙が出て来ておさえられず頬に流れた。すると家内がそれに気がつき「どうしたの」とたずねたが私は答えられなかった。家内は席を立って私の側に来て私の背に手を掛けたがやがて自分の椅子に戻って坐り、私と同じように涙を流しはじめた。私達はふたり向い合い黙って泣いていたのである。

なぜ泣いたか。私達は谷山がかわいそうでたまらなかったのである。「かわいそう」と言うほかによい表現がないのでそう言う。私はその翌日から何かに駆り立てられるような気持であの文章を書きはじめ十日ぐらいで第一稿を書き上げた。こうしてあの一文が出来上ったので、「彼がかわいそうだったから書いたのだ」と言える。これは理解できない人の方が多いかも知れない。またあの英文を読んでいない人にはこの説明は不用かも知れない。それならそれで仕方がないが、私にはこれ以上書けない。私達に関する事実のみを書いた。

        

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解説 森裕美子


志村五郎(1930~2019)は数学者で専門は数論。文中に登場してる谷山豊(1927~1958)も数学者、31歳で自殺してしまいはった。

   

その後、彼の婚約者も後を追ってしまいはったんは悲しすぎるんや。

この二人の名前を聞いても知らんなあとゆう人が多いと思うねんけど、フェルマーの最終定理(ピタゴラスの定理のnバージョン n>2では自然数解はないでという定理)の証明に出てくる「谷山・志村予想」てゆうたらわかると思うわ。

これさえ証明できたら完成するでってゆう重要なとこやねん。


文中の志村が書いた一文てゆうのは、1989年のロンドン数学会の会報に発表した『谷山豊と彼の時代、非常に個人的な回想』てゆう文章のことや。

これ、数学の話やのうて谷山がどんな人やったんかを書いてるねん。

てゆうか、書かずにはおられんかったとゆうことやねんな。

志村が言いたかったことは、「彼は彼の接した人々のmoral supportであった」し、「彼のnoble generosity」に助けられたと。

そやのに彼が苦しんでたときに何もしてやれんかったのが悲しかったんや。

谷山が死んだとき、志村は研究員としてパリにいてはった。


「谷山・志村予想」で有名やけど、この予想は本当は「志村予想」と呼ぶのが正しいらしい。

ひぇー!  これ、びっくりやでー。

この本の解説を書いている時枝正さんが「志村予想」と裏表紙に書いてるし、志村も本の中でやんわりと書いてはる。

  


この予想は、一部分がアンドリュー・ワイルズ(1953~)によって証明されて「フェルマーの最終予想」は、めでたく「フェルマーの最終定理」になったわけや。

証明が完成するまでのいきさつを詳しく知りたい人には『フェルマーの最終定理』(サイモン・シン著 青木薫訳 新潮社)がお薦めですわ。

めちゃワクワクして読めるでー。

2024年1月8日

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第七十一回

『48人の天文家』フラムスチード小伝    P129~145

山本一清/著

恒星社厚生閣/発行 1959年


P129~145

 我々がフラムスチード(Flamsteed) という名を聞いてすぐに思い起す興味は、彼が勅任天文官として、第一代のグリニチ天文台長であったことであり、その地位にいて、彼はニウトンに、月の運動理論のため必要な観測資料を多く提供したということがらである。 (15ページ略)

さて、1711年に、フラムスチードの観測の印刷はアンニ女皇の命令によって再開せられ、その翌年、それは大型のfolio版一冊として発行された。(21行略)

フラムスチードの責任である研究観測上に彼がもつべき権利から考えて、彼の勤勉努力に対し、政府が何物も援助支持しなかったということに関するフラムスチードの困難については、もっと思いやりのある態度がなさなければならぬのである。何といっても、委員会がフラムスチードから提出された原稿を彼の承諾なしに発表してしまったということは、手荒い処置であったといわねばならない。ハリが出版した1712年の印刷物は400部であり、フラムスチードは、そのうち300部をワルポールの厚意で政府から入手したが、彼は、六分儀の観測が印刷されてある数部を除いて、あと全部を火中に投じたのであった。

フラムスチードは、自己の永年にわたる労作が彼の気に入らない無鉄砲な方法で世界に公表され、天文家としての名誉を傷けたことになったのを憤慨して、彼は自費をもって観測の完全な手稿を発表しようと決心した。

        

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解説 森裕美子


あーあ、フラムスチード(1646~1719)を怒らせてしもたやんか。 

自分の本を焼いたんやでー。

どんな気持ちやったんやろか。

できあがった本は1704年に書いた不完全な内容やったから印刷して欲しなかってん。

そやのに、政府が勝手に印刷してしもたんや。

その理由は、フラムスチードをせかしても原稿がなかなかできあがってけえへんからやってんけどな。

フラムスチードのほうにも言い分があるんやで。

1675年にグリニッジ天文台の台長に任命されたんはよかったんやけど、最初、助手は一人もなし、おまけに観測用の器械を買うお金は全くくれへんかった。

ケチな政府に口ばっかり出されて腹立つわーってな。

ほんでちゃんとした本を出そうとして頑張ったんやけど、できる前に亡くなってしまいはった(1725年『大英恒星目録』が出版された)。


文中に出てくる「ハリ」は、ハレー彗星のエドモンド・ハレー(1656~1742)のことやで。

ニュートンは『プリンキピア』の中でフラムスチードの論文を引用したそうやけど、これもいざこざがあって、フラムスチードは消されてしもたみたいや。

  


この本の著者、山本一清(1889~1959)は天文学者。

天文同好会を作ってアマチュア天文家をぎょうさん育てはった。

  


本には、長短あるけどプロ、アマ問わずの天文家が勢揃いで紹介されてる。

ハーシェルは、ほんまは音楽家やったって知らんかったなあ。

 

ケプラーは、母ちゃんが魔女狩りで捕まってしもて大変やったとか。

たくさんある小惑星を族にまとめはったんで名を知られてる平山清次(1874~1943)は、山本の論敵やったからかもしれんけど、けちょんけちょんに書かれてるとこがびっくりしてしもた!!

伝記をまとめて読めておもしろかったわ。


2023年12月22日

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第七十回

『改訂新版 細胞の社会』    P190

岡田節人/著

講談社/発行 1987年


P190

 アメリカのスチュワートは、おそらく永らく生物学の歴史に残るであろう画期的な実験に成功しました。

彼はニンジンの根の師部という名で呼ばれる組織の一片をとりだして、充分な栄養を含んだ培養液を入れたフラスコで培養しました。細胞はどんどん増殖しますが、増殖した細胞は、組織片からバラバラとはなれて、一つ一つの細胞や、少数の細胞の集まった小さな塊となって、培養液中に浮かんでいます。それらを一つずつとって、別の試験管に移します。細胞は増殖をつづけ、塊はだんだんと大きくなり、なにやら若い植物らしいものになってゆきます。これが本当に”植物らしいもの”ではなく、”植物”そのものになるかどうかを調べるために、土に植えると、まさに正真正銘の根、茎、葉を備えた立派なニンジンそのものに育ちました。

このニンジン---あとで述べますが、このようなニンジンをクローン人参と呼んでいます---の根の組織を培養してもまた同じことがくり返され、培養から誕生した第二代目のニンジンをつくることができます。

この実験結果は、発生した植物体の根の師部という組織の細胞の一つ一つが、植物の全生活史を展開し、一個の完全な植物体をつくり得る能力を秘めていることを明らかにしました。

        

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解説 森裕美子


このニンジンの実験に成功したんは1958年のことや。

ドリーてゆう名前になった羊が生まれたんは1996年、こんときはめちゃニュースになったなあ。

クローン、クローン、ってゆうていっぺんにクローンが有名になったわ。

けど、ニンジンのほうは全然知られてへんよ。

植物を育てるときに挿し木とかするやん。

これクローンやからな。

植物でクローン作るの別に珍しなかったわ。

ニンジンの実験はどこがすごいん?


これ、細胞培養ってゆうやり方や。

試験管の中で作るねん。

これやったら大量に作ることもできるで。

絶滅危惧種の保存もできるかもしれへん。 

これのおかげで遺伝子組換えもできるようになった。

最初はニンジンからやってんなあ。


岡田節人(1927~2017おかだときんど) は発生生物学が専門や。

「ときんど」はめずらしいお名前やね。

節分に生まれはったらしい。

この本は多細胞生物の話で、細胞と細胞はどうやって集まってくっついてんのか、イモリの切れた肢はどうやって再生するんかとか、がん細胞の話まで書いてある。

岡田はイモリの眼のレンズが再生するのを培養実験でやりはった。

シャーレの中でレンズができるんやで、すごいなあ。 

イモリにできることがなんで人間にはでけへんのか。

細胞の中には遺伝子が全部揃てるんやからできるはずやって。

そらそう思うわなあ。

ほんでこれを成功させはったんがノーベル賞受賞者の山中伸弥さんや。

今では何でもシャーレの中で作れるようになってきてるんや。

食べられるお肉の培養はまだまだ時間がかかりそうやけどな。


岡田は大阪府高槻市にあるJT生命誌研究館の初代館長でもあったし、科学を伝える仕事をぎょーさんしはった。ステキな科学館やから行ってみてな!

2023年12月2日

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第六十九回

『独創は闘いにあり』    P123

西澤潤一/著

新潮社/発行 1989年


P123

 余談になるが、モネの『すいれん』について思い出す、もうひとつのエピソードがある。昭和33年に初めての海外旅行を経験してから、その後は、何度も海外に行く機会があった。その一つ、46年(1971) のことである。パリのマルモッタン美術館を訪れると、幸いなことにモネの息子ピエールが寄贈した本物の 『すいれん』 が展示されていた。

見ると、逆さまに飾っているではないか。

同美術館は、フランス美術学士院に所属している権威ある美術の殿堂である。まさかそんな間違いをするはずはあるまい、こちらの目がおかしいのだろうと、そのまま美術館を出た。翌年、またパリを訪れる機会に恵まれたので、再びマルモッタン美術館に足を向けてみた。すると、やはり一年前と同じように掲げられている。そして、どうみても逆さとしか考えられない。そこで今度はさすがに気になって、美術館を出る際に名刺にその旨をメモ書きし、役員の女性に渡して帰ってきた。そのすぐあとにその小さなエピソードが 「ル・モンド」 紙の知るところとなり、一件が報道されたそうである。

まったく人間の目 (鑑賞眼または観察眼) というのは曖昧で頼りないものである。

        

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解説 森裕美子


このエピソード、美術館からしたらちょっと恥ずかしいことやったかもしれへんなあ。

そやのに新聞に載ってしもたんや。

新聞社に知られるまでどんないきさつがあったんやろか。

ちょっと興味あるで。

西澤(1926~2018)が有名人やったから記事になったんやろか。


モネの『睡蓮』はな、連作やねん。

そやから同じ題の絵がぎょーさんあんねん (日本の美術館でも見れます)。

スイレンが描いてある水面には写ってる草とかも描いてあるからどっちが上かわかりにくいやん。

  

逆さや、て気づくことができただけでもすごい!

ほんで、西澤は自分が正しいと思たことをちゃんと言える人やねんねえ。


西澤は東北大学の教授で「ミスター半導体」って呼ばれてた。

ノーベル賞、もらえるんちゃうかって言われてたなあ。

次々と新しい半導体のアイデアを考え出して特許も取ってはった。

光ファイバーも特許を出しはったけど「意味わからん」て言われて、結局認められへんかってんて。

この頃は「光通信のニシザワ」て言われてたらしい。

けど、自分では「結晶のニシザワ」のほうがしっくり来るとゆうてはる。

半導体づくりは、結晶をどうやって作るんかってゆうとこが大事らしいわ。


有名人になってもたから、NHK特集にとりあげられはった。

1985年に「光通信に賭けた男~独創の科学者・西澤潤一」が放送された。

学生を指導してる場面があるねんけど、これを見た人から「あんな怒りん坊は大嫌いだ」「まるで鬼道場のようだ」という感想があったそうや。

本の中で自分の気持ちを説明してはる。

「今の若者たちが非常に保守的であることに腹を立て、いらだちを感じているのは事実である」と。

独創的やった西澤には、偉い人の前で委縮してまう学生さんの気持ちはわからんかったかもしれんなあ。

2023年11月11日

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第六十八回

『大陸と海洋の起源』    P180

アルフレッド・ウェゲナー/著

竹内均/訳

講談社/発行 1975年


P180

 第34図を見てみよう。氷河の跡のほぼ中心にあると考えられる南緯50度東経45度のあたりに南極をおいてみても、この極に対応した赤道の位置から考えて、ブラジル、インド及び東オーストラリアにある、極からもっとも離れた内陸氷の跡は緯度約10度のあたりへくる。したがって極気候がほとんど赤道にまで及んでいたことになる。期待されるように、もう一つの半球では、スピッツベルゲンのあたりまで熱帯あるいは亜熱帯の暖かさの跡が残っている。これらの氷の跡を気候学の立場で説明しようという試みはコーケンによってすでに1907年になされている。その頃は南アメリカにおける発見はまだ不確かなものと考えられており、反証であるとさえ考えられていた。彼の結論は、これらの氷河の跡はすべて海面からかなりの高さでつくられたというものであった。しかし、熱帯では、たとえ高地であっても、このような広さの内陸氷をもたない。したがって、彼の結論は否定される。さらにまた、観測事実はまさに逆のことを示している。すなわち、そこでの雪線は海面にまで下げられていた。それ以来、氷河現象を説明する新しい気候学的な研究が何も試みられなかった。

 

この結果は、大陸を不動とする考え方の欠点を示すものである。

        

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解説 森裕美子


第34図のキャプションにある二畳紀な、今はなくなってるで。

     

それな、ペルム紀ってゆうねん。

石炭紀とペルム紀をあわせたら、だいたい3億5千万年前くらいから2億5千万年前くらいの時代。

そのときの地図を今の世界地図にむりやり書いてみたらこうなるで、って、気象学者のウェゲナー(1880~1930)はゆうてるねん。

黒く塗ってあるところは当時の氷の跡が見つかったところや。

 

×印は自転軸の南極がここにあったんちゃうかなって思う場所。

ほんで太い線は赤道や。

ウェゲナーは大陸移動を唱えた人で有名やけど、極も動くねん、赤道も動くねんってゆうてはったんやなあ。

インドとかオーストラリアは当時の赤道に近いのに氷の跡があんのんはおかしいやろ。

そやから大陸はここやのうて×のまわりに集まってたんや!と大陸移動を説明してはんねん。

それからスピッツベルゲンな、これはノルウェーの北の島(グリーンランドの東にある)で、今は北極に近くて寒帯にあたるけど、昔は亜熱帯やったことがわかってんねん。

へえー、おもしろいなあ。


この本はぎょうさんの文献が差し込んであって難しかったけど、章ごとに訳者の竹内が解説を書いてくれてるから、ちょっとわかったで。

ほんで、この本は1929年に書き直された第4版やねん。

1922年に出た第3版はよう売れて日本語にも訳されてんねん。

訳者は仲瀬善太郎で岩波書店から出た。

たぶんこの本はうちのじーちゃん(石原純)も読んだみたいや。

てゆうんはじーちゃんが子ども向けに書いた『地球の生ひ立ち』(1941年 アルス )ってゆう本に大陸は移動しているって話が書いてあんねん。

ウェゲナーの本の内容とおんなじやったわ。

よかったら読んでみてな。

地球の生ひ立ち2

2023年10月15日

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第六十七回

『オーガニズムの観相』 ヴィタミンBの発見    P230

鈴木梅太郎/著

工作舎/発行 1980年


P230

 1886年に蘭人エイクマンがジャヴァに於て、鶏に白米を与ふれば数週間にして脚気様の疾患に罹り斃死するも玄米或は糠(ぬか)を与ふれば之を予防治癒し得る事を実験したのがヴィタミン発見の端緒となったのである。   (31行略)

然るに此際小量の糠或は其水浸液を与ふれば極めて顕著なる効果あるを認め、糠中に特殊の成分が存在するならんと想像して之が探求を試み、明治43年末(1910年) 遂に脱脂糠のアルコール浸液より燐ウォルフラム酸を用ひて一種の有効物質を抽出しタンニン酸及びピクリン酸と化合せしめて之を精製してオリザニンと命名したのである。夫れで島村、大岳氏等と共に数多の動物試験を行ひオリザニンが動物の栄養上欠くべからざる一成分なることを証明して従来の栄養学説に一大欠陥があった事を指摘したのである。此成績の第一報は“東京化学会誌”(明治44年2月 (1991年) ) に掲載せられ、其後引続き45年2月迄に五回の報告が出て居る。余は又44年4月化学会の総会に於ても之に就て講演し、同年6月陸軍脚気病調査会の報告にも発表した。然るに44年12月ポーランド人フンクが英国リスター研究所に於て余等と同様の有効成分を抽出せりと称し、之をヴィタミンと命名した。

(『物理学及び化学』 岩波書店1929 に掲載されたもの)

        

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解説 森裕美子


これはビタミン発見物語やねん。

日本の軍人の間で問題になってた脚気は、死に至る怖い病気や。

玄米を食べてたらならへんのに、白米ばっかり食べてるとかかってしまうゆうて。

これは何か栄養が足らんからやって気がつくまでが大変やった。

ここで登場したんがビタミンやってん。

足らんかったら補えばええだけやん。

けどそれを認めへんかった人がおったせいで解決が遅れてしもた。

脚気の歴史はなんかドロドロしてるんやなあ。


文の初めに名前があがってるエイクマンは、ビタミン発見に功労した(発見はしてない)として1929年にノーベル賞をもろてはる。

脚気の原因となってたビタミンB1の別名はチアミンってゆうねん。

あれっ?

オリザニンとちゃうのん?

ちゃうねん。

化学者、ロバート・ランネル・ウィリアムズが1934年にビタミンB1の分離に成功して、合成もできるようにしはった。

とゆうことは、鈴木梅太郎(1874~1943)が取り出したもんはビタミンB1も入ってたんやろうけど、世界では認められへんかったてことや。

誰よりも早かったのにめちゃくちゃおしいやん! 

鈴木がやった動物実験はハト、ネズミ、イヌ、ブタ、ネコ、ヒツジ、ウサギ。

いっぱいやっててすごい。


ビタミンB1は、植物は自分で作れるけど、ほとんどの動物は作られへんねん。

私が小さい頃、そういえば強化米ってゆうのがあったなあ。

あれはビタミンB1を入れてくれてたんや。


鈴木は農芸化学が専門で、東大の他に盛岡高等農林学校の先生やったことがあったから、かの宮澤賢治も鈴木の講義を聞いたらしい (岩手大学の資料から)。

鈴木はその後、理化学研究所で合成酒の研究もしてはった。

東京上野の国立科学博物館の地球館地下3階には鈴木の展示があるから行ってみてな。

2023年10月1日

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第六十六回

『星の古記録』 シリウスはむかし赤かったか   P139

斉藤国治/著

岩波書店/発行 1982年


P139

 現代の天文学では、シリウスは光度マイナス1.5等、表面温度1万度という青白色に輝く星である。しかし西洋の古記録を調べると、この星は赤かったと書いてあるのに気づく。たとえば、紀元前700年ごろに書かれたバビロンの粘土板文書には、「この星カクシディは晩秋の東天にのぼり、銅のように輝く」という記事が発見される。(4行略)  古代ローマ時代になると天文記録は多い。そこではシリウスはしばしばドッグ・スターと呼ばれ、またときに「赤い犬」とも呼ばれている。とくに、セネカ (前4~後65) が「この犬星の赤味たるや火星よりもずっと濃く、木星などは問題にならないほどだ」と記しているのは、他に読み誤りようがない書き方である。かれのほかにも、当時の雄弁家キケロ (前106~前43) や博物学者プリニー (後23~79) なども、シリウスを赤い星と呼んでいる。

 

これらのなかにあって、もっとも決定的なのは、プトレマイオス (150年ごろ) の大著『アルマゲスト』である。かれはアレキサンドリアで天体観測と研究とをした天文学者で、天動説を唱えた人としてもっとも有名である。かれの時代の天文知識を集大成した書物が『アルマゲスト』で、この書には一千個以上の恒星のリストが載っている。一つずつの星の天球上の経度・緯度や星座中の場所の説明を含み、光度等級も与えてある。このなかで、かれはこの星のことを、「シリウスと呼ばれる非常に明るい赤味がかった星」と書いている。

        

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解説 森裕美子


これ、ちょっとワクワクする話やんか。

シリウス (おおいぬ座) ゆうたら誰でも1回くらいは見たことあるやろ。

恒星 (太陽を除く)の中で一番明るい星やで。

上の説明によるとおよそ1000年の間、シリウスは赤かったことになってまうなあ。

ほんまなんかなあ。

キケロもセネカも政治家やから、まちごうてしもたかもしれんけど、信用できるプトレマイオスまでがゆうてるのは、ほんまに赤かったってことやん。

著者の天文学者、斉藤(1913~2003)はこの謎を解説してくれてはる。

その答えの仮説は3つ。まず「誤記説」。

他の星とまちがえたか、書き間違えたかもしれん。


それから「シリウスの伴星が赤色巨星だった説」。

これちょっと説明がめんどくさいけどやってみるで。

シリウスはもともと2つの並ぶ恒星の片割れやってん。

そのもう一個の恒星が赤くてでっかい星になって、その後、めちゃちっこい(地球サイズ) 白色矮星になってしもてん。

今はこの状態やな。

そやからその伴星が赤かったときやったんちゃうかって話。

ほんまにそうやったら、2000年くらいで今の状態になるのはありえんらしい。

だからこの説はあかん。


最後に「赤いの意味が今とは違う説」。

赤いは明るいの意味で使ってたんとちゃうかなってことらしいけど、結局どれも説得力ないねん。

ネットで探してみたら、他にも第三の星説とか星雲説とか見つかったけど、これや!ってゆう説はまだないみたいやねん。

白色矮星になってやがて消えてまう、このちっこい伴星をどっかの天文台に行って望遠鏡で見てみたいわあ。


この本には、明治7年12月9日の金星太陽面経過の観測の話も載ってるで。

横浜の山手や野毛山が舞台になってておもしろかったで。

野毛山には記念碑も立ってるんやて。

2023年9月17日

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第六十五回

『ミクログラフィア』   P48

ロバート・フック/著

板倉聖宣、永田英治/訳

仮説社/発行 1984年


P48

 私が本書の執筆に着手いたしましたのは、まさにこの閣下(ウィルキンズ博士)の助言によるものであります。けれども、じつは気の進まないところがありました。というのは、この種の事柄なら何でも最初に取り組んだ人であるレン博士のような抜きんでた人のあとに続くことになったからです。レン博士の筆になる描画は、今では、国王陛下の私室にある珍品の大コレクションに光彩をそえるもののひとつとなっています。博士の手になるこの種のものが、世界のもっとも有名な場所で認められたその名誉は、私を勇気づけてくれましたが、それ以上にレン博士のあとに続くという大それたことをすることが私を恐れさせたのです。というのも、レン博士は、「アルキメデス以来、博士ほど機械の手のような完全さと哲学的精神とをそなえた人は、他にひとりもいない」と断言しうるほどの人だからです。

 

しかし、ウィルキンズ博士が、「(レン)博士はもう顕微鏡による研究の計画を断念している」と言ってくださったばかりでなく、レン博士御自身もそう言ってくださるし、またこの研究をもくろんでいる人は他に誰もいないということを知ったので、私はとうとうこの仕事に着手したのです。名誉ある王認学会は、私がこの企てを勧めるのを少なからず励まし、私が学会に提出したスケッチ (それは私が機会あるごとに描いたもので、学会に認めていただいたものです) を私に与えてくださいました。そして、私のひとかたならぬ友人でもあった学会の貴顕、何人かの人びとの激励によって、ことさらに勇気づけられました。

        

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解説 森裕美子


この本の日本名は『顕微鏡図説』(1665年刊)とか言われてるから、内容は顕微鏡での観察を記したもんやろなあと思ててん。

けど、そやないねん。

月のクレーターなんかも描いてあるで。

これ、望遠鏡やからな。

   

それに加えて著者の考える光の波動説とか、分子運動論とかも書いてある。

本人は「気の進まない」て書いてるわりには、てんこ盛りでぐちゃぐちゃやん。


もちろん、顕微鏡で観察したもんの図も80面くらいはあるで。

有名なんは「セル(細胞)」っていう言葉が使われることになったコルクやな。

他には針の先端、ノミ、ダニ、シラミ、ハエ、ボウフラ、クモ、カニムシ(?)、アリ、カビ、カイメン、海藻、カタツムリの歯、白雲母、雪の結晶、とかいろいろや。

著者のフック(1635~1703)はイギリスの物理学者。

バネの「フックの法則」で知られてる人やで。

フックは王認学会 (科学団体で王立学会ともよく呼ばれてるけど、王が作らせたわけやないからこの名前のほうがええと訳者の板倉は言ってる) の実験担当者やってん。

毎週のように顕微鏡で観察して学会の人達に見せてたんや。

そやから学会を代表して書いたようなもんや。


物理学者やのに、なんで顕微鏡観察してんのかなあと不思議やってんけど、この本の序文を読んだらようわかったわ。

上の文はその長い序文の一節や。

フックは実験も、絵を描くのも得意な人やったんやなあ。


この本は『ミクログラフィア』の訳やねんけど、全文は訳されてへんねん。

けど、図はだいたいは載ってるらしい。

仮説社からは原寸大の図版集も出てるで。

本物の『ミクログラフィア』は東京都文京区にある印刷博物館に行ったら展示してあるから行ってみてな。

2023年9月3日

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第六十四回

『アインシュタインの世界』   P282

レオポルト・インフェルト/著

武谷三男、篠原正瑛/訳

講談社/発行 1975年


P282

とにかく、アインシュタインと共著で本を書くという、この計画のおかげで、わたくしの経済的な問題のことごとく解決されてしまった。というのは、アインシュタインと共著の本を書くという予告だけで出版社は、高額な金を前払いしましょう、といってくれたからである。

いよいよ共著ときまってからは、アインシュタインはこの計画の実現にむかって、たいへんな熱意をしめしてくれた。この仕事をいいかげんに考えているような態度を彼がみせたことは、一度もなかった。この本を書くという仕事に、彼は日一日と興味をおぼえてきたのである。

「それは、すばらしいアイディアだ・・・・」という言葉を彼はいくたびとなく口にした。われわれ二人は、本ができあがるまでに、いくたびとなく討議をかさね、計画を変更し、内容を修正した。しかし、いよいよ本ができあがってしまうと、その瞬間からアインシュタインは、この本には全然興味がなくなってしまった。この本にたいする彼の関心は、二人がこの本の仕事をしているかぎりずっとつづいていた。―――しかし、二人がこの本を書きあげてしまったその瞬間に、彼のその関心もおわったのである。

        

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解説 森裕美子


できあがった本の名前は「The Evolution of Physics」(1938年)。 

で、日本語に訳された本の名前が「物理学はいかに創られたか」(上下巻 岩波書店)や。

   

訳を書いたんは、うちのじーちゃん(石原純)やで。

この本は世界中で翻訳されて名著となったんや (おかげで石原家の経済状態も助けられました)。


物理学者のインフェルト(1898~1968)は、アインシュタイン(1879~1955)との共著を思いついたとき、おそるおそるアインシュタインにお願いしてみたんや。

そしたらインフェルトの苦境をなんとかしようと考えてくれてたアインシュタインはすぐにオッケーしてくれてん。

よかったなあ。

そんだけインフェルトのことを認めてはってんよ。

そやけどできあがった本に対してのアインシュタインの関心なさすぎたエピソードはなかなかやで。

装丁に興味がなかった、書評は読まない、できあがった本を1ページもめくらなかったとか! 

アインシュタインに言わせると「わたくしがこの本についていうべきことは、みんな、この本のなかに書いてありますよ」やて。

そりゃそうやな。

納得してまうわ。


上に紹介したインフェルトの本は、アインシュタインが物理学でやりはったことを解説してくれてはる。

特殊相対性理論と一般相対性理論のちがいの説明はわかりやすかったわ。

それにアインシュタインの人となりが感じられるエピソードもぎょうさん盛り込んであるしええな。


それに比べて『物理学はいかに創られたか』の方は難しいって感じるわ。

原稿はインフェルトが書いてんねんけどな、アインシュタインが加わるとこうなってまうねん。

私は上巻は読んだけど下巻はまだ読んでへん。

けど本を作ったときの様子を知ってもたから、なんか読みたなってきたわ!

2023年8月20日

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第六十三回

『ジョリオ・キュリー遺稿集』   P75

フレデリック・ジョリオ=キュリー/著

湯浅年子/訳

法政大学出版/発行 1961年


P75

放射や元素変換の現象は原子核の中に起るものです。これらの現象を説明するのに、当時は原子核が陽子と電子からなっていると考えていました。電子の存在はβ放射の現象を説明するために必要だったのですが、これが大変困った問題になってきました。(7行略)

中性子の発見を可能にした実験についてさかのぼると、ドイツで一九三〇年に発表されたボーテとベッケルの実験があります。彼らは既知の軽元素、硼素やベリリウムなどをポロニウムのα線で照射すると、γ線と思われるような透過性の強い放射線が放出されることを示しました。 (6行略)

 

ボーテとベッケルがこの放射線をガイガー・ミューラー計数管で測定したのに対して、私たちはきわめて感度のよい電気計に連結した電離函やウィルソン霧函で測定しました。このようにして私たちは迅速にボーテ・ベッケル線の本質的な性質、すなわち通過物質の原子核を高速度で射出するという事実を明らかにしました。このとき使った電離函は極めて薄いアルミニウムの箔を密にはったもので、放射線の通路上におかれたセロファンやパラフィンなどの極めて軽い物質でできた遮蔽板から射出される核のきわめて強い電離作用をみとめることができたのです。10センチの鉛を通過しても、ちょっと弱くなるだけのボーテ・ベッケル線を研究するために一平方センチが数ミリグラムの薄いアルミニウム箔で電離函の窓をはるのは矛盾しているようにみえるかもしれません。しかし、私たちはこの放射線の二次作用を知らないわけですから----その作用の或るものがきわめて透過力の弱い放射線を放出するかも知れないと考えて、このようにしたのです。だからもし、ずっと厚い壁だったら核の射出作用は多分発見できなかったでしょう。ここで、このことを強調するのは、いつも一つの実験の計画とその進め方を非常に重大視するからです。たしかに前以て練った考えをもって仕事にかかることは必要でしょう。しかし可能なときにはいつでも実験は予期せぬ事態に対して、できるだけ窓をあけてあるように計画すべきです。大は小をかねるのです。

        

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解説 森裕美子


フレデリック(1900~1958)の名前はジョリオやねん。

かの有名なキュリー家の娘のイレーヌ・キュリーと結婚したとき、キュリーの名前が消えるのはあかんってなってジョリオ=キュリーって名乗ることにしてんて。

   

そやから、文中の「私たち」ってゆうんは自分とイレーヌのことやで。

二人は人工放射性元素の研究で1935年のノーベル化学賞をもろてはる。

同じ年の物理学賞はチャドウィックがもらいはった。

その理由が「中性子の発見」やってん!

上の紹介文を読んでもわかると思うけど、二人は中性子を眼の前で見てたんやんか!

ボーテ・ベッケル線てゆうのは中性子のことやったんや!


文中にも書いてあるように当時は原子核って陽子と電子でできてんねんや、と思われててん。

なんでかゆうたら原子核から出てくるβ線ってゆうのは電子やからや。

そら、原子核の中にあるもんが出てきたんやなあって誰でも思うわなあ。

原子核のまわりにも電子があるやろ、ややこしいから区別するために核電子って呼ばれてたみたいや。

ほんまはそんなもんあれへんで。

中性子はβ崩壊して陽子と電子に変身すんねん。

それがβ線となって出てくるねんで。

二人が実験でパラフィンをつこたんがまたよかってん。

パラフィンから出てきたんは陽子やった。

この実験がチャドウィックにヒントを与えることになってしもたー。


この本を訳したのは物理学者の湯浅年子(1909~1980)。

フレデリックのところで研究してはった。

そばで見てた人やから訳にも心がこもるなあ。

フレデリックは原爆反対の運動にも尽力しはったで。


ほんでイレーヌが亡くなりはった日が、私の生まれた日やねん。

どうでもええことやねんけどな。 

2023年8月6日

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第六十二回

『宇宙を観た人』   P98

中村誠太郎/著

平凡社/発行 1977年


P98

ニュートンが万有引力を発見したのは、一六六五年~一六六六年の間、ペスト流行のため田舎で静養中のことである。庭のリンゴが木からおちるのをみたときはっと気が付いたという。地球が遠くはなれた月を引く力と、地上の木についたリンゴを地球が引く力が同じ原因によるかも知れないというヒントはすばらしい天才の賜物であろう。(10行略) 


ニュートンが実際に計算してみると、ガリレオの地上の物体に働く引力の値と、ケプラーの法則による地球と月の間の引力の値とは一致しなかった。両者の間には約二十パーセントの差があったからである。落胆したニュートンはこの理論を発表せず机の中にしまっておいた。一六七一年から一六八四年にかけて、フランスの天文学者ピガールが地球の半径について精密な測定を行なった。その結果、昔の値二九七、二五一パリジャン・フィートは誤りで、三四二、三六〇パリジャン・フィートが正しいと発表された。これをきいたニュートンは早速この新しい地球の半径の値を用いて計算をやり直した結果、ガリレオの出した値とケプラーの値はピタリと一致することを見出した。ニュートンはこれに自信をえて、約二年間月だけでなく太陽系の各惑星の運行を、万有引力の仮説と運動法則とに基づいて、詳細に分析した。その結果、それまでに説明が十分できなかったいくつかの観測事実を見事に統一することができた。

        

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解説 森裕美子


この文章は、ニュートン(1642~1727)がリンゴが落ちるのを見て万有引力を発見したってゆう、あのめちゃくちゃ有名なエピソードの解説や。

リンゴは落ちるのになんで月は落ちてけえへんねん! 

リンゴの落ちる法則はガリレオ(1564~1642)が作ってはった。

月のほうはケプラー(1571~1630)や。

これ、ひょっとしておんなじ法則ちゃうのん?

ニュートンは同じと考えて計算したけど、1666年には失敗してたんや。

これはあんまり聞いたことなかったでー。


失敗の理由は当時知られていた地球の大きさに誤差が大きかったからやねんな。

引力計算するときに地球の中心からの距離が大事やねん。

これを解決したんがジャン・ピカール(1620~1682)やった。

大昔にエラトステネスが地球の大きさを測ったのとおんなじやり方で測りはった。

違うのは太陽の代わりに恒星を使いはったことや。

太陽よりもひろがりが小さいから正確に測れたんや。

ここで出てくる1パリジャン・フィートは32.5cmぐらい。

342360パリジャン・フィートは地球の1°の緯度差。

これで計算したら地球の半径は6357kmになったそうや(アシモフの「人名事典」による)。

今では地球の半径は6378kmとなってるからかなり近いで。

とにかくピカールのおかげでニュートンも大発見につながってよかったなあ。

これをまとめて書いた本が『プリンキピア』やで。

理科ハウスの展示で「月が1秒間にどのくらい落ちてるか計算してください」てゆうのをやったことがあった。

計算が得意な中学生がうれしそうに挑戦してくれてたなあ。


この本の著者、中村誠太郎(1913~2007)は物理学者。

前回の第六十一回の文中に登場してはったよ。

2023年7月23日

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第六十一回

『素粒子の宴』   P153

南部陽一郎/著

工作舎/発行 1979年


P153

(アインシュタインの助手のカウフマンは) 私と多少の文通があった。それで、アインシュタインにぜひ会わせてほしいと頼んでおいたわけです。かれの『晩年に想う』(アインシュタイン著 講談社刊) という本を、たまたま私と中村誠太郎さんと市井三郎さんとで翻訳したものですから、本に署名してもらおうという下心もあったんです。そのときのアインシュタインの話にはぜんぜん感心しませんでしたね。最初に私がどういう研究をしているか聞かれまして、説明したのですが、彼にとってはなんの興味もないことだったらしく、すぐ自分の関心事について話し始めたんです。つまり、量子力学を信用しない、信じないという・・・・。私としては、アインシュタインの方が間違っているに決っていると思いました。詳しい内容は忘れましたが、ひとつだけ印象に残った話があります。空を見ると月がある。あれにはっきりした位置と運動量が同時に存在しないなんてとうてい考えられないじゃないか。そういう論調なんです。これはご承知のように、量子力学の不確定性原理に対する反発です。ひじょうに、なんというか、人間的な感覚に訴えるような議論だった。とても彼らしい。私はそういうことをまったく聞き流したものですから、何もインプレスされなかった。それが正直な感想ですね。 

(カッコ内は追記しました)

        

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解説 森裕美子


33歳の南部 VS 75歳のアインシュタインや!! 

この対決は南部のがっかり感で終わってしもたんか? 

あこがれの人に会いに行ったのになあ。

アインシュタインは量子力学に違和感があるからかみついたんや。

月の話はそうかもしらんけどめっちゃ誇張した話になってしもたなあ。

これは自分は納得してへんでってことを言いたいねん。

そやけど南部にとっては量子力学を空気のように吸収して育ったからなんの違和感もないねん。

若い南部にしたら、なんでそんなことゆうてんの?ってことになるわな。

   


このエピソードは1971年に文庫版になった『晩年に想う』のあとがきに南部がもっと詳しゅう書いてるで。

量子力学にはどうやっても(アインシュタインでさえ)理解でけへんもんがある、多くの人が努力してんのにそこんとこは殆ど何の進歩もしてへんねんて。

あのときから時間が経ってアインシュタインの言いたかったことを反芻してはんねん。

アインシュタインが自分に対して全然ええかげんじゃないことのすごさがわかる話やったなあ。


南部陽一郎(1921~2015)は2008年にノーベル賞をとった理論物理学者。

同じとき、ノーベル賞をとった益川敏英(おもしろ科学史エピソード第二回参照)が「南部先生といっしょの受賞でうれしい」と言って感涙してはったのは感動的やった。

南部は自発的対称性の破れ、弦理論、クォークの理論で活躍しはった量子力学の世界では超有名人。

上のエピソードは南部がプリンストン高等研究所にいたときの話で、この本は1978年に高エネルギー物理学国際会議のために来日しはったときに物理学者デヴィッド・ポリツァー(1949~)との対談をまとめたものやで。

ちんぷんかんぷんなとこもあったけど解説書とは違うおもしろさがあってええなあ。

2023年7月2日

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第六十回

『学問の創造』   P202

福井謙一/著

佼成出版社/発行 1984年


P202

 やがて光が消されると、ルシア祭のハイライト「光の女王」の入場となったが、この後に受賞者を代表してスピーチを命じられたのには困った。代表スピーチは授賞式の前後で何度もさせられており、まさかあり得まいと思ってのぞんだ席だっただけに準備がなく、第一、もう目新しいことは何も話せるものがなかった。

 さて、どうしたものか。マイクの前に立った私は、ふと思いついて、スピーチは手早く切り上げ、席にいる妻を呼び寄せ、妻と一緒に童謡の「赤とんぼ」を歌った。「見渡すところここには日本人は私を含めて三人しかいない。そこで希少価値を発揮するために」という前置きをつけて歌い出したのだが、歌詞のほうはうろ覚えで、四番まであるそれをごちゃごちゃに混ぜて二番で切り上げた。歌詞を知らない妻は、勘を働かしてうまい具合に歌についてきた。歌い終えた後に沸き起こった割れんばかりの拍手は、むろん私たちのへたな歌に与えられたのでなく、「赤とんぼ」という曲に与えられたのである。この歌のメロディーには異国の人の心をとらえるエキゾチックな情感がこめられているようだ。学生たちは椅子の上に立って、一斉にスウェーデン語の返歌を合唱してくれた。妻はいたく感動させられた様子だった。

        

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解説 森裕美子


ナイスやったやん!

なんも考えてへんのに、いきなりなんか言えってゆわれんのがいちばん困んねん。

夫婦で歌わはったんはよかったなあ。

歌詞はまちごうても誰も気がつかへんで。

上手やったんやろねえ。

下手やったら「赤とんぼ」も台無しになってまうからなあ。

この場面はノーベル賞の催しのひとつ、ストックホルム学生連合主催「ルシア晩餐会」に招かれたときの話やで。

受賞した人が蛙飛びをさせられるので有名やな。


1981年のノーベル賞をもろたんは、理論化学者の福井謙一(1918~1998)。

理由は1952年に書いたフロンティア軌道理論など、「化学反応過程の理論的研究」や。

福井は、大学生のとき量子力学をほとんど独学で勉強しはったそうや。

量子力学はできたてのほやほややったから講義も少なかってんて。

けど、これをやってたおかげで化学に分子軌道理論を取り入れることができたんや!

試験管を振らんでも、計算で分子と分子の反応がわかるねんて!

計算ゆうてもシュレーディンガーの波動関数やと思うねん。

今やったらパソコンとか使うんやろけど、福井は計算尺と手回し式計算機でこれやってんで。

すごすぎるやん。

数学が得意やったからできたんやろね。


私がびっくりしたんは、本の中にじーちゃん(石原純)の書いた本が紹介されてたことやねん。

「広く学ぶ心」てゆう章のなかに例としてアインシュタインがリーマン幾何学のおかげで一般相対性理論ができたことをあげてはんねん。

ほんでこの話は石原純著の『アインシュタイン講演録』に書いてあるでーって(77ページ)。

これ見たとき目が飛び出しそうになってしもたわ。

2023年6月16日

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第五十九回

『地震の話』   P172

坪井忠二/著

岩波書店/発行 1941年


P172

 もしあらゆる住宅が、あらゆる工場が、あらゆる土木施設が、どんな大地震が来てもびくともしない様に丈夫に出来ているものならば、大地震とても恐るゝには足りないかも知れません。地震の予知が要求されるというのは、畢竟それだけの準備が出来ていないからだともいえましょう。それだけの準備、それだけの施設がありさえすれば、地震が来ても、震災が起らない様にする事は、あえて不可能なことではありません。地震の本性を明かにしようと地震学者は常に勉強しています。前途なお遠き憾みはありますが、地震の本性が明かになった時こそ、それは有効適切な地震の予報の可能なる日でもありましょう。しかし、かりに地震の予知が希望通りに出来たとしても、その発生を人為的に抑制する事が不可能である以上、震災を根絶せしむる唯一の途はあらゆる施設を完全に耐震的にする事以外にはありません。この解りきった事さえなかなか実行されないのが実情であります。かくて、地震学者は、一方においては地震の本性の究明に精進し、引いては地震予知の問題に対しても一歩一歩前進を続けながら、又他方においては、あらゆる施設が耐震的になって、地震の予知をさへ不必要とするに到る日が一日も速く来る事を望んでいるのです。

(一部漢字をひらがなになおしました)

        

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解説 森裕美子


今年は関東大震災からちょうど100年目やん!

この震災を経験した著者の、なんかもどかしい気持ちが伝わるこの本の最後のページを紹介してみたで。坪井忠二(1902~1982) は物理学者で寺田寅彦の弟子。

文中には寺田寅彦の言葉「天災は忘れた頃に来る」も書いてある。

そもそも日本で地震の研究が始まったんは、明治13年2月22日に起こった横浜の地震がきっかけやった。

その頃日本にたくさん来てた外国人教師らがびっくりしたからやねんて。

「地震」てゆうのを初めて経験したんやろな。

こりゃあ研究せなあかんやろってなって、日本地震学会を作りはった。

日本は世界でも地震が最も多い国やねんから、もっと昔から研究しててもよかったのに、あんまりしてこんかってんなあ。

研究するには前例がたくさん必要やねんけど、大きい地震はたまにしか起こらへんからなあ。

今ではプレートテクトニクスとか付加体とかの理論ができてだいぶん地下のこともわかってきてるけど、地震の予知にはまだ遠いなあ。

坪井のゆうように予知したところで地震は避けられへんねんから防災に頑張るほうがええやん。


坪井は地表の引力(重力)が小さいとこ、たとえば北海道の襟裳岬、東北東沖、東京、四国と九州の間が地震が起こりやすいみたいやって書いてんねんけどほんまなんかなあ。

ほんで震源地は余震域のまんなかとちゃうねんて、端っこになってまうらしい。

へぇー、そうなんか。

『新 地震の話』も書いてはるから読んでみたいなあ。

理科ハウスのホームページにうちのじーちゃんの関東大震災体験記が載せてあるからよかったら読んでみてな。

理科ハウス/石原純について

2023年5月14日

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第五十八回

『進化とはなにか』   P206

今西錦司/著

講談社/発行 1976年


P206

 突然変異も自然淘汰も否定した私の進化論は、もともと現在の正統派進化論とはかなり趣の異なったものであり、それなりに一応の形を整えるところまできたものの、まだけっして完成の域に達したものとは思っていない。暇をえてその仕上げにぼつぼつ取りかかろうと思っているところへ、『ブリタニカ国際大百科事典』のTさんから50年さきのことを考えてなにか書けといわれ、うかつにも筆をとった次第であるが、何分にも相手は一世紀にわたる伝統をもち、世界にひろく根をおろした、ダーウィン以来の進化論である。50年や100年ではまだ崩れ去らないものかもしれない。しかし、こういう正統派進化論者からみたら異質の進化論も、また成りたつのだということぐらいは、もうすこし宣伝してもよいのではないか、どこかから意外な反響がでてこないにもかぎらぬから、私の進化論を外国語で書いて発表したら、とすすめてくださる方もあったが、種社会でさえまだ認めることのできていないような相手に、それ以上のことをいってもわかろうはずがない。なにも急ぐことはないのだから、私の達者な日本語で書いたこの一文を、『ブリタニカ国際大百科事典』に託して、しずかに後世の批判を仰ぐことにした方が、かえって賢明なのではないかと、考えたりもしている近ごろの心境を、最後にしるして筆をおく。

            

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解説 森裕美子


今西錦司(1902~1992) は生態学者で霊長類研究の創始者。

上に紹介したのは1974年に書かれた『私の進化論の生いたち』というエッセイや。

「50年さきのこと」と書いてあるなあ。

来年がちょうどその50年や。

ほんで、どうなったかてゆうと今西進化論はあかんかってん、残念やけど。

今西が作りだしたんは「種社会」てゆう考え方やねん。

生物が進化するとき、個が進化するんとちごうて、種全体で進化するんやて主張してはる。

本人の言葉によると、「突然変異ははじめから方向性をもち、おこるべき必要にせまられておこるのだ」(P20)とか「そのような突然変異は、遅かれ早かれ、やがて種の全個体におこることによって、種のかちえようとしている適応を、促進するものでなければならない」(P26) てゆうことらしい。

どうやったら全個体が同じように突然変異できるんかは説明してくれてへんねん。

そやから説得力ないやろ。

79歳のときに書いた文章には、進化論は科学思想であって科学やないんやと自分で書いてしもてんで。

思想になってしもたら、「それってあなたの感想ですよね」って言われてまうで。


今西は登山家でもあったんや。

生涯で1552もの山に登りはったんや。

その数もすごいけど、初登頂とか難しい山に登ることが目標やった。

ヒマラヤに登るのをめざしたこともあってん。

今西の登山の仲間や後輩には第一次南極隊員の西堀栄三郎、コムギの遺伝の研究で知られている木原均、フランス文学研究者の桑原武夫、民俗学者の梅棹忠夫、日本のファーブルと呼ばれている岩田久二雄らがおってめちゃ有名人ぞろいやんか。

好きなことでつながる絆は強そうやけど、今西進化論のことはどう思てたんやろなあ。

2023年4月30日

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第五十七回

『不思議の国のトムキンス』復刻版   P16

ジョージ・ガモフ/著

 伏見康治/訳

白揚社/発行 2016年


P16

 彼が大学の大きな講義室に着いた時には、もう講演が始まっていました。室を埋めている人はほとんどが若い学生で、黒板のそばの背の高いしらがの人の話しに熱心に耳を傾けていました。この人は、相対性理論の基本的な考え方について説明していました。けれども彼がやっと理解しえたところは、この講義の要点は、この世には速度の限界というものがあり、それがすなわち光の速度なんですが、運動している物体はこれより速く動くことは不可能であり、このことから大へん奇妙な珍しい結果の生まれること、それだけでした。しかしながら、光は30万キロをも1秒間に行くほど速いものですから、日常生活のできごとには相対論的な効果はほとんど観測されないと教授は話しました。それにしてもこんな変な効果は本当に了解に苦しむところでして、トムキンス氏にはみな常識はずれのことのように思えました。彼は棒の長さが縮まるとか、時計が妙な進み方をするとかいうことを想像してみようとしました---こうしたことは棒や時計が光に近い速度で運動する際に予期される効果なんですが---そのうちにいつの間にやらトムキンス氏は夢路をたどり始めました。

            

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解説 森裕美子


文中の「彼」てゆうのはトムキンスのことやで。

トムキンスは銀行員でこの物語の主人公や。

この本の題は、あの有名な「不思議の国のアリス」(著者のルイス・キャロルは数学者)をまねしてるんやろなあ。

あれを読んだ人は知ってはると思うけど、主人公アリスの夢の中のかわいらしいお話やろ。

トムキンスのほうも夢の中の話や。彼は大学の先生の講義を聞いているうちに寝てしもてん。

ほんで見た夢がけったいやねん。

ここが著者の腕の見せ所でな、相対性理論が見えるようなお話にしてあんねん。

この本を読むときは相対性理論とか量子論なんか知らんかてええ、お話をただ楽しんだらええのやと思うねんけど、ついついいろいろ考えてしまうから疲れるなあ。


著者のガモフ(1904~1968)はロシア生まれの物理学者でビッグバン理論の先駆者。

本の書き手としても有名なんは知ってたけど、「おもしろ科学史エピソード 第一回」で紹介したクリックの本に出てくるガモフは魅力的やなあと思たで。

物理学者やのに、遺伝暗号の解明にも一役買ってはったんにはびっくりしてしもた。

クリックに渡した論文の共著者に架空の人であるトムキンスの名前が書いてあったんやて。

ガモフはおもしろがり屋さんなんや。

トムキンスの物語のなかにも「この人は、ロシアの科学者で、ジョージ・ガモフという人だそうですが、この30年というもの、休暇をとって、アメリカに行っていたのだそうです」(P106) なんてちゃっかり自分のことを書いてはる。


この本の訳者は日本の物理学者の伏見康治(1909~2008)。

あとがきで盛りをすぎたガモフのことを書いてるけど、これも人間らしいからええなあと思たわ。

2023年4月16日

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第五十六回

『秘密の告白』   P78

ニコラ・テスラ/著

 宮本寿代/訳

成甲書房/発行 2013年


P78

 トーマス・エジソンとの出会いは生涯忘れられない。この優れた才能を持つ男に私は驚かされた。エジソンは幼い頃から有利な境遇にいたわけでも、科学の訓練を受けてきたわけでもないのに、きわめて多くの功績を上げてみせたのだから。私はといえば、何カ国語も学び、文学や技術について深く探り、特に恵まれた時期には図書館で、ニュートンの『自然哲学の数学的諸原理』からポール・デ・コックの小説まで、手に取れる本を好きなだけ読みふけっていた。人生のほとんどの時間をなんと無駄に過ごしていたのだと感じていた。

              

ところがほどなく、これまでの人生は私なりに最善の生き方だったのだと認識することになる。出会って数週間のうちに私はエジソンの信頼を得たが、・・・ (12行略)

一年近く、午前10時30分から翌朝の5時まで勤務した。一日の例外もなしにだ。エジソンはこう言った。「これまで助手は幾人も雇ったが、君が一番すばらしい」この頃私は、鉄心 (コイルの中心にある鉄材) を短くした、同型の標準的機械を24種類も設計し、旧式のものと取り換えた。「この仕事が終わったら五万ドルを支払ってやる」とエジソンは約束してくれていた。ところがその話はまっ赤な嘘だったのだ。

私は大変な衝撃を受け、会社を辞めてしまった。

                 

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解説 森裕美子


テスラ(1856~1943)は科学者というより天才発明家やな。

今、私らが使うてる交流の電気システムを考えて作ったんがテスラやねん。

当時、エジソン(1847~1931)は直流推しや。

ほんで、どっちが効率的か、てゆう戦いがあってん。

テスラが交流をやりだしたんはエジソンのとこを出てからの話や。

辞めることになったのには、こんなエピソードがあったからやってんなあ。


テスラはエジソンもかなわへんぐらいすごいねんで。

本を読んだらわかるんやけど、世界のどこにいても通信できるシステムとか、世界のどこにでも無線で電気を送れるようなシステムとかをほんまにやろうとしててん。

今、スマホで通信できてるやん。

100年以上前にこんなこと考えつくやなんて天才ですやん。

発明品の中で有名なんが、テスラコイルですわ。

稲妻みたいな、めちゃ長い何メートルもある放電を作ることができるんや。

ビ、ビ、ビッてゆう音もでかいねんけど。

これ、名古屋市科学館で見れるから見に行ってな。


頭の中に描いてたアイデアがもっとぶっ飛んでるで。

赤道の周辺に巨大な円環を建設するとか、天体の回転エネルギーから動力を得るとかや。

とにかく発想が宇宙規模すぎてゆうてることがよーわからんねん。

今、生きてはったらエネルギー問題も解決しはって人気もんになれたやろなあ。

ちょっと早ように生まれてしもたんや。


この本はテスラが書いた二冊の本、「My Inventions : The Autobiography of Nikola Tesla」(世界システム=私の履歴書)と「The Problem of In-creasing Human Energy 」(フリーエネルギー=真空中の宇宙)を訳したもんやで。

2023年4月2日

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第五十五回

『チョウはなぜ飛ぶのか』   P13

日高敏隆/著

岩波書店/発行 1975年


P13

 とにかく、アゲハチョウが道のまん中を飛んでゆくことはまずけっしてない。いつも道のへりの植えこみについて飛んでいるようであった。そして、そのルートは、高さに上がり下がりがあるとはいえ、いつもきまっていて、捕虫網を振っておどろかしたりしないかぎり、どのアゲハもそのルートにしたがって飛んでいた。どうして、そんなにきちんときまったルートができるのだろう? ぼくはそれがふしぎだった。

今いったルートは、花と花をむすんでいる。この近くではどことどこに花があるか、アゲハはちゃんと知っているのだろうか? アゲハはそれを自分の経験でおぼえたのだろうか? もしそうだったら、サナギからかえったばかりで、まだ花のありかを知らないアゲハは、やたらなところを飛んでもいいはずではないか? それともアゲハは、仲間から道を教わるのだろうか? そんなことはあまりありそうもないが・・・・・。 

そのようなことを考えながら、ぼくは根気よく、毎年毎年、アゲハの飛ぶ道を記録していった。夏の道ばかりでなく、春にでてくる春型のアゲハについてもしらべてみた。すると、おどろいたことには、春の道と夏の道はちがうことがわかった。

             


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解説 森裕美子


この文章、国語の教科書(1981年の三省堂)に使われてたから何となく覚えてはる人もおるかもしれんな。

著者の日高敏隆(1930~2009)は動物行動学者。本をたくさん書いてはる有名人やで。


アゲハにはチョウ道ってゆうもんがあんねん。

モンシロチョウやキアゲハにはないねんて。

アゲハがどうやって道を決めてるんか、ってゆうのが日高の小さいころからの謎やってん。

この本はアゲハチョウについての研究のドラマやで。

研究の結果を知りたかったら本を読んでな。


理科ハウスでは5年前から、近くにある池子の森緑地公園でチョウの調査をやってるねん。

環境省がやってる「モニタリングサイト1000」てゆうやつやねんけど、この調査は100年以上の継続調査をめざしてはんねんて。

なんとまあ壮大な計画やんか。

そやからチョウは種ごとにそれぞれやなあとゆうのはよーわかる。


アゲハが通る道はだいたいおんなじや、みたいに、自分の行動を振り返ったら理科ハウスとスーパーと家を行ったり来たりで寄り道はないで。

私の場合は理由も簡単にわかるやん。

こんな謎めいてないのは魅力ないなあ。

人に「なんでやろ」と思われるくらいがええねん。

日高は動物の行動に「なんでやろ」と思える人やねん。

いろんなことが知りたなって研究できるんやろな。


日高は、あとがきに、研究というのはいかにばかくさいくだらないものであるかを書きたかった、て書いてる。

そこまで言わんかてええと思うけど、おもしろかったで。

2023年3月19日

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第五十四回

『ハーバー博士講演集 国家と学術の研究』   P14

フリッツ・ハーバー/著

田丸節郎/訳

岩波書店/発行 1931年


P14

 化学の分野におけるこの種の仕事の中で最も重要なものは窒素工業の完成である。今日我国におけるその生産額はチリを凌駕しないまでも、それに等しいところまで達した。我等はチリから全世界に供給されて居るこの大量の肥料を独りで国内に消費するのである。戦時において肥料の供給が戦前の半分に低下し、その為に著しい収穫の減少、経済上の損失を来したことは、我国の農家をしていかなる訓戒、いかなる指図にも優りて窒素肥料の重要さを悟らしめた。食料を外国に頼っていた我等が、国内の生産で生きることが最早絶望でないというのはひとえにそのおかげである。ベルサイユ講和により著しく狭くなった我国土からのこの増収は、国外における富を失った今日、我国の経済を昔の如く建て直す為の欠くべからざる前提である。この事情は同時にこの地において既に一度ならず余の出会うた質問、即ち何故に我等は世界の市場においてチリと真剣な競争を開始しないかという問に対する回答ともなるのである。

 窒素の問題は単に工業として完成されたばかりでなく、更に進んで独創的な発展をなすにいたった。合成アムモニアと炭酸ガスとから生成される人造尿素は農業に新たな大きな望を生じ、将来は追肥をするに硝石で満足する必要は無くなった。

              

(一部漢字をかなに変更しました)


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解説 森裕美子


空気中の窒素からアンモニアを作る有名なやり方がハーバー・ボッシュ法や。

これ、高校の化学で習うで。

研究した人がフリッツ・ハーバー(1868~1934)やで。

ほんで工業的に成功させたんがカール・ボッシュ(1874~1940)や。

窒素(気体)はぎょーさんあるのに反応しにくいから利用でけてへんかったんや。

けど、窒素は肥料の三要素(NPK)のうちの一個やから作物を大量に育てるには絶対必要やねん。

窒素は特に葉を育ててくれるんやて。


上に書いてあるように、ドイツは、それまではチリから硝石を輸入してたんやけど、せんでもようなったから第一次世界大戦中も戦後も頑張れたんや。

硝石を使って作る火薬も自国で作れるようになったしな。

やりすぎて毒ガスまで開発してしもた。

なんでそこまでやってしもたんか不思議やってん。

この本に理由が書いてあるかと思て読んでみてん。

ハーバーはドイツ愛が強すぎたんやなあ。


この本は国立国会図書館のデジタルコレクションで読めるで。

国立国会図書館デジタルコレクション

上の文章は、ハーバーが1923年、12月4日にブエノスアイレスドイツ倶楽部で行った講演をまとめたもんや。

題は「最近十年間のドイツの化学」。

訳しはったんは、田丸節郎(1879~1944)。

ハーバーのとこへ長いこと留学してた人や。

うちのじーちゃん(石原純)の友達やねん。

じーちゃんもドイツに留学したんやけど、先に留学してた節郎さんにものすごうお世話になってん。

初めての外国で不安やったみたいやけど友達がおってよかったなあ。

節郎さんといっしょにハーバーにも会いに行ったみたいやで。

すごっ。

2023年3月5日

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第五十三回

『数学者の回想』   P42

小倉金之助/著

河出書房/発行 1950年


P42

 元来、私としましては、東京に出て、理学――自然科学という言葉は、そのころはまだ使われませんでした--- を、とくに化学を勉強したい。しかし家庭の事情のため、長い期間の勉強は許されないのだから、速成で一通りわかりさえすれば、どんな学校でもいい。 ――大体そういう方針なので、高等学校から大学へなどということは、小学校以来一遍も考えたことがないのでした。また教員を目的とする高等師範学校も、私の境遇には副いませんし、ともかく便利な学校というわけで、熟考もしないで物理学校を選んでしまったのですが、その日学校に入ってみてはじめて、それは実に汚い、まるでろくな設備もないような、変に薄暗い---第一印象の恐しく悪い学校なのには驚きました。

 しかし教室に入りますと、ちょうど千本福隆(せんもとよしたか)先生の代数の時間----金銀の比重に関する (一次方程式の) 問題で、先生は極めて面白くアルキメデスの伝説について話されたのでした。それは私にとっては全く、まだ聞いたことのないほどの、実に興味の深い立派な講義なので、「これでは学校は汚なくても、まあ、仕方があるまい」という気になって帰ってまいりました。


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解説 森裕美子


小倉金之助(1885~1962)、「汚い」て書いてしまいはった。

正直もんやなあ。

この学校は今の東京理科大学のことやで。

これがこの学校との出会いやったんやけど、後に小倉はこの学校の先生だけやのうて理事までやりはった。

小倉の専門は数学やと思てたんやけど、最初は化学がやりたかったんやなあ。

家業を継がなあかんかったから、おじいさん(お父さんは亡くなってた)から進学するのを反対されてたんや。

そやけどなんとかして中学校(今の高校)に通って、それから、家出みたいにして東京まで来たんや。


物理学校は入学すんのは簡単やねん。

そやけど卒業するんはめちゃ難しいねんで。

当時、入学した人のうち卒業できたんは、一割くらいしかおらんかったそうや。

卒業して、東京帝国大学に合格しはったのに半年で家業をすることになりはった。

化学は家で勉強しにくいからという理由で数学になったみたいやで。

なんぼ賢いねん。

いよいよ家業はいやになって数学の先生になることにしたんや。


後年、数学教育や数学史にも尽力しはって本も書きはった。

この本にはうちのじーちゃん(石原純)が度々登場してるねん。

1911年の東北帝国大学理科大学の創立のときに26歳の小倉も、30歳のうちのじーちゃんも先生として行くことになったんや。

ふたりともわっかいなあ。さぞ活気があったんやろねえ。


もう一冊、『日本の数学』も紹介しとくな。

日本の数学者て言われたら『塵劫記』(じんこうき)を書いた吉田光由や、関孝和くらいしか知らんかったけど、

他にもぎょーさんいてはったんがわかったわ。

それに日本でも微分積分がちゃんとできてたこともわかってびっくりしたわ。

この本は写真がいっぱい載せてあって読みやすかったで。

2023年2月19日

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第五十二回

『第四 物理の散歩道』 水玉の物理   P110

ロゲルギスト/著

岩波書店/発行 1969年


P110

A  お茶につぐお湯の温度が音でわかるということですが、どう思います?

B  そうですね。火鉢の上でぐらぐらたぎり立つ鉄びんのお湯を急須につぐとき、トロトロッという高い感じの音がして、いかにも熱そうに聞こえる。水道の水をコップにつぐときのさわやかな音とはまるで違いますよ。

C  トロトロッとした感じとおっしゃるのは、湯の流れ方や流れる様子から受けるのではありませんか。

A  流れ方が違うのは温度が高くなると水の粘度が変わるせいでしょう。100度になると水の粘度は20度のときの3分の1くらいに小さくなるのですからね。相当サラサラしてくるわけです。

C  そういえばお風呂のお湯も、沸かしすぎるとたらいでかきまわしたときにサラサラする感じがしはしませんか。

A  そんな感じですね。

B  音も違いますよ。

A   ああ、そうそう。水のたてる音というのはたいていは水のなかに泡ができるときに起こる音だという説をたてた人がある。谷川の水が流れる音とか、ドードーいう滝の音とか、ゴーゴーいう海の音とかはみな泡のたつときの音じゃないかっていう説ですよ。

B  ウム。それは面白い。さっきのお湯の温度が音でわかるというのもね、あるいはそれで説明できるかもしれない。

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解説 森裕美子


これを書きはった人は磯部孝。

著者の「ロゲルギスト」(1950年頃~)ってゆうんは、外国人の名前とちゃうで。

物理学者7人のグループ名やねん。

ロゴス(言葉)とエルゴン(仕事)を合体させてロゲルギークやねんて、ほんでそれを研究する人とゆう意味で「ロゲルギスト」。

毎月、一回は集まってワイワイ科学談義しはってんて。

ほんで、そんときに出た話題をエッセイにしてまとめたもんが『物理の散歩道』や。


エッセイのお題は 「洋服は二着交替に着た方がいいか」 「人はなぜ疲れるのか」 「でたらめの科学」 「星はなぜ星形にみえるか」 「ぬれた砂はなぜ黒い」とかや。

読みたなるのばっかりや。

うちらみたいにぼーっと生きてる人は「そんなこと考えたこともなかったわ」てゆいたなる。

お湯の温度が音でわかるなんて考えたこともなかったわ。

ロゲルギストがすごいんは、この後やで。

水のしずくが落ちるときポチャンてええ音するやろ。

何で音がするんかをちゃーんと実験して写真に撮って解説してくれはんねん。

毎回の観察力と追及するエネルギーがすごいねんで。

難しゅうてついていかれへんのが多いねんけど、その観察力だけは見習って磨きたいなあて思うねん。


冒頭の写真でこの本の隣にあるのは、ロゲルギストの特集をやった岩波の雑誌『科学』2009年8月号やで。この雑誌は1931年に創刊されたんやけど、じーちゃん(石原純)が最初の編集主幹やった。

理科ハウスには当時の古いバックナンバーがあるから興味がある人は見に来てな。

雑誌の表紙を見て、あれ?って気がついた人は観察力があると思いますわー。

2023年2月5日

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第五十一回

『近代化学の父 ジョン・ドールトン』   P42

原光雄/著

岩波書店/発行 1951年


P42

ある日ドールトンは、母親に誕生日のプレゼントをあげようと思って、ケンダルの商店で、「絹製の最新型」というレッテルのついた長クツシタを一足買った。手編みの褐色の毛クツシタをいつもはいている母親へのおくりものとしては、こんなのがよいだろうと考えたからであった。ところが、それをうけとった母親はびっくりしてさけんだ。「ジョンや、お前はりっぱなクツシタを買ってきてくれたけれども、一体何だって、こんな晴れがましい色をえらんだの? まったく、わたしゃ、これをはいて礼拝会へゆくことはできゃしないよ。」 母親のことばにあわてた息子は、自分にはそのクツシタの色は青黒みをおびた褐色にみえ、礼拝会ゆきにはうってつけの色だと思う、と答えた。「おやまあ、ジョンや、そりゃ桜の花のように赤いんだよ。」 そこで兄のジョナサンをよんできて、きいて見たところが、ジョナサンもジョンとおなじ色に見えると主張した。兄弟は、母親の視覚は異常なんだ、という断定を下した。そこで母親デボーラは、問題のクツシタをもって、となり近所のおかみさん連中にききあるいた。「ものはとても上等だけれども、すてきに赤い」 というのが、かの女たちの異口同音の返事であった。こういうわけで、ジョン・ドールトンは、自分と兄の視覚がほかの人々の視覚とはひどくちがう、ということに気づいたのであった。 

  

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解説 森裕美子


これは、1792年ころの話でほんまかどうかわからんて本にも書いてあった。

そやけど、同じようなことがあったんやろなあ。

ドルトン(1766~1844)はこのとき26歳やってん。

それまで自分が見てる色が他の人と違うて知らんかったんや。

赤色のもんはドルトンにはソラ色に見えるらしい。

そやったら、ドルトンにとってはソラ色が赤色っちゅうことやんか。

ややこしいなあ。

もっとすごいんは、太陽の下で見る花の色とロウソクの明かりで見る同じ花は違う色やてゆうてんねん。

ドルトンはそれが当たり前と思てたから、太陽とろうそくで同じ色に見えてる人がおることにびっくりしたんやて。

そんなん、こっちもびっくりするやん。


ドルトンがすごいんは、このことを知ってから視覚の研究を始めたことや。

自分と同じような見え方の人にアンケートをとって、調査したんや。

論文も書いてんねんで。

そやからドルトンと同じような色覚になってる人のことを「ドルトニズム」ってゆうこともあんねん。

ドルトンは死んだ後に解剖されて眼球も調べられてん。

そこまでしても見え方の違いの原因はわからへんかってん。

今ではX染色体にある遺伝子のせいやってわかってる。

男性はX染色体が一個で予備がないから女性よりなりやすいねん。

ドルトニズムの人が生活しやすいように色のユニバーサルデザインがすすんだらええなあ。


ドルトンは元素記号も考えはった。

炭素は●、酸素は○、みたいにな。

そやけど、覚えにくいから流行らへんかってん。

今、使われてる記号は19世紀の始め頃にベルセリウスが考えた記号が元になってるねんて。

2023年1月22日

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第五十回

『零の発見 数学の生い立ち』   P23

吉田洋一/著

岩波書店/発行 1939年


P23

 インドに於る名数法はあらゆる名数法の中で最も十進法に忠実な名数法であった。例を挙げて説明するのが最も早いと思うが、例えば昭和14年度の我が国の予算3,694,666,976円を我々は三十六億九千四百六十六万六千九百七十六円と読む。然るにインドの流儀では一桁上がる毎に新たな数名詞を用いるのであって、日本語の場合のように「万」の位から四桁上って初めて次の数名詞「億」が出て来るのとは大分事情がちがうのである。即ち、今の数は 三パドマス・六ヴィアルブ・九コオティス・四プラユタス・六ラクサス・六アユタス・六サハスラ・九シアタ・七ダシァン六円 というよび方をするのである。

  

尤もこの名称はインドの地方地方によって一定ではなく、時として高位の数名詞と低位のそれとが入れ替って用いられることがないではなかったらしい。併しながら、かような仕組の名数法によるときは、要するに英語の電話番号のように三六九四六六六九七六と棒読みするのと大した相違がないのであるから、最低位に近い所の数名詞さえ定まっていれば、高位の数名詞が多少ちがっていた所でそう重大な混乱は起らないのである。ただ、そのためには結局零というような空位を示す言葉が必要となって来ることは必然の勢といってよかろう。

  

 (旧かなづかいを現代かなづかいになおしました)

  

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解説 森裕美子


吉田洋一(1898~1989)は数学者、第35回で紹介したポアンカレの『科学の価値』を訳しはった人やで。

『零の発見』は今でも売られているロングセラーな本やな。


「ゼロはインドでできた」ってゆうのは知ってたけど、なんでインドやねん、って思ててん。

この本を読んでやっとわかったわ。

インドでは位を表す名前が一桁ずつ違ってるて、めちゃめんどくさーと思うけど、これがゼロを生み出すことになったんやな。

たしかに一個でも桁の名前を忘れてしもたら全然違う数字になってまうわ。

ゼロを作って数字だけ並べといたらええやん、ってゆう発想になるわなあ。

日本みたいに十とか百って書いたらゼロはいらんもんなあ。


それにしても、昭和14 (1939) 年の国家予算がだいたい37億円に対して、2023年の予算は114兆3812億円になりそうて、これ、おおすぎひん? 

物価の上がり方で考えても増えすぎやろ。

そんだけ国の仕事が増えてるっていうか、国が買い物しすぎなんとちゃうん? 

これがええことなんか、よーわからんけど、もっと節約せなあかんと思うで。

なんでこんなに増えたんかなあ。


話がゼロからそれてしもた。

ゼロがいつから使われてたかははっきりわからんらしいけど、7世紀にインドのプラーマグプタという数学者が書いた本にはゼロがもう使われてるんやて。

ゼロが使われるようになって計算がどんだけ楽ちんになったかはローマ数字を使うて計算してみたらよーわかるで。

最後にクイズです。

ローマ数字で書いたMMXXIIIは何という数字でしょう。4桁やで。

(ヒントM=1000、X=10、I=1)

2023年1月8日

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第四十九回

『生物と無生物の間 ウイルスの話』   P100

川喜田愛郎/著

岩波書店/発行 1956年


P100

 インフルエンザ・ウイルスの変異の問題と関連して思い出されるのは、前に一言した一九一八年の世界的大流行です。 

  

 最初に述べた一八九〇年の大流行があった後、インフルエンザはヨーロッパ各地で燻ぶりつづけておりました。ところで一九一八年の春、西フランスではじまったインフルエンザはスペインに入り、そこではじめて人の注意を惹くほどの流行となりましたが、やがてその「スペインかぜ」は急速に世界各地にひろまり、秋ごろから目立って悪性の病気となって、遂に流行病の歴史に残る大事件となったのでした。それはニューカレドニア、ニューギニア、その他あちこちの島々を除く世界全体を覆い、日本も当然それを免かれませんでした。御記憶の方も少くないと思います。

  

 その流行はまことに激甚で、地域によっては住民のすべてが罹患してほとんど五〇%が死亡したとも伝えられ、全世界ではおよそ二千五百万人の死者を出したと見積られています。

  

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解説 森裕美子


新型コロナウイルスのせいで亡くなった人は660万人を超えてるんやって。

スペイン風邪は2500万人やて書いてあるから、こんときどんだけすごかったかわかるやん。

当時の人口は今の4分の1より少ないねんで。

直す薬もなかったんや。

世界中が病人だらけやな。

流行り病で死ぬの、こわいなあ。

COVID-19もまだゆだんしたらあかんで。


この本にインフルエンザウイルスの大きさが書いてあってん。

100ミリミクロン。

これ100ナノメートルのことやで。

インフルエンザウイルスを7個並べたら赤色の波長とだいたいおんなじになるなあ。

えーっ! めちゃちっこいやん。

まあ、そやから光学顕微鏡で見えへんかってんけどな。

わかっててもびっくりするわ。

そんなちっこい生きものみたいなもんがおるってことが。

ウイルスは生きものとちゃうねんけどな。

今は電子顕微鏡でちゃんと見えますわ。


著者の川喜田愛郎(1909~1996)は細菌学者、お医者さんや。

この本の題を見てあれっ?と思た人おると思う。

巧みな文章を書きはるので有名な福岡伸一氏(分子生物学)が書きはった『生物と無生物のあいだ』てゆう本があるからな。

こっちも面白かったけど、川喜田の本はウイルスのことがわかり始めた頃の話がおもしろいで。

見えへんけどおるのはわかるみたいな。

黄熱病を例にして説明してくれてる。

黄熱病て、野口英世がかかって死んでしもた病気やで。

他にも細菌に侵入するウイルス(名前はバクテリアファージってゆうねん)の話がよかったで。

細菌はシャーレで増やせるから実験がやりやすかったんやなとようわかったわ。

2022年12月18日

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第四十八回

『生と死の妙薬 (SILENT SPRING) 』   P79

レーチェル・カーソン/著

青樹簗一/訳

新潮社/発行 1964年


P79

 一九五九年の秋だった。ミシガン州の東南部 (デトロイトの郊外もふくめて)では、百十平方キロあまりの土地に、空からしつこく殺虫剤をまいた。アルドリンの小丸薬だった。炭化水素の塩素誘導体のうちでも、いちばんおそろしい薬品だ。アメリカの農務省ならびにミシガン州農務省が計画し指揮をした。マメコガネムシ Japanese beetle 駆除が目的だった。

  

 こんなに大仕掛けな、危険なまねをする必要があったのだろうか。

  

 (略)

  

 〈マメコガネムシは〉年ごとに、分布区域がひろがっていったが、その当初からずっと定着してしまっている東部の地方では、天敵による防除が行われ、マメコガネムシの棲息個体数は比較的低くおさえられていると記録に残っている。

  

 こうした天敵による防除の記録があるのに、アメリカ中西部の州にマメコガネムシが入りはじめたというだけで、あわてておそろしい化学薬品に手をのばした。こんなにおそろしい薬品は、もっと危険な相手にこそ使うべきで、マメコガネムシなんかには使うべきではない。しかもたくさんの人間、家畜、野生生物が、まきぞえを喰らうような方法をとったのだ。

  

 文中の〈マメコガネムシは〉はわかりやすくするために挿入しました。

  

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解説 森裕美子


アメリカの生物学者のレイチェル・カーソン(1907~1964)、怒ってはる。

ほんまに、めちゃめちゃおこってるでー。

もうその怒りが本のあらゆるところからふき出してんねん。

怒りの原因は、虫やらダニやらを殺すためのDDTとかディルドリンとかアルドリンとか他にもいっぱいある薬品の使い方や。

きっつい殺虫剤を空からぎょーさんまいたせいで、虫だけやのうて、他の生き物、海とか川の水、土までもが取り返しのつかへんようになってしもたてゆうてはんねん。

原書の名前が『沈黙の春』てゆうこの本はめちゃ有名になってな、読んだ人らがこりゃ大変やって大騒ぎになった。

ほんで、この本に出てくる薬品のいくつかは作ったり、売ったりしたらあかんことになってん。

これ、50年くらい前の話やで。

カーソンの怒りが世界を動かしたんや。

これ、すごいことやんかあ。

文中のマメコガネムシはもともと日本の虫やねん。

苗木についとったんがアメリカに行って広がってしもたみたいや。

これみたいな外来生物問題は今やったら「知らんかったわ」ですまされへん。

そやからカーソンが提案している、虫の天敵を他から連れて来るっちゅう解決方法はどないなん?と思てしまうわ。

そもそも自然を操ろうなんて神様みたいなことでけへんやん。

カーソンは『センスオブワンダー』てゆう本も書いてはる。

こっちは全然おこってへんよ。

カーソンに学びたい人たちが作りはった、レイチェル・カーソン日本協会ってゆうのがあんねんで。

レイチェル・カーソン日本協会

2022年12月4日

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第四十七回

『千里眼実験録』   P6

藤原咲平/著

大日本図書/発行 1911年


P6

 余は一月二日丸亀に着し、三日に自己の実験としては、電気計及蛍光の実験をなしたり。而も之等は、共に不結果なりき。尚到着すると共に、種々の事情纏綿して、仲々に実験をなす事の困難なるを覚えたり。又福来博士が長尾家の絶大の信用を博し居り、同博士の手より紹介せらるゝに非ざれば、実験上非常の不便ある事を感じたり。故に余は同博士の紹介を得たる余の好運を喜べり。但し先づ第一及第二の目的を達する為の実験は、当分独力にては到底なし得可からざるを知りたり。されど四日山川博士来着後、常に其実験に触接して、余が第一の目的たる、手品ありや否やを定めんが為には、同博士の実験にて、充分なりと思考し、専ら同博士に助力をなしたり。八日山川博士の健字実験中止となり。九日に余及福来博士の実験をなさん筈なりしに、長尾夫人が不安を感ぜらるゝより、総ての実験を中止すと云ふ宣言を与えられたるに由り、十日遂に東帰の止むなきに到れり。故に余は学術上一の獲物もなきなり。即殆三十日の時間と、旅費とを空費したり。

 

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解説 森裕美子


この本は、1911年に起こった千里眼事件のうち、長尾郁子の能力を実験したときの記録や。

長尾は香川県の丸亀に住んでたんや。

そこに集まったんは、この本の著者の藤教篤と藤原咲平(1884~1950)の他に東大の理学博士、京大の医学博士、東大の文学博士、地元の中学校の教頭、高校の校長やら助手の人ら、ほんで新聞記者もおったみたいや。

めちゃ大事になってんねん。

千里眼てゆうんは、遠くを見る力やと思うねんけど、

ここでは眼の前においてある箱の中身を当てたりする「透視」とか、あらかじめ決めた漢字を「念写」したりすることや。

透視力や念写力を信じてる心理学者たちと、それを疑ってる物理学者たちの戦いみたいになってしもた。

長尾夫人は疑う人の前ではできまへんてゆうて中止に決まった。

ほんで藤原咲平はめちゃ準備してたのにがっかりしたとゆうわけや。

私がこの本を紹介した理由は、この本のあとがきを当時30歳のじーちゃん(石原純)が書いてたからやねん。

頼まれて書いたんかなあ。

本に載ってる文を書いた人は、山川健次郎、中村清二、田丸卓郎、みんな物理学者やわ。

本は国立国会図書館のデジタルコレクションで読むことができます。

千里眼事件で「透視ができる」て思われた人等は、有名になったりバッシングを受けたり大変な人生になってしもてなあ、

理由はわからんけど自殺した人もおった。

人間を実験台にするゆうんはもっと配慮してやらなあかんかったと思うで。

今でも超能力の研究はされてるんかなあ。

けどな、今は、人を対象とする研究をするときは、研究者がちゃんと倫理審査を受けなあかんことになってるねんで。

医学とか遺伝学とかでもな。

2022年11月20日

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第四十六回

『世界のなかの科学精神』 原子爆弾   P167

仁科芳雄/著

工作舎/発行 1980年


P167

 昨年八月七日の朝、陸軍の人が来て、「アメリカが広島に原子爆弾を投下したという報告があった。ついてはその調査団を派遣したいから、それに参加してくれ」という事であった。(略)

 

 八日の夕方広島の上空へ来て旋回した時、下を見て被害の大きいのに驚いた。空から見ると市の中心部は焼け、周囲は広範囲に亙って壊れ、倒壊せぬ家も瓦が落ち、街には人が稀で、死の街の様相を呈していた。従来の焼夷弾の被害と異り、焼けた範囲の外側に広く倒壊家屋が存在するということは明かに普通の爆弾ではないことを示し、私はこれは原子爆弾だと断定したのである。

 

 飛行場に降りると、其処の人が体験を話してくれた。それによると飛行場は爆発の中心から三キロ米乃至三キロ米半の地点にあるのだが、朝の八時十五分頃、市の中心上空にピカッと大閃光を放ったものがあり、それと同時に光の方向に向かっていた人は露出部を火傷し、そこにあった飛行機は火を引いた。そして飛行場のそここゝに火を発し草などにも燃えついた。そしてすぐ後から大爆風がやって来て近所の家も樹も皆押し倒したということであった。

 

 それからわれわれは自動車で宇品の宿舎に向ったのであるが、その途中人の死骸が到る処に転がって居り、町のあちこちに死体を焼く煙が上って居るのを見た。

 

 宿舎に着き、打合せを済ませ、翌日から実地の調査をした。その結果は大体次の通りである。(略)

 

 広島に数日間居って八月十三日に飛行機で長崎に向った。長崎には半日滞在したばかりであるが、上空から見た様相は広島と同様であった。

   

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解説 森裕美子


この調査はつらすぎる。

読むのもつらい。

けど知っとかなあかんことやねんやろなあ。


この文章は岩波の雑誌『世界』の1946年3月号に掲載されたもんやで。

小見出しは「被害見聞」「原子爆弾の証明」「人体及び生物に対する影響」「爆弾の投下状況」「原子爆弾の原理」「アメリカにおける研究」で全部で13ページ。

これが書けるんは仁科芳雄(1890~1951)が最適な人やった。


仁科は東大を首席で卒業して留学しはった。

最初はイギリスのラザフォードのとこで研究し、そのあとドイツに行って、それからコペンハーゲンのニールス・ボーアのとこへ行きはった。

当時の物理学は、原子のなかみはどないなってんのかを研究する「量子論」が華々しかった頃やから、量子論の育ての親であるボーアのとこに5年間もおったんは仁科にとってめちゃよかったんや。

後にボーアが来日して講演をやった時には仁科が通訳してはんねん。


仁科は留学から帰って来てからは理化学研究所の研究員になりはった。

日本の物理学だけやのうて科学の発展に尽くしはったからえらかったなあ。

ほんで理研では仁科芳雄の研究室を復元するプロジェクトを今やってはんねん。


仁科芳雄の研究室を復元~科学する心を次の世代へ~|理研仁科センター(理研 仁科加速器科学研究センター 2022/08/19 公開) - クラウドファンディング READYFOR


完成すんのはいつかわからんけど、見に行きたいなあ。


2022年11月6日

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第四十五回

『化石』   P172

井尻正二/著

岩波書店 1968年


P172

 西ドイツのフライスブルグ大学にある温泉医学、気候生理学研究所のドムブロウスキーは、鉱泉中にすむ微生物の研究をつづけている医師である。

 

 ところが、かれが調査していたバート・ナウハイムの鉱泉のなかに、その付近ではみかけないバクテリアが生きていることに気づき、その源がどうも近くの岩塩の鉱山にあるらしい、と考えたところから、学界をアッといわせた研究がはじまったのである。

 

 まず手はじめとして、いまから二億年ほどまえ、古生代の二畳紀にできた苦灰岩(くかいがん)のなかの岩塩から、バクテリアの化石と思われるものをとりだし、培養液にいれたところ、化石はよみがえって活動をはじめ、ついには分裂さえするようになった、というのである。これはまさに、二億年間、岩塩のなかにねむっていたバクテリアの化石が生きかえったことにほかならない。

 

 とくに説明をくわえるまでもなく、岩塩は太古の海の入江などが干上ったときにできるもので、その海水中にすんでいたバクテリアは、当然、岩塩のなかに封じこまれて化石になる可能性をもっている。

 

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解説 森裕美子


ひぇ~、こんな話、初めて聞いたわ。

二億年前の生きものが生きかえったんやて。

ありえへんやろ。ほんまなんかなあ。

1952年、大賀一郎博士が2000年前のハスの種を植えたら花が咲いたゆう話は知ってたけどな。

二億年はすごすぎるなあ。


ほんでその生きものは、バクテリアやて書いてあるんやけど、岩塩の中におったんやから好塩菌の仲間やと思うねん。

それ、バクテリアやのうてアーキア(古細菌)の仲間とちゃうん?

本が書かれた1968年はまだ、バクテリアとアーキアの区別がなかった頃やな。

この研究は今でも誰かやってはるんかなあ。

古生物学の世界はまだまだびっくりするようなことが起るなあ。


井尻正二(1913~1999)は古生物学者。

野尻湖のナウマンゾウ発掘調査で有名な人やで。

この発掘調査は一般の人も参加できるんや。

今でもやってはると思うけど、よう知らんわ。

野尻湖ナウマンゾウ博物館ってゆうのがあるんやけど行ってみたいなあ。


ナウマンゾウの化石は三浦半島でも見つかってて、

横須賀市自然・人文博物館にナウマンゾウの化石が展示されてるねんけど、

これは明治の初めにナウマン博士が調べたことで名前がついた由緒ある化石やねんで。


井尻正二は、奇妙な歯を持つ謎の哺乳類、デスモスチルスの研究もしてはった。

もちろんその不思議な歯(理科ハウスにも化石があるで)を調べてたんやけど、

それが高じて飼ってた犬の歯の植え換え実験までしてはる。

古生物学者てこんなことまでするんかあ。

知りたい気持ちは押さえられへんねんやろなあ。


2022年10月23日

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第四十四回

『雑種植物の研究』  P42

グレゴール・ヨハン・メンデル/著

小泉 丹/訳

岩波書店 1928年


P42

 以前に観賞植物に就て行われた研究で、既に、雑種は、正しく両親の中間の形態を表わすものではないのが通例である。という証左を得て居った。(4行略)

 

 「えんどう」の雑種でも、所見は同様である。雑種の形質七つの何れもが、両親の対の形質の一方に全く同じであって、も一つの親の形質は、認めることが出来ない。或は、其に似て居って、雑種と其の親とを明らかに区別することが出来ない。此事実は、雑種から生ずる子孫に見られる、いろいろの形態のものの類別決定や、分類配列をすることに、極めて重要なことなのである。此より以下の叙述では、〔双親の相対的の形質のうちで〕、雑種形成に於て、全然或は殆んど変らずに表われて来る方の形質、従って、自身で雑種の形質となる方のものを、優性 dominierend と名づけ、また雑種形成において、隠れている方の形質を、劣性 recessiv と呼ぶこととする。何故に“recessiv“ という言葉を用いるかといえば、この形質が、雑種では退き隠れ或は全く消えてしまっているのであるが、後に述べるように、その雑種の子孫には、再び、少しも変らずに表われて来るからである。

 

 (旧かなづかいを一部現代かなづかいに直しました)

 

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解説 森裕美子


メンデル(1822~1884)は聖職者。

修道院の庭で遺伝のしくみを調べるために「えんどう」を育ててたんや。


私は豆ごはんを食べたいから庭にエンドウを植えるねん。

逗子のスーパーでは豆ごはん用のエンドウをあんまり売ってへんからなあ。


メンデルは豆ごはん食べてなかったと思うけど、なんでエンドウにしたんかってゆうのには、ちゃんとわけがあんねんで。

本にその3つの理由が書いてあるで。

簡単にゆうたら、形が見分けられること、

花が咲くときに他の花粉がつかへんようにできること、

何代かけあわせてもちゃんと子孫ができることや。


エンドウはめしべやおしべが花の中に隠れてて自家受粉するから都合がよかったんやなあ。

けど、純粋種から雑種にするときには、いちいち花を開いておしべを取って他の花の花粉をつけるってゆうのをやらなあかん。

めんどくさー。

メンデルはこれを8年間もやりはった。


文中の7つの形質は、

種子が丸いかどうか、胚乳の色、種子の皮の色、さやの形、未熟なさやの色、花のつき方、茎の長さやて。

どの形質を調べても親の形質が混ざって中間になったりはせえへんねん。

親のどっちかとおんなじやねんってわかったんやなあ。

現れるほうを優性、隠れてるほうを劣性ってメンデルが名づけたんや。

最近では、この日本語訳がようないわってなって顕性と潜性に変わったんやで。


メンデルの組み合わせの考え方がすごかったわ。

数学が得意やったそうや。

この論文は自分が生きてる間は認めてもらわれへんかった。

1900年に3人の遺伝学者のおかげで日の目をみてほんまによかったなあ。

今では遺伝の父と呼ばれてるしなあ。


2022年10月2日

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第四十三回

『寄生虫館物語』  P131

亀谷了/著

文藝春秋 2001年


P131

 朝八時ごろからはじめて、すぐに一匹は見つかった。「しめた!」と僕は思わず叫んでいた。

 

 結局、夜暗くなるまで同じ作業を続け、全部で10匹の寄生虫が見つかった。さらに同じ作業が、何日も何日も続き、結果として合計39匹の寄生虫が採取できたのだ。

 

 次にやるのは、標本作りだ。なるべく形がしっかりしているものを選び、染色して、顕微鏡で見やすい標本を作っていった。

 

 僕は、ネオダクティロディスクス・ラチメルスという名前を、この寄生虫につけた。

 

 一種の吸着器官だと考えられるのだが、まるでお皿のような部分があるのが、この寄生虫の最大の特徴だ。名前についているディスクスは皿という意味で、それにちなんでつけられている。さらにラチメルスというのは、シーラカンスを初めて発見した、ラチメール女史にちなんでいる。

 

 パリの自然史博物館に手配して、同様のものを採集したかどうかを確かめたが、否という返事だった。そこで、新種、親属、新科として発表したのである。それは、1972(昭和47)年のことだった。

 

 スイスのベールは、彼の著書『動物の寄生虫』(1971年。1973年に平凡社より日本語版発行)の中で、シーラカンスには単生類の寄生虫がいてもいいはずだと述べている。それを僕が見つけたわけであるから、喜びは大きかった。

 

 (文中の漢数字を数字に変えました)

 

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解説 森裕美子


今年の夏、「あのビル・ゲイツさんが目黒寄生虫館に来た!」って、ネットのニュースに載っててん。

ゲイツ財団が取り組んでる熱帯病対策のお仕事で来はったらしい。

寄生虫を紹介してる「目黒寄生虫館」は世界でも貴重な博物館、ゆうことがわかるニュースやった。


このすごい博物館を創りはったんが、医師の亀谷了(かめがいさとる 1909~2002)や。

最初は小さい部屋やったのに、どんどん大きくなって今のビルになってん。

企業でもない民間がこれを70年近くも維持できてるんが、ほんまにすごいことやわ。


上の発見物語は、亀谷がシーラカンスの体の中から寄生虫を探す話や。

日本に送られてきたシーラカンスを解剖してたとき、エラの下に手を突っ込んだら鋭い歯が刺さってしもて、亀谷の手が血だらけになってしもてん。

そんな状況やのに寄生虫を探すのがうれしかったんやて。

寄生虫愛がすごすぎるやん。

けど、このときは寄生虫がちゃんと見つけられへんかったそうや。

その後、よみうりランドに展示されてたこのシーラカンスを何度も調べて、ようやっと新種の寄生虫を見つけたんや。

がんばりはったなあ。


この本にはいろんな寄生虫が登場するで。

カマキリのお尻から出るので有名なハリガネムシは人に入ることもあるらしい。

5歳の女の子から出てきたハリガネムシが寄生虫館に展示されてるねんて。

今でもあるんかなあ。


それから、めちゃくちゃ気になるのがフィラリアや。

これに寄生されて象皮病になってしもた人の写真は衝撃的や。

寄生虫館に行ったことある人は、これだけは忘れられんっていうすごい写真や。

気になる人は見に行ってな。


他にもたくさん紹介されてるんやけど、やっぱり寄生虫はこわい。

亀谷は食事について注意する点をちゃんと教えてくれてはる。

グルメな人ほどこの本読んどいたほうがええでぇ。


2022年9月18日

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第四十二回

『地球をはかる』  P196

古在由秀/著

岩波書店 1973年


P196

 その年の五月、チェコのプラハでひらかれた国際会議の、私が座長をしていた会場で、アレイさんがアメリカの月のレーザー計画について講演し、「日本にはとくに協力してほしい」といって話をむすびました。アポロ11号のテレビの中継に出てきたアレイさんは、日本からの特派員のインタビューにこたえ、「日本でも東京天文台では古在さんたちがもうすぐ観測をはじめるだろう」といったのを聞いておどろきました。

 

 私たちはまだ何の準備もできていなかったのです。アメリカではもちろんアポロ11号が逆反射器をおくとすぐ、カリフォルニアのリック天文台の口径三メートルの望遠鏡を使って観測をはじめました。

 

 月に向けては、五ジュールほどのエネルギーのレーザー光を発射しなければいけません。月は人工衛星とくらべればずっとゆっくり動いているので、望遠鏡も速く動かさなくてすみます。しかし、四〇センチ四方の逆反射器は、たとえ太陽の光があたっていても、大望遠鏡でも見ることはできません。太陽の光があたっていない、月も夜、地球も夜の時の方がよけいな光がまぎれこまないので、観測にはのぞましいのですが、望遠鏡を目標に向けるのは、目標の付近の地形も見えないのでむずかしくなります。

 

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解説 森裕美子


地球の大きさを初めてはかったんはエラトステネスやったなあ。

もっと精確に地球の大きさや形を調べるってゆうことは、こんなに大変なんやとこの本を読んで思たわ。


どうやってはかってるんかゆうたら、

恒星が月に隠れる時間を調べたり、人工衛星の軌道を調べたりすんねん。

めちゃ大きな三角測量やな。


古在由秀(1928~2018) は国立天文台の最初の台長さんや。

専門は天文力学で「古在機構」は世界的に有名なんやで。


上の文章の書き出しにある「この年」てゆうんは、

アポロ11号が月に向かった1969年のことやと思うねんけど、

アポロ11号のミッションのひとつが月面に鏡を置いてくることやった。


その鏡が「逆反射器」や。

地球からこの鏡に向かってレーザーを発射したら反射して地球に戻ってくるねん。

ほんでその往復にかかった時間を測ったら、地球と月との距離が計算できるちゅうわけや。

38万㎞も離れてる月の上の鏡やで。

簡単に当てられるわけないやんな。

どないしてやってるんか知りたい人は本の続きを読んでな。


古在先生、理科ハウスに来てくれたことあんねん。

小柴昌俊科学教育賞の第二審査のとき、先生は審査員の一人やったから現地視察に来はったんや。

そんとき、うちのばーちゃん(石原純の妻)の弟の話してはった。

名前は橋元昌矣ってゆうねんけど、じーちゃんと大学の同期で友達やってん。

ほんで天文台に勤めてたんや。

そやから古在先生もその名前を聞いたことあったんやろなあ。

知ってはったんでびっくりしたわ。


古在先生は、理科ハウスの展示をニコニコしながら見てくれはった。

「ぼくが行ったとこはなんでか審査に落ちるんや」

てなことゆうてはったけど、

理科ハウスはそのジンクスを破ってみごと第二審査を通過し、

第三のプレゼンでもトップで優秀賞をもろたで!

古在先生ありがとう!


2022年9月4日

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第四十一回

『数学おぼえ書き』  P109

矢野健太郎/著

新潮社 1980年


P109

 アインシュタインの日本における第一回目の講演は、十一月十九日に慶応義塾大学の大講堂で、「特殊および一般相対性理論について」と題して行われた。その通訳に当ったのは、和服姿の石原純博士であった。

 

 まずアインシュタインは、午後一時半から四時半までの三時間、特殊相対性理論について語り、一時間の休憩ののち、さらに午後五時半から七時半までの二時間、一般相対性理論について語った。

 

 つまりアインシュタインの講演は、通訳も入れてなんと五時間にも及んだわけであるが、この間二千数百人に及ぶ聴衆が、身じろぎもせずに最後まで静かにきいた。これはアインシュタインに非常に大きな感銘を与えた。

 

 このことを日本の新聞は、「聴衆はながい間静かにきいていた。アインシュタイン氏の声は金鈴をふるように音楽的であり、石原博士の説明は女子どもにも理解される言葉使いである。二千数百の聴衆は、理屈はわからねど全くよわされた。ちょうどアインシュタイン氏の催眠術にでもかかったように」と報じている。

 

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解説 森裕美子


矢野健太郎(1912~1993)は「ヤノケン」の名前で知られてる数学者やで。

専門は微分幾何学。

参考書でお世話になった人もぎょーさんおるやろな。

エッセイも書いてはる。

この本は雑誌や新聞やらに載った文章をあちこちから取ってきてまとめたもんや。

アインシュタインが日本に来はったとき、矢野は小学生やった。


アインシュタインはあこがれの存在やったけど、自分が数学者になってプリンストン高級研究所に二年間行ってたときに、なんとアインシュタインの部屋の斜め前の部屋やってんて。

こんなん、毎日うれしゅうてドキドキやろなあ。


アインシュタインが日本に来たのは1922年、今年は記念すべき100年目や。

新聞の記事の「女子ども」にはカチンとくるけど、100年前はこんなんが当たり前やってんなあ。

アインシュタインの講演会はどれも有料やってんでぇ。

今やったら1万円近くになる値段やった。

そやのに2000人以上も来るやなんてびっくりやな。


開催した出版社、改造社の戦略がうまいこといったんやと思うけど、

それにしても不思議な気がするわ。

アインシュタインの人気が出た理由がよーわからん。

5時間もかかる長い講演は、通訳してたじーちゃん(石原純)も大変やったやろな。

久しぶりのドイツ語であせってしもたて、どっかに書いてあったわ。


アインシュタインと和服姿のじーちゃんとのツーショットの写真が理科ハウスのホームページに載せてあるからよかったら見てな。

石原純について

2022年8月21日

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第四十回

『中谷宇吉郎 小伝と科学随筆抄』  P74

藤岡由夫/著

雷鳥社 1968年


P74

 学問の値うちは、役に立つか立たぬかで判断すべきではありませんが、しかし宇吉郎の雪から氷についての一貫した研究は、ずいぶんと役に立ちました。また宇吉郎は「雪を切ることを教える」ということを気にし、自己弁護しております。私の友人宮崎友喜雄博士は、宇吉郎の教室を出てそこの助手をしていた人であります。「北大でなにをしていられましたか」とたずねますと、にこやかに「雪を切っておりました」と答えます。博士はその後に仁科芳雄博士の門に入り、いま理化学研究所の宇宙線の立派な主任研究員です。博士が雪ばかり切っていられたことは一つのことにほんとうに打ちこめば、それが何であっても後のために役に立つようになるものだ、ということの例を示すものです。

 

 ウサギの腹毛を使って人工雪をはじめて作ったS君というのは、関戸弥太郎博士で、博士も宇宙線の著名な研究者で、名古屋大学の教授であります。雪の研究には多勢の人がかかったのですが、それぞれ後に各方面の仕事に能力を発揮されるようになりました。

 

 なお雪に見える縞模様も、宮崎氏が雪を切ってしらべた結果、高い低いの溝ができていることが分かりました。

 

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解説 森裕美子


雪を切るって何のこっちゃわからんやろ。

中谷宇吉郎(1900~1962)は雪の研究で有名な物理学者やな。

雪の結晶の種類を調べて、しまいには人工で雪の結晶を作れるようになりはった。

結晶には縞々模様があるねんけど、これを横から見たいわあって思て、結晶を切ってみたらええやんと考えたんや。

あんな顕微鏡サイズの小さいもんが切れるんか?

道具は安全かみそりやで。


助手の宮崎氏が毎日人工雪の結晶を切っててん。

ほんでそれをひたすら三か月以上もやって、しまいには切れるようになりはってんで!

すごすぎるやろ。

そこにはやっぱりなんか工夫みたいな、こつみたいなもんがあったんやろな。


この話は中谷宇吉郎が書いた『冬の華』の

「雪雑記」(青空文庫 中谷宇吉郎 雪雑記)に書いてあるで。


北海道みたいに寒いとこではいろいろ困ることが起こんねん。

地面の下が凍ってしもて盛り上がってしまう凍上とか、飛行機の翼に氷がついてしまう現象とか。

これの解決には中谷の研究が役にたってんねん。


宇吉郎の二女芙二子さんが北大の自動車に乗って小樽へ行きはったときのことや。

運転手が「札幌の道路のよいのは、まったく中谷先生のおかげです」とゆうたそうや。


この本の著者、藤岡由夫(1903~1976)も物理学者やで。

理研にいてはった。

藤岡の書いた本にはエピソードがたくさんあるからええわあ。

他の本も紹介したいなあ。

中谷宇吉郎の出身地、石川県加賀市にある「中谷宇吉郎 雪の科学館」はおすすめや。

花の形のチンダル像を生で見せてもらいましたわ。

きれかったでえ。


2022年8月7日

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第三十九回

『天体の回転について』  P14

ニコラス・コペルニクス/著

矢島祐利/訳

岩波書店 1953年


P14

 私の意見の新奇と不条理に対する軽蔑の怖れが私をして、とうに完成している著述を殆ど発表せずにおくところでした。

 

 しかし私の友人たちは私が長い間躊躇し、彼等に反抗さえしたのを思い返させました。そのなかの第一はカプアの僧正であり、知識のあらゆる分野において高名なニコラス・シェーンベルクでありました。次はクルムの僧正ティーデマン・ギーゼでした。この人は私の親友であり、宗教上また他の良い学問に対する熱意に溢れた人です。彼は九年どころでなく、既にその四倍も私のところにしまってある研究を本に書いて公けにすることを度々私に勧めたばかりでなく、私がそうしないのを何度も非難しました。その他のすぐれた学識のある人々が同じように私に求め、数学にたずさわるすべての人々の最大の利益のために私の研究を公けにすることを、私が考えている懸念のためにもはや拒絶しないようにと勧めました。地球が動くという私の理論は今のところ多くの人々に不条理に見えようとも、私の著述が出版されて不条理の雲が明瞭な説明によって消えて行けば、それは多くの賞賛と感謝を呼び起こすであろうと彼等は申しました。長い間彼等が私に求めていた私の著述を出版することを友人たちに許すに到りましたのは、このような勧めとこのような希望によってであります。

 

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解説 森裕美子


地動説で有名なコペルニクス(1473~1543) の職業は聖職者でありお医者さんや。

イタリアへ留学してたときに天文学にはまってしもた。

当時の、地球が中心で考える天動説による惑星の動きは、コペルニクスには「怪物」に見えたみたいや。

火星を地球から観測したら行ったり来たりするやろ。

そやからそれを表すために円軌道の中に周転円ってゆうちっちゃい円を加えたりしてたんやけど、その数が多すぎてぐちゃぐちゃになってたんや。


そやからコペルニクスはこの「怪物」をなんとかしようと思てん。

地球は動くことにして、太陽を中心に惑星の動きを書いてみたら周転円が減ってすっきりしたんやて。

これは数学が得意やったコペルニクスやったからできたんかもしれん。

この考えを本にまとめて、その「概要」を友だちに読んでもろたりしてたんや。

その結果が上に紹介した序文になるわけや。

結局、本を出版したのは、本人やのうてレティクスってゆう人やねん。


『天体の回転について』は全六巻の大著や。

岩波文庫にはそのうち第一巻だけが訳されてる。

他の巻については目次だけ書いてあるわ。

訳の後ろに科学史家である矢島祐利(1903~1995)の詳しい解説がついてるのがありがたいなあ。

(矢島はアララギの歌人でもあったから、うちのじーちゃんの短歌論についてまとめたりしてはる)


コペルニクスが臨終の床にあるときに、この本が届けられたとゆうエピソードが有名やねんけど、どうもそんなに間ぎわでもなかったみたいや(アシモフ著の「人名事典」参照)。

「コペルニクスは水星を見たことがない」というエピソードまであるんやけど、そんなことないやろ!

私かて水星見たことありまんでえ。


2022年7月24日

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第三十八回

『飄々楽学  新しい学問はこうして生まれつづける』  P242

大沢文夫/著

白日社 2002年


P242

 われわれの研究室に「大沢牧場」という名前をつけたのは丸山工作さんです。七〇年代の終わりです。そのころ名古屋に来た外人さんがここは大沢牧場といわれているそうですね、と言ったのを覚えていますから。丸山さんの文章をそのまま引用させてもらいますと、「殿村、大沢、江橋の三研究室は、殿村工場、大沢牧場、江橋精肉店とニックネームがつけられている。殿村工場では、工場長の企画と指図にしたがって製品が整然と生産される。やがて課長クラスは独立して、それぞれ町工場をつくる。大沢牧場では柵にかこまれた広い草原で子馬たちがのびのびと育つ。成育した駿馬たちは自由をもとめて柵外に去り、自らのテリトリーを形成する。江橋精肉店では若者は店主夫妻の監督下で徒弟奉公したのち、暖簾を分けてもらって分店を経営する。名取親分は一家をかまえて組の繁栄をきずきながら、なお日本全体の科学に奉仕する。」(『筋肉のなぞ』丸山工作、岩波書店、一九八〇)

 

 牧場と言ってもらえるのは僕にとってはありがたい話でした。「牧場」から「放任主義」が想像されますが、別に主義主張があってそうなったのではなくて、自然にそうなったのです。

 

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解説 森裕美子


これはほんまの牧場のことやないで。

生物の研究室の話やねん。

前回に紹介した丸山工作が書いた文章が引用されてる。

丸山はニックネームをつけるのが上手やったんやなあ。


登場人物の殿村雄治(1922~1982 植物学)、大沢文夫(1922~2019 物理学)、江橋節郎(1922~2006 医学)、名取礼二(1912~2006 医学)、ほんで丸山工作(1930~2003 動物学)、みんな若いときに、アルバート・セント=ジェルジが書いた筋肉についての本を読んで感動して、筋肉の研究に頑張った人らや。

その頑張りは、1957年、筋化学の国際学会を日本で開くまでになったんや。


筋肉ってな、アクチンとかミオシンてゆうタンパク質でできてんねん。

筋肉は縮んだりゆるんだりするやろ、けどそのしくみはまだよーわかってなかってん。

そんなこと知らんかて筋肉動かせるでぇと思うけど、修理するにはしくみがわからんとあかんわな。


紹介した本を書いた大沢文夫は日本の生物物理の草分け的存在な人や。

最初は物理学の人やってん。

大沢の先生が寺田寅彦の弟子やったから、大沢は孫弟子になるなあ。

そやのに、なんで研究テーマが筋肉に変わったんか、この本にエピソードだらけで書いてあんねん。

なんかこの研究はめちゃ楽しそうや。

バクテリアのべん毛(モーターを持っている)の動きを調べるねんで。

この本は登場人物が多すぎてくらくらするけど、その世界では有名な人達なんやろなあ。


大沢はぎょーさんの子馬(学生)を育てはった。

ほんでその子馬のうちの一頭が、うちのにーちゃん(兄)やった。

そやから大沢先生の名前は聞いたことあってん。

にーちゃんは本の中にある写真にも写ってるで。

大沢先生のとこで博士号を取った後、アメリカの大学に行ったまま帰ってけえへんねん。

今は研究者やないねんけどな。


2022年7月10日

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第三十七回

『新・分子生物学入門』  P144

丸山工作/著

講談社 2002年


P144

 一九八三年度のノーベル医学生理学賞がアメリカの遺伝学者バーバラ・マクリントックに授与された。三二年前に発表した「動く遺伝子」の研究に対してである。受賞の知らせをきいた八一歳のマクリントックは、「あれまあ!」とだけつぶやいて、彼女が丹精こめて手入れしているトウモロコシの畑に散歩にでかけていってしまったという。

 

 マクリントックは、ニューヨーク州のコールド・スプリング・ハーバーという小さな島にある研究所で、この四〇年間、ひとりでこつこつとトウモロコシの遺伝をしらべつづけてきた。トウモロコシの殻粒は、ふつう黄色いが、ときに、紫、黒、桃色などをしているものがある。これらは、アントシアンという色素の種類や濃さの違いによっている。マクリントックが目をつけたのは、殻粒の色がまだらになっているまだら入りの現象であった。まだら入りのトウモロコシはドライフラワー店で見ることができる。

 

 どうして、同じトウモロコシにまだら入りができるのだろうか? まず、黒っぽいアントシアン色素をつくらせる遺伝子の存在がたしかめられた。しかし、この遺伝子はトウモロコシのどの殻粒でも働いて、全体を黒くするはずで、白っぽい殻粒の出現を説明することはできない。何かが遺伝子の作用を抑えているのに違いない。


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解説 森裕美子


マクリントック(1902~1992)、かっこええなあ!

ノーベル賞の受賞まで30年以上かかるゆうことは理論物理とかであるなあ。

その理論が証明されるのに時間がかかるからや。

そやけどマクリントックの場合はちゃうで。

発見の偉大さに多くの科学者が気がつかへんかっただけやねんで。

なんや、それ。

遺伝子の研究は、今やったらDNAを研究するんやろけど、当時は染色体やった。

まだDNAの二重らせん構造もわかってなかった頃や。

メンデルがエンドウマメを一生懸命育ててたみたいに、マクリントックはトウモロコシをたくさん育てて、染色体を調べて、その中のある遺伝子が染色体から別の染色体に移動してるって見つけたんや。


どうやって見つけるんやろ。

染色体の長さを調べるんやろか。めちゃ興味あんねんけど。


今では「動く遺伝子」はぎょーさん見つかってて、「トランスポゾン」て呼ばれてる。

これを最初に見つけたんやからすごいことやなあ。


メンデルは今ではめちゃ有名人やけど生きてたときはその研究があんまり注目されへんかった。

マクリントックは長生きやったんでノーベル賞もらえてよかったわ。


この優秀な女性研究者を紹介してくれたんは、丸山工作(1930~2003)。

筋肉の研究者でコネクチンを見つけはった。

丸山の本はエピソードが入ってて読みやすいしおもしろい。

この入門書もおすすめですわ。


マクリントックについてもっと知りたい人はサイエンスチャンネルの動画(30分)があります。


「偉人たちの夢 (90)マクリントック | Science Portal - 科学技術の最新情報サイト「サイエンスポータル」


2022年6月26日

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第三十六回

『猿橋勝子 女性として科学者として』  P20

猿橋勝子/著

日本図書センター 1999年


P20

 学術会議会員選挙は、男性でもむずかしいといわれている。私の恩師三宅泰雄先生は、第七期から第十期までの四期、十二年間にわたって会員をつとめられた。毎期とも高得点で当選された。私はその時の選挙事務のお手伝いをしたので、選挙のむずかしさは、ある程度分っていた。いままでも、著名な先生方が何人も苦杯をなめている実状を、私はつぶさに見てきた。学術会議会長が次期会員選挙に立候補し、落選したこともあった。気象庁長官も現職で立候補し落選した。 一人ならず二人の長官が落選したのである。 (7行略)

 

 私がようやく立候補を決意したのは、届出締切一週間前であった。準備のよい方は一年くらい前に立候補を考え、着々と準備をすすめていられる。マラソンでいえば、他の候補者はすでに折返し地点くらいまで走っているのに、私はようやく、スタートラインに入ったという感じであった。

 

 ちょうど近くまで出かける用事があったので、学術会議に立ち寄った。係官は事務上の手続について、くわしく説明してくれ、「おかえりになりましたら、候補者の先生によくお伝え下さい」といった。私も「ハイ、わかりました。ありがとうございました」といって別れた。係官は、女性が立候補するなどとは、全く予想もしていなかったのである。実情を知る学術会議の事務官にとっては、当然の挨拶であったといえよう。


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解説 森裕美子


これ、私やったら、頭の中でブチッ!と切れてまうわ。

この係官は次からは態度を変えなあかんことになんねんで。

なんでかゆうたら、猿橋勝子(1920~2007)は、1981年に日本学術会議の初めての女性会員になったからや。

まさにファーストペンギンになりはった。

日本学術会議の会員になるんは選挙に勝たなあかんて知らんかったわ。


猿橋勝子は気象庁気象研究所に勤務していた地球科学者。

1954年、第五福竜丸が太平洋での水爆実験のせいで被ばくしたとき、

この船の放射能汚染について調査しはってん。

ほんで、それからは日本各地の大気や海洋の放射能汚染について調査して研究しはった。


毎年、5月になったら「猿橋賞」を受賞しはる女性研究者がニュースになってるなあ。

今年は原子核物理の関口仁子さんやった。

そういえば、猿橋って何を研究してはった人なんかなあと思てこの本を読んだんや。

女性研究者の地位向上のためにめちゃくちゃ活躍しはった人やった。

1958年には「日本婦人科学者の会」を創立。

この会の最初の会長は「元始、女性は太陽だった」で有名な平塚らいてう!

猿橋は事務を担当。

1964年、第一回国際婦人科学技術者会議にも招かれはった。

研究もあるのに大変やな。


猿橋は学生時代は医者になりたいて思てたけどやめたんや。

東京女子医学専門学校を受験して合格してたけどな、

面接で校長に「あなたはどうしてこの学校を受験しましたか」と聞かれて

「先生のような立派な医者になりたいと思います」て答えたんや。

そしたら校長が笑いながら「私のような女医になりたいんですって? とんでもない。

そうたやすくなれるもんじゃありません」やと。

これには猿橋かて頭がブチッと切れてもしゃーないわな。


2022年6月12日

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第三十五回

『科学の価値』  P127

アンリ・ポアンカレ/著

吉田洋一/訳

岩波書店 1977年


P127

 これは自然の蔵する秘密のうちでも最も重要な秘密の一つだ、とわたしは考えている。日本の物理学者長岡氏は最近一つの説明を提案した。氏によれば、原子は一つの大きな陽電子とそれを取り巻くきわめて多数の小さい陰電子から成る環とでできている、と言うのである。正に土星をとりまく環のようだ、というべきか。これはすこぶる興味ある試論ではあるが、まだ、これならまったく申し分ない、とはいい得ない。この試案にはもっと手を加える必要があろう。われわれは、いわば、物質の内奥にまで立ち入ろうとしているのである。

 


『日本の科学精神2』 原子力時代の曙 P13

工作舎 1978年


P13

長岡 いや、今の人は臆病なんだよ。ぼくは無鉄砲だからね。(笑声) 自分の考えたものはかまわず出したんだけれども、アトム・モデル(原子模型) というものを出したときには、なんだこんなものが--- といわれたもんです。


渡辺 そのころ、山川健次郎博士が物理のほうではおられたんでしょうか。


長岡 いや、山川先生はいなかった。中村清二氏などいたね。みんな反対した。反対したというわけじゃないが、疑いの目をもって迎えたわけだ。----しかし、ポアンカレーが彼の本の中で、こういうものもあるということを書いている。


藤岡 ほめていましたね。---どうも日本人は昔から、外国で有名になったものでないと、信用しないという癖があります。


長岡 掃き溜のゴミばかりほじくっている。これは日本人の大きな欠点だね。漢学者の残した弊害です。


(1948年9月 朝日新聞社出版局主催鼎談会にて  話手は長岡半太郎、渡辺寧、藤岡由夫の三人)

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解説 森裕美子


今回は前回の続きやで。

長岡半太郎が考えはった「土星型原子モデル」は、1904年には外国にも発表されたんや。

ほんで、ポアンカレ(1854~1912)がちゃんとそれを知ってて、

翌年出版した本に書いてくれてん。

長岡はこれはうれしかったやろなあ。

日本ではあんまり評価してもらえへんかったみたいやから。


論文を出した頃の様子を回想してるのを書いてあった本を見つけたから、付け足しときました。

上の文中の「重要な秘密」ていうのは、原子の構造が謎になってることをゆうてんねん。

ゼーマンていう物理学者が、ナトリウム原子から出る光のスペクトルを調べてたときに、

ナトリウムを強い磁界中においてみたらスペクトルの輝線が増えてまうでぇってゆうたんや。

いったい原子の中身はどないなってんねんってなったんや。

ほんでいろんなタイプの原子モデルが考えだされたんやなあ。


次は、ポアンカレの説明するわな。

「ポアンカレ予想」って聞いたことあるやろ。

解けたら賞金がもらえる数学の難問や。

ぺレルマンが解いてしもたけどな。

ポアンカレ本人よりポアンカレ予想のほうが有名になってるで。

けど、他にもポアンカレの名前がついてる定理とか、めちゃたくさんあるねん。

私ら知らんだけやで。

とにかくポアンカレは、トポロジー(位相幾何学)の泰斗(たいと)や。


そんなポアンカレは科学に対して言いたいことたくさんあったんやなあ。

『科学と仮説』(1902)、『科学の価値』(1905)、『科学の方法』(1908)『晩年の思想』(1913)、の4冊も書いてる。

ちょうどこの頃、アインシュタインの相対性理論やボーアたちの量子力学が出てくる直前やった。

もう預言者になったみたいに、次はこうなるで、みたいなこといっぱい書いてはるわ。

数学だけやのうて科学についてこんだけ書けるってだけでもすごさを感じるわ。

本の内容は難しゅうて全部はわからんかったけどな。


2022年5月29日

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第三十四回

『物理学者の眼』  田園銷夏漫録・抄  P139

長岡半太郎/著

学生社 1978年


P139

 寺の背後には孟宗竹の茂林がある。小高くなって、遠くから望めばふさふさとした竹の葉が風にそよいで、何となく寺門のあるかを疑わしめる。この竹山には大震で断層が現れた。由来地震が揺れば竹藪ににげろと言われているが、ここでは著しき除外例を示した。竹山の下にある寺は、はなはだしく揺れて、ついに倒壊した。寺門はむろん潰れたが、倒れた寺の屋根をそのままに残して、大黒柱などは中折れしてしまった。門傍の仮屋に住っている住職は、日露戦争の勇卒で、容易に動じる人ではないが、大震のときは肝を冷したようである。(4行略)

竹林も外から見ては何たる変りがないようだが、竹にまとう蔦や笹枝を手蔓に、けわしい坂をよじ上れば、竹林を横ぎる陥没地がある。割れ目が二メートルもあろうか、竹の根などがこの作用に対してどんな抵抗をなし得たか。竹も根も草も、木もめちゃくちゃに倒れて、その中に葬られ、ものすごい状況を呈している。この割れ目は震後数日はどのくらい深いか分からなかった。試しに石を落して見ると、しばらくあって水に落ちたような音がしたそうである。だんだんそばの土が崩れて、ついに今日のごとくなかば埋ってしまった。

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解説 森裕美子


2メートルも地面が割れてしまうて、こわすぎる!

落ちたら大変や。


倒れてしもた寺は、神奈川県横須賀市津久井にある荘厳寺。

大震とゆうのは関東大震災(1923年)のことや。

長岡半太郎(1865~1950)は、この寺の近くに別邸をもってはって、

夏になると東京は暑いからいやや、ゆうてこっちに来てたんや。

震災のときにもこっちにいてはった。

長岡の別邸は倒れへんかったけど、壊れたから修理せなあかんかった。

90年も経ってる萱葺きの家やて。

震災の時は二晩を庭で過ごしたそうや。

大変やったなあ。


「田園銷夏漫録・抄」は

この避暑地でのいろんなできごとを震災の翌年の11月に綴ったものや。

下浦のタコは甘くておいしいとか、

海にアジ釣りに行って釣り糸の横振動を観察したりしたとか、

油壷にある東大の臨界実験所まで出かけた話とかを書いてはる。


今、この別邸のあったところには記念館が立ってるねん。

「長岡半太郎記念館・若山牧水資料館」


歌人の若山牧水も近くに住んではったことがあってんなあ。

なんでかしらんけどセットにされてしもた。

ちっちゃい記念館で受け付けの人も一人やから、昼休みには閉まってまうねん。

行きたかったら、昼の時間に重ならんように気をつけたほうがええで。


物理学者の長岡半太郎はうちのじーちゃん(石原純)の大学の時の先生やってん。

たくさんの弟子を育てはった。

1903年に、原子はまんなかにプラスの電気を持った原子核があってそのまわりをマイナスの電気を持った電子が回ってるてゆう「土星型原子モデル」を考えはった。

電子はもう知られてたけど、陽子も中性子もまだ誰も知らん頃の話やねんで。


2022年5月15日

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第三十三回

『自然発生説の検討』  P104

ルイ・パストゥール/著

山口清三郎/訳

岩波書店 1970年


P104

 あらかじめ加熱された浸出液に出現するすべての有機体性生成物の起源は、空気が断えず運んで来てあらゆる物体の上に置き捨ててゆく固態粒子以外のなにものでもないことが、前の諸章において厳密に証明されたことと思う。もし、それでもなお、この点に関して読者の心中に一抹の疑惑が留まりうるならば、以下に述べる諸実験によりそれは払拭されるであろう。

 まず、外気に接触するとき極端に変敗しやすい性質をもつ種々な液、すなわちビール酵母浸出液、糖含有ビール酵母水、尿、甜菜汁、胡椒水の中から一つを選んでガラス製フラスコの中に入れ、フラスコの頸(くび)を火焔で引き伸ばして第二十五図に示したような種々の彎曲(わんきょく) をこれに与える。

次に液を数分間煮沸し、引き伸ばされた頸の開放されたままになっている端から水蒸気が盛んに噴出するまでこれを続ける。そのほか、特に注意すべき点はない。そして、フラスコを冷却せしめる。すると、このフラスコの液は変敗することなくいつまでも原状に留まっているのである。これは不思議なことであり、いわゆる自然発生に関する微妙な実験に慣れて来た人たち全体を驚かせるに十分である。

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解説 森裕美子


図の一番上のフラスコの先っちょがS字状に曲がってるやろ。

これが「白鳥の首フラスコ」と呼ばれて有名なんや。

なんでパスツール(1822~1895)がこれを作らんとあかんかったんかは、ふか―いわけがあんねん。


当時、科学者の中にも、生き物は親なしでも生まれる、てゆう自然発生説があったんやな。

さすがにカエルとか虫とかはそんなことはないとわかってたんやけど、

微生物はそう思われてたんや。


パスツールはそんなわけないやろ思て、これを証明しようとしたんや。

微生物がわくのは、親となる粒子が何かにくっついてたり、

空気中の塵の中におるからやと。


たとえば牛乳を入れたフラスコをそのまま置いといたら、微生物がわいて腐ってしまうわなあ。

そやから牛乳を入れたフラスコを煮沸した後、微生物が入らんようにその口を閉じてしまうねん。

これは一週間経っても腐らへんかった。


ところが、自然発生説の人から「そんなことしたら中にあるんは生気のない空気やから微生物も生まれへん」って言われてしもた。

それで、パスツールは空気は入れるけど空気中の塵は入らんようにしたかったんや。

白鳥の首フラスコは、S字状になってるから塵は途中で落ちてしもて管の上のほうには上がられへんねん。

このフラスコで実験したら牛乳は腐らへんかってん。

うまいことできたなあ。


パスツールのぎょうさんの実験のおかげで、牛乳が腐らんように保存する方法も見つけられた。

「パスチャライズ」という言葉は、パスツールから来てるんやて。


これでもう自然発生説は消えてしまうんかなあと思うけど、

生命の起源を考えるとき、自然には生命は生まれへんねんやと思たら不思議な気するわ。


2022年5月1日

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第三十二回

『ノー モア ウォー』 P156

ライナス・ポーリング/著

丹羽小弥太/訳

講談社 1959年


P156

 その後一九五七年五月に私はセント・ルイス市のワシントン大学で講演した。(13行略) 私はつぎのようにつづけた。「私は人道主義者である。私は事業のために一人の人間もぎせいにしてはならないと信じている。とくに私は数億の人間を殺し、われわれの住むこの美しい世界を破壊する核兵器を完成する事業のためにただ一人の人間も犠牲にしてはならないと信じている」 私は一七八〇年にベンジャミン・フランクリンが科学者のジョセフ・プリーストリーにあてた手紙からつぎのような一節を引用して講演を終えた。「真の科学の急速な発展をみるとき私はときどき早く生れ過ぎたことを後悔する。千年後に物質に対する人間の力がどのような高さにまで高められるか想像することは不可能だ。道徳の科学が同じように進歩の大道を進むことができ、人がお互同士狼であることをやめ、人間がついには現在不適当にも人間性と呼んでいるものをほんとうに理解することができますように!」

 この講演が終ったときの喝采、出席していたワシントン大学の千余の学生、教授たちの一部から受けたなにか自分たちでできることはないかという質問、これが私にアメリカの科学者が署名できるようなアピールを準備するという構想を進める決意を固めさせた。


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解説 森裕美子


戦争はいやや。

ポーリング(1901~1994)もそうゆうてるし、こんな題の本も書いてる。


ポーリングはこの講演後に、原子爆弾の実験の停止を求める声明を書いて署名を集めはった。

すぐにアメリカの科学者達からの署名が届き、数か月後には、世界の1万人を超える科学者からの署名が集まったんやて。

そのうち日本の科学者は1161人や。

被爆国やから関心は高かったはずや。

これを集めたんは、ポーリングから頼まれたある日本の科学者やと思うねんけど誰やったんやろな。

とにかく、このたくさんの署名はポーリングがまとめて国連に提出しはった。


忘れてた。

先にポーリングの説明しとかなあかんかった。

1954年に化学結合や分子構造の研究でノーベル化学賞もろてはるで。

「おもしろ科学史エピソード」の第一回で紹介したクリックがDNAの構造を論文で書いてた頃、ポーリングも同じ謎を解こうとしてたんや。


ほんでクリックらがノーベル賞をもろた1962年に、なんとポーリングは2個目のノーベル賞をもろてはんねん。

こんどは平和賞やった。

上に書いた署名のことがひとつの理由やと思うけど戦争中から平和主義を通してたんや。

第二次世界大戦の後、アメリカとソ連は争って核実験をやってたんや。

しかも広島や長崎で使うた爆弾より千倍も強力な水爆の実験や。

そのせいで地球に降り注がれた放射性元素、ストロンチウム90や炭素14の影響がどんなもんになってしもたんか、この本が教えてくれる。


フランクリンとプリーストリーの関係も気になるねんけど、

科学者が戦争とどうかかわってきたのかようわかる本やと思うわ。


2022年4月17日

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第三十一回

『パスカル全集 第一巻』 P526

ブレーズ・パスカル/著

松浪信三郎、安井源治/訳

人文書院 1959年


P526

 或る意見があらゆる時代を通じて全般的にあらゆる人々から受けいれられてきたという理由で、この意見を疑わしいと思うことを敢てしない人々には、おそらく次の実例が眼を開かせてくれるであろう。というのも、唯の職人風情ですら、世に哲学者と称せられる偉い先生がたの誤謬を、立派に証拠立てることができたからである。なぜなら、ガリレイはその『対話』の中で言明しているように、ポンプが一定の高さまでしか水を引き上げえないことを、イタリーの井戸職人に教えられたからである。その後ガリレイは自分でそれをためしてみた。イタリーでは、ついで他の人々がそれを試みた。その後、フランスでは、便宜上、水銀を用いて試みてきたけれども、種々の仕方で同じことが示されたにすぎなかった。

 このことが知られないまえには、水をポンプに上昇させる原因が空気の重さにあるということ、そして、この重さには限度があるから、無限の現象を呈させることはできないということを、証明するよしもなかったのである。

 けれども、すべてこれまでの実験では、空気がかかる現象の原因であることを示すには、まだ十分ではなかった。というのも、それらの実験はわれわれを一つの誤謬からは脱却させたものの、なお依然としていま一つの誤謬のうちに残しておいたからである。思うに、それらすべての実験によって、水が一定の高さまでしか上昇しないということはわかったけれども、低い所へ行けば行くほど一そう高く水が上昇するということはわからなかったからである。


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解説 森裕美子


最初に水銀を使うて「真空」を作って見せてくれたんは、ガリレイの弟子やったトリチェリやで。

世の中の人は「自然は真空を嫌う」ゆう理由で、なかなか納得でけへんかってん。

この実験の話を聞いたパスカル(1623~1662)は、おんなじようにやってみてな、

ほんでもっとええことを思いついたんや。

この実験を高い山の上でやってみたいって。

けど、パスカルがおったとこには高い山がなかってん。

しゃーないから姉ちゃんの夫のペリエに頼んで、1000mくらいの山に登ってやってもろてん。


水銀は重いから運ぶのが大変やったやろなあ。

そしたら水銀の高さは測る場所によってちょっとずつ違ってたんや。

これで気圧が測れるやんってことになったんやな。

パスカルの名前が気圧の単位に使われるのは納得ですわ。


この『全集』には、デカルトが訪ねてきた話とか、

フェルマ(フェルマーの定理で有名な数学者)からの手紙とか、

ホイヘンス(光は波やでとゆうた有名な物理学者)への手紙とか載ってて、

テンションめちゃあがる。


気圧の実験をやってくれたペリエからの手紙は、実験の具体的な様子が詳しく書いてあるし、

実験の結果に驚いてる様子までちゃんと書いてあるのがよかったわ。


ペリエは本の冒頭の「パスカルの生涯」の中で

「弟はよく、十八の年から一日として苦痛なしに過ごしたことはないと私どもにいっていた」て書いてる。

それほどパスカルの人生は病気との戦いやったんや。

ある時、あんまり歯が痛くて寝られへんから数学の問題を解いたりしてんねんけど、

他にすることなかったんかな。

39歳で亡くなってて悲しすぎる。


晩年は病気がひどうなりすぎて哲学者になりはった。

そっちに興味がある人は『パンセ』を読んでみたらええと思うわ。

「人間は考える葦である」とゆうたんはパスカルでっせ。


2022年4月2日

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第三十回

『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 下』 P32

レオナルド・ダ・ヴィンチ/著

杉浦明平/訳

岩波書店 1958年


P32

 あらゆる運動は自己維持につとめる、換言すれば動かされたあらゆる物体は、彼の中に動かし手の力の印象が保存されるかぎり、いつまでも動く。〔V.U.13r.〕

 ――― 重さが自分の場所にじっと止まっていないのはなぜだろうか。

 ――― それは抵抗物をもたないゆえに止まらないのだ。

 ――― ではどこへ動いて行こうとするのか。

 ――― 地球の中心へ向ってうごく。

 ――― それではなぜ他の線に沿って(動か)ないのか。

 ――― なぜかなら、抵抗物をもたぬ重さは最短径路を通って落下しようとするが、そのもっとも低い場所は地球の中心だから。

 ――― それではなぜその重さというものはそんなにごくたやすく地球の中心を発見することができるのか。

 ――― 何となれば、感覚をもっていないので(自律的運動をもたないので)あらかじめさまざまな方向をさぐって見るわけに行かないからだ。〔Ar.175v.〕


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解説 森裕美子


「慣性の法則」みたいなん書いてあるやん!

こんとき、「慣性の法則」で有名なガリレオ・ガリレイはまだ生まれてへんねんけどお。

ほんで重力についてもめちゃ考察してはるし。

自分で考えた疑問に自分で答えてはんねん。

なんでこんな疑問がわくねんやろ。

やっぱり観察力やな。

それと好奇心のかたまり。


紹介でけへんかったけど、「太陽は動かない」て書いてあった。

これ、地動説やん。

光についても詳しいで。

ピンホールカメラもちゃんと説明してはるし、眼が光を受け取ると書いてる。

解剖はぎょーさんやってはったみたいやから体には詳しいなあ。

貝の化石が山の上にあるんは洪水のせいとちゃうでって書いてはる。


こんなん紹介してたらきりがないわ。

レオナルドはん、あんたはいったい何物なん?

ただの絵描きさんやなかったんやねえ。


「レオナルド・ダ・ヴィンチ」は、「ヴィンチ村のレオナルド」という意味なんや。

ほんまの名前はレオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ(1452~1519)。


「手記」はあちこちから発見されてて文章の後についてる記号は、それがどこの資料なんか教えてくれるねん。

〔V.U.〕はトリノ王室図書館蔵、〔Ar.〕は大英博物館蔵や。

上巻には人生論、文学や絵のことについて、下巻は科学論や手紙。


なんでか知らんけど、この手記は鏡文字で書かれてたんやって。

読みにくいし書きにくいやん。

なんでわざわざそんなことしたんやろ。

他の人に読まれるんがいややったんかなあ。

悪いけどぎょーさんの人が読んでしもてるで。

それに、今ではめちゃ人気もんになってまっせ!

けど、人気になったんはモナリザのせいで、物事の思索のせいやなかったんが悔しい・・・。

なんで鏡文字やねん!


2022年3月20日

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第二十九回

『マッチの化学・日本酒の化学・お茶の健康科学』 (電子書籍)

産みの親と育ての親

池田菊苗/著

日本酒造会社


 世間の人の未だかつて見たこともなく聞いたこともない、全く新規のものを世の中に広めるということは、並大抵の才能と努力によっては成し遂げられないことである。すでに知れ渡っている品物を改良する方法によって製造し、あるいは既知の物に改良を加えて販売するなどということは、普通の製造業者や商人でも出来ることであるが、鈴木三郎助君が味の素を世の中に広めたことなどは、これらとは次元の異なるもので、その功績は真に特筆され、大書されるべきことである。

 そもそも私が味の素を発明した動機は、それまで合成化学の製品としては、視覚に訴える色素、嗅覚に訴える香料はその種類も産額も非常に多いにもかかわらず、味覚に訴える製品としてはサッカリン、ダルシトールなどの甘味料を除いては、ほとんど絶無であることに気付き、この方面で一つの新しい例を示したいと思ったからである。

 またもう一つは、昔から粗食に慣れた日本人には、欧米人に比べて栄養不良の患いが多いので、微力ながらこれを救うのに役立ちたいと思ったからである。当時、私は『東洋学芸雑誌』に掲載された三宅秀博士の講演で、「美味が大いに消化を助ける」ということを読んで、大変に感心した。そこで私は、良好な調味料を発明して粗食を美食に変え、私たち日本人の栄養状態を向上させようと志したのである。


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解説 森裕美子


化学者やった池田菊苗(1864~1936) が産んだんは「味の素」や。

私が子どもの頃には、食卓に必ず置いてあったわ。


味の素は、Lグルタミン酸ナトリウムでできてんねん。

そやからグルタミン酸の発見者とまちがわれることがあるんやけど、

池田が発見したんは「うま味」のほうやった。

これを商品化して、みんながもっとおいしいご飯を食べたら日本人の体格もようなると考えたんや。

この頃から100年以上たった今では、体格もようなりすぎて太りすぎを心配してる人が多いなあ。


ほんで育ての親は鈴木三郎助、味の素株式会社の創業者や。

池田は、産むより育てるほうが大変やとゆうてはる。

そんだけ苦労が多かったちゅうこっちゃ。


味の素を作る最初の工場は逗子にあってんて!

へぇー、知らんかった。

逗子・葉山に昔から住んでる人にとっては有名な話らしい。

理科ハウスの学芸員の山浦は葉山で育った人やから聞いてみたら、

小学校の体育館に鈴木三郎助のでっかい肖像画があったと。

学校にたくさん寄付してくれてはったんやなあ。


池田は、なんとドイツのオストワルドのとこへ行って勉強して来たんやで。

オストワルドは名著『化学の学校』を書いた人や。(おもしろ科学史エピソード第28回を参照してな)

ほんで、その後イギリスに行ったときに、同じく留学してた夏目漱石と仲良しになりはった。

有名人同士でつながってるんがすごいなあ。

話が合うんやろな。


味の素株式会社のホームページに池田菊苗の紹介動画「うま味発見百周年ドキュメンタリーAMBITION」があるで。

15分くらいの短いドラマやねんけど、そこにオストワルドの写真も出てくるでえ。

よかったら見てみて。


ドラマはこちらから見ることができます。

味の素グループ 社史・沿革


2022年3月13日

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第二十八回

『化学の学校 中』 P245

オストワルド/著

都築洋次郎/訳

岩波書店 1958年発行


P245

(先生) 西暦一六七〇年の頃一人の錬金術師がいました。名をブラントといい不徳の商人であった。彼は考えた。自然の中で最も貴いものは人間である、だから何物からか金が作れるとすれば人間の体から出たものから作れるにちがいないと。そこで彼は人間の流動排泄物をとり、それを蒸発させ残留物を陶器製のレトルトに入れ強烈な火を加えて蒸留した。金は全然得られなかったが彼はリンを得たのであった。

(生徒) いったいどうしてそんなことができたんですか。

(先生) 人間の食物にはリンの酸素化合物が含まれています。

(生徒) それじゃブラントは少しも金をもうけなかったんですね。

(先生) 彼のリンはほとんど金と同価値でした。というのは彼は方々を旅行し金銭をとってリンをみせ、またその少量を非常な高い値で売ったのです。

(生徒) いったいほかにも誰もリンがつくれなかったんですか。誰でもそれに必要なものを持っているのに。

(先生) ブラントは彼がどうしてリンをつくったかを誰にもいわなかった。それは彼が科学者ではなく一個の商人であったからです。ところでそれは永く続かなかった。その製法を他の人々が聞きこんだのです。すなわちドイツではクンケルという学者、英国ではボイル ------

(生徒) ボイルの法則を発見したボイルですか。

(生徒) そうです。


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解説 森裕美子


この、おしっこからリンを作った話は有名らしい。

なんでかゆうたら1669年に元素を発見した初めての人として、ヘニッヒ・ブラントは名前が残ったからや。

もちろん、元素のなかでも鉄とか銅とかは前から知られてたけど誰が発見したかなんてわからへん。


ブラントは、ほんまに金ができると思てたんやろか。

おしっこが金色やからな。

出てきたのはリンやったけど、これが光ったときにはほんまにびっくりしたやろなあ。

リンの作り方は秘密にしてたってことやけど、

ものすごい量のおしっこを集めるだけでも大変やのに、

それを煮つめるなんて誰が考えるんや。錬金術師はすごすぎたなあ。


この本の著者、オストワルド(1853~1932) は触媒の研究でノーベル賞をもろてはる物理化学者。

化学反応は触媒を使うたら速なるでぇってなって、

白金を触媒にしてアンモニアから硝酸を作る方法を考えはったんや。


ほんで、単位のモルを使い始めたんもオストワルドやねんて。

理科ハウスの展示で「モル風船」を作ったことがあったなあ。


この『化学の学校』は、なんでもよう知ってる先生と優秀な生徒さんの会話で書かれてる。

会話形式にしたんは、ガリレイの『新科学対話』がええなあと思てたからやて。

先生は元素をひとつひとつ説明して、実験のやり方も教えてくれはるんやけど、

この実験危ないやろと思うのもあったわ。

塩酸と水酸化ナトリウムの水溶液をまぜて蒸発させて塩(塩化ナトリウム)ができる実験は、今の中学校の教科書にも出てくるけど、

おおーってなるわ。


実験がたくさん出てくるから、化学が好きな人にはたまらん本やな。

この本の訳者は都築(つづき)洋次郎、日本の化学者やで。

いつか紹介できたらええなあ。


2022年3月6日

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第二十七回

『化学命名法』

報告 1787年4月18日、王立科学アカデミーの公会の席上で読まれた、化学上の命名法を改良、完全化する必要性についての ラボアジェLavoisier 氏による P8

ラボアジェ/著

田中豊助、 原田紀子、牧野文子/訳

内田老鶴圃新社 1976年発行


P8

 化学に使われる表現の一部は、錬金術師たちによって導かれた。彼等にとって、彼等自身も知らない正確で真実のアイデアを伝えるのは、むつかしかったであろう。さらに、彼等の目的は、必ずしも理解されるということではなかった。彼等は、なぞの言葉を使った。なぞの言葉は、彼等に固有のものであり、その道の達人には、しばしばあるきまった意味をもつが、一般大衆には、別の意味をもつのである。したがって、双方にとって、正確さも、明確さももたらされない。このように、この哲学者たち[錬金術師] の油、水銀、水さえも、われわれがその言葉に結び付ける油、水銀、水ではない。武装した男、ホモ・ガレアトウスは、蓋のある蒸留びんのことだった。死人の頭は、蒸留びんの蓋。ペリカンは蒸留容器を表していた。劫罰を受けた土、カプト・モルトゥームは、蒸留残渣を意味していた。

 同じように、化学の言葉を歪曲したもう一方の学者たちは、故意的な化学者たちである。彼等は、事実のアイデアに合致しないものをさえ、事実として数えあげた。彼等はいわば、保存すべきものを変質させたのである。彼等は、推理という道具を身につけ、事実を見失ったのである。だから、科学は、彼等の手の中にあっては、空想によってつくられた建物でしかない。

 今は、化学の進歩の障害となるものを、すべて取り除くべき時期である。


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解説 森裕美子


「武装した男」は、ビンのことやて。

「死人の頭」はその蓋のことやねんて!

なんでこんな名前つけてしもたんや!


もっとあるで。

「ビトリオルの油」は硫酸のことや。

「ビーナスの精」は酢酸や。

鉄の酸化物のことを「火星のサフラン」てゆうてたんや。

こんなん、いやや。

名前、変えたなる気持ちわかるわあ。


ついに、古い名前を全部新しくしよう思て

ラボアジェ、ベルトレ、ド・モルボー、ド・フールクロワの四人で書いたんがこの本や。

本の中身は、辞書のように古い名前と新しい名前がずらずらっと並んでる。


ようやってくれた。

私らが使うてる、炭酸カルシウムとか塩化ナトリウムとか

その物質が何でできてるんか

見ただけですぐわかる名前の付け方の基礎を作ってくれたんがラボアジェやねん。

もちろん当時はまだまだ完璧やなかったけどな。

けど、これはものすごう革命的なことやった。


ラボアジェ(1743~1794)は化学の父と言われてるくらい有名やん。

本業は徴税官やったんやけど、他にもいっぱい人の役にたつ仕事してはったんや。

こんなすごい人やったのに、フランス革命のとき裁判にかけられて、

徴税官やったゆうだけのためにギロチンの刑にされてしもてん。


裁判にかけられたときに、ラボアジェを助けよう思てまわりの人達ががんばったんやけど

「我が共和国には学者は要らない」

とあっさり言われてしもた。

これは悲しすぎる。

学者がいらん国てどんな国やねん!


その一年後、この裁判はまちがいやったことになったんやけど

ラボアジェはもう戻ってけえへん。

どないしてくれんねん!

『ラヴォアジェ傳』を読んだらラボアジェがどんだけかっこええ人か、ようわかるで。


2022年2月27日

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第二十六回

『平賀源内集』放屁論後編 P20~23

平賀源内/著

塚本哲三/編

有朋堂 1917年発行


P20~23

 ゑれきてるせゑりていと (エレキテルセエリテイト) といへる、人のからだより火を出し病を治する器を作り出せり。そもそもこの器は西洋の人電(いなづま)の理をもって考へ、一旦工夫は付けけれども、その身の生涯には事成らず、三代を経て成就しけるといへり。阿蘭陀人(おらんだじん)といへども知る者はいたって少く、もとより朝鮮唐天竺の人は夢にも知らず。いわんや日本開びゃく以来はじめて出来たる事なれば、高貴の方々を初めとして、見ん事を願ふ者夥(おびただ)し。或日去る屋敷の儒官 石倉新五左衛門といへる人来りて、観る事やや久うしていわく、天地人の三才に通達するを儒といふ。我天下の書に眼をさらし、理を以て推す時は森羅万象 明かならざる事有るべからずと思ひしが、今是を見て始めて驚く。

  (中略)

 いかなる理にて火出づるや、後学のため承らんと。其時主人うちうなづき、書を読む計を学問と思ひ、紙上の空論を以て格物窮理と思ふより間違いもできるなり。さらば火の出る根元をお目にかけんと、取出す小冊に、昔語花咲男放屁論と題号せり。

  (中略) 

 拙者屁の講釈を聞きには参らず、かのゑれきてるより火の出る道理を聞かんとこそ望みしに、もってのほかの屁あしらひ。さては我らを屁のごとく思ひ給ふやと、真黒になって立腹す。そのとき銭内(ぜにない)ことばをやわらげ、ゑれきてるより火の出る道理を、聞かんとお尋ねあれども、一天四海ひっくるめての大論にて、一朝一夕に論じがたし。よく近く譬(たとえ)を取って教えんため、さてこそ屁論に及びたり。


(読みやすくするために一部の漢字をひらがなにしました)


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解説 森裕美子


エレキテルのほんまの名前は「エレキテルセエリテイト」やったんや。

ほんでこれは、病気を治療するための道具やってんな。

今でゆうたら摩擦起電器のことやで。


上の文中の主人公は、貧家銭内(ひんかぜにない)とゆう名前やけど、

もちろん源内のことや。

エレキテルをまねして作れても、なんで火(放電)が出るのか説明でけへんかってん。

それがなんで放屁論につながるのかわかりにくいと思うから、簡単に説明するわな。


当時、両国橋に自由自在に屁を出すことができる大道芸人がおって、

えらい評判になったんやて(江戸時代ってすごいなあ)。

源内は友だちといっしょに見に行って議論になったらしい。

友だちが言うには、

あんなものでお金を取るのはけしからん、しかけがあるのかどうかもわからんと。


ところが、人々の工夫のなさに嫌気がさしていた源内の意見は全く違うてたんや。

放屁男にも工夫があるとほめたんや。

エレキテルかて、火が出る理由がわからんかっても意味があんねん、

と言いたかったんやろな。


うちのじーちゃん(石原純)が書いた『偉い科学者』の中に平賀源内のお話があるんや。

そのころは電池なんか無かったし、

クーロンが電気の法則を見つけ出したんが1785年やから

平賀源内によってエレキテルが1776年に作られたんは際立ってる、と書いてるで。


「エレキテル」は現在、東京都墨田区にある郵政博物館と香川県さぬき市にある平賀源内記念館にあるらしいから、見に行ってみたいなあ。


(石原純著『偉い科学者』の「平賀源内」は青空文庫で読むことができます)


2022年2月20日

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第二十五回

『方法序説』 P80

ルネ・デカルト/著

谷川多佳子/訳

岩波文庫 1997年発行


P80

 さて、今から三年前、わたしはこれらすべてを内容とする論文(『世界論』)を書きあげて、印刷業者の手に渡すために見直しを始めていたのだが、そのとき次の知らせに接した。わたしが敬服する方々、しかも、わたし自身の理性がわたしの思想に及ぼす権威に劣らぬほどの権威をわたしの行動に及ぼす方々が、ある人によって少し前に発表された自然学の一意見を否認した。というのである。わたし自身同じ意見だったと言うつもりはないが、しかし次のことは言っておきたい。その方々の検閲が出るまでは、宗教にたいしても国家にたいしても有害だと想像されそうな点、したがって、もし仮に理性によってわたしが納得したならば、それを書くのを妨げるような点を、少しもその意見のなかに認めなかった、と。そして、きわめて確かな論証をもたないかぎりけっして新しい意見を信用しないように、また、人の不利益になりそうな意見はけっして書かないように、わたしはつねに細心の注意をはらってきたのだが、このような事件があると、それでもやはり自分の意見のなかに何か思いちがいがありはしなかったと心配になった、と。自分の意見を公表しようとしていたわたしの決意をひるがえさせるには、これだけで十分だった。


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解説 森裕美子


デカルト! びびってるやん!

なんか遠回しに書いてはるけど、ようは自分の本を出版するのがこわなってんな。

なんでかゆうたら

ガリレイのせいやねん。


1633年にガリレイは宗教裁判で有罪になってしまいはってん。

ガリレイは自分の書いた本、『天文対話』の中でコペルニクスの地動説は正しいでぇ、って書いたんや。

そしたらローマ法王庁の裁判所が、

それは、こういう説もあります、やったらええねんけど、

正しいってゆうたらあかん、ってなって、

ガリレイは監禁されてしもうたんや。


デカルトは自分も裁判になったらやばいと思て、

『世界論』を出版するのをやめたんや。

結局この本はデカルトが死んでから出版されたみたいやで。

科学の世界で、自分が正しいと考えたことを発表でけへんようになったらえらいこっちゃ。


デカルト、ゆうたら

「ワレ惟(おも)ウ、故ニワレ在リ」

で有名な哲学者やなあ。

『方法序説』は、ほんまは『理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話〔序説〕。

加えて、その方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学』ていう長い名前の本の序文やねんで。

序文だけが、この名言のおかげで有名になってしもてるなあ。

本文は科学の分野や。

デカルトは哲学者と言われてるけど、

当時は哲学と科学に境目はなかったんや。


『幾何学』は、わかりにくかったから斜め読みしてみた。

今やったら当たり前に使うてるルールを説明してるから、よけい難しいねん。

これが科学史の難しいとこやな。

当時、何がわかってて何がわからへんかったんかを知ってんとあかん。

とにかく、未知数のxとかyとか、xy座標みたいなもんを使い始めたんはデカルトや。

わたしら、めちゃデカルトにお世話になってんねんなあ、

とゆうことですわ。


2022年2月13日

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第二十四回

『数学する人生』 私の歩んだ道 P68

岡潔(おかきよし)/著

森田真生/編

新潮社 2019年発行


P27

 こういうわけで一年物理をやってみたのですが、どうしても数学がやりたくなる。これはさきにもいったようにそういう種をまいておいたのが一番大きな理由だろうと思います。それに数学を選ばないで物理を選びましたのは、まだしも物理でオリジナルな仕事をするほうがやりやすかろうと思ったので、数学でそういうことのできる自信はさらになかったのです。ところが、三学期に安田先生という講師をしておられた非常によくできるかたがあって、その先生の試験問題の一題がひどくオリジナリティの要る問題でして、それを解きましたあと、ちょっと私の解け方が、ポアンカレーが数学上の発見はこんなふうにしてできたものだ、と詳しく説明しているのですが、そういう形式でできたのです。それだけでなく、ポアンカレーはそのことは書いていないのですが、するどい喜びがまるで物質が体内に残るように、長くその日の暮れ方まで残っていました。

 私は、だから次に試験がひかえているのですが、ほかのものをやれないものですから、円山公園に行って、ベンチに寝そべって、まだ芽の出ていない木の枝をながめながら夕方までそうしていました。それはまるで砂糖分が体内に残るような喜びでした。そのことについて、私は「発見のするどい喜び」と呼んでいるのですがこのことばは、寺田(寅彦)先生から借りたのです。チョウ類の採集のとき、チョウがとまっているのをみると、それを感ずる、といっておられるのですが、これはほんとうなんです。


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解説 森裕美子


紹介した上の文は、NHKで放送された「私の自叙伝」を書き起こしたもんらしい。

そやから、ちょっとわかりにくい文章や。

岡は大学生のころのエピソードを語ってんねん。

自分は、あの有名な数学者であるポアンカレが太鼓判を押してくれるような解き方ができたんや!

これはうれしいで。

うれしすぎて、その後なんもでけへんようになってしもてるやん。

喜びが身体に突き刺さってはんねん。

ほんで、「するどい喜び」となるわけや。

こんな体験、なかなかでけへん。

岡はこの体験があったから数学に行くことを決めたんやて。

この話は『春宵十話』の「数学への踏み切り」にも書いてある。

岡の人生が決まる大事な場面や。


岡潔(1901~1978)は、伝説の数学者。

多変数複素関数論で未解決やった問題を一人で三つも解いてしもたんや。

多変数複素関数論は、一変数複素関数論(これを少し学ぶと下に描いてあるオイラーの等式を証明できます)をもっと難しくしたやつや。

岡は問題を解くために、「上空移行の原理」てゆうのを考え出したらしい。

次元をあげることらしいけど、ようわからん。

名前だけかっこええなあと思てまう。


中身がわかって、岡がかっこええなあと思えたら、どんなにええかと思うけど、そういう日はくるんやろか。

私にそういう日がけえへんかっても、未来人にはそういう日がくるんや。

今よりも簡単に理解できるようになる日が!

岡は、数学の客観的評価は死んでから50年くらいかかる、とゆうてはる。

そやから岡はこれからもっと有名になりはんねん、と思うわ。


最後に、岡潔をわかるためのキーワードを並べてみますわ。


すみれ

情緒

道元

芭蕉

鋭い喜び


本を読んだらみんなつながりまっせ。


オイラーの等式

(eは自然対数の底)


2022年2月6日

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第二十三回

『寺田寅彦随筆集 第一巻』 花物語 P27

寺田寅彦/著

小宮豊隆/編

岩波書店 1947年発行


P27

 まだ小学校に通ったころ、昆虫を集める事が友だち仲間ではやった。自分も母にねだって蚊帳(かや)の破れたので捕虫網を作ってもらって、土用の日盛りにも恐れず、これを肩にかけて毎日のように虫捕りに出かけた。蝶(ちょう)蛾(が)や甲虫(かぶとむし)類のいちばんたくさんに棲(す)んでいる城山の中をあちこちと長い日を暮らした。二の丸三の丸の草原には珍しい蝶やばったがおびただしい。少し茂みに入ると樹木の幹にさまざまの甲虫が見つかる。玉虫、こがね虫、米つき虫の種類がかずかずいた。強い草木の香にむせながら、胸をおどらせながらこんな虫をねらって歩いた。捕って来た虫は熱湯や樟脳(しょうのう)で殺して菓子折りの標本箱へきれいに並べた。そうしてこの箱の数の増すのが楽しみであった。虫捕りから帰って来ると、からだは汗を浴びたようになり、顔は火のようであった。どうしてあんなに虫好きであったろうと母が今でも昔話の一つに数える。年を経ておもしろい事にも出会うたが、あのころ珍しい虫を見つけて捕えた時のような鋭い喜びはまれである。今でも城山の奥の茂みに蒸された朽ち木の香を思い出す事ができるのである。

 (続きは青空文庫で読むことができます) 


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解説 森裕美子


前回に書いた南方熊楠の虎の話に続いて、今回は1878年、寅年の寅の日生まれの寺田寅彦の登場や。

物理学者で俳人、随筆家としてもめちゃ有名やん、

と思てたんやけど、

理科ハウスに来る若者に聞いたらほとんどが知らんてゆうねん。

私らの世代が寺田寅彦を知ってるんは、国語の教科書で出会うてるからなんや。

今の教科書には載ってへんねんな。

寺田の文章はもはや古典に近づいてるんかもしれん。


うちのじーちゃんと寺田は手紙のやりとりをする間柄やった。

2009年に理科ハウスで「石原純展」をやったとき、展示資料の中で寺田の手紙を紹介したんや。

そんとき、寅彦のお孫さんたちが見に来てくれはってん。

なんと、そのうちのお一人は逗子に住んではると!

これにはびっくりしてしもたわ。


紹介した文は、特にすごいエピソードとゆうわけやないけど、

この続きがええで。

自分が見つけた立派なカブトムシを、通りがかりの小さな子どもにあげてしまう、

てな話やねんけど、

寅彦、優しすぎるやろ。

悲しさをにじませるその書き方がうまいねん。

かの夏目漱石の弟子やったんも、うなづけますわ。

寺田の随筆は科学物ばっかし読んでたから、こういうのは知らんかった。

この本にある『どんぐり』は泣けるで。

詳しゅう紹介でけへんですんまへん。


なんか、寺田の随筆には死が多い気がするで。

ついでに虫も多い。

死も虫も今よりもっとぎょーさんあったんやなあ。

実は、私が上の文を紹介したかったんは、わけがあんねん。

それは、文中に「鋭い喜び」という表現があるやろ。

「喜び」に「鋭い」はあんまり使わへんよねえ。

そやのに、この表現がめちゃくちゃ気に入ってしもた人がいてんねん。

次回はその人を紹介しまっせ。

楽しみにしといてな。


2022年1月30日

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第二十二回

『十二支考』 虎に関する史話と伝説民俗 P7

南方熊楠(みなかたくまぐす)/著

岩波文庫 1994年発行


P7

 虎梵名ヴィヤグラ、今のインド語でバグ、南インドのタミル語でピリ、ジャワ名マチャム、マレー名リマウ、アラブ名ニムル、英語でタイガー、その他欧州諸国大抵これに似おり、いずれもギリシアやラテンのチグリスに基づく。そのチグリスなる名は古ペルシア語のチグリ(箭(や))より出で、虎のはやく走るを箭の飛ぶに比べたるに因るならんという。わが国でも古来虎を実際見ずに千里を走ると信じ、戯曲に清正のすばやさを賞して千里一跳(ひとはね)虎之助などとしゃれている。プリニの『博物誌』によれば生きた虎をローマ人が初めて見たのはアウグスッス帝の代だった。それより前に欧州人が実物を見る事極めてまれだったから、虎が餌をとるため跳るはやさをペルシアで箭の飛ぶに比べたのを聞き違えてかプリニの第八巻二十五章にこんなことを述べている。いわく「ヒルカニアとインドにトラありはやく走る事驚くべし。子を多く産むその子ことごとく取り去られとき最もはやく走る。例えば猟夫ひまに乗じその子供を取りて馬を替えて極力馳せ去るも、父虎もとより一向子の世話を焼かず。母虎巣に帰って変を覚ると直ちに臭をかいで跡を尋ね箭のごとく走り追う。その声近くなるとき猟夫虎の子一つを落す。母これをくわえて巣にはしり帰りその子をおきてまた猟夫を追う。また子一つを落すを拾い巣に伴い帰りてまた拾いにはしる。かかる間に猟師余すところの虎の子供を全うして船に乗る。母虎浜に立ちて望み見ていたずらに惆恨(ちゅうこん)す」と。

 (読みやすくするために一部漢字をひらがなに変えました) 


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解説 森裕美子


今年は寅年やからこの本を紹介しときますわ。

南方熊楠(1867~1941)は博物学者やし民俗学者やし、粘菌の研究でも有名やなあ。


『十二支考』が虎から始まってるんは、今から108年前の1914年に南方が『太陽』という雑誌にこの連載を書きはじめたからやねん。

その年が寅年やった。

この本の上巻には、虎、兎、竜、蛇、馬、ほんで下巻には、羊、猿、鶏、犬、猪、鼠が書いてあります。

なんでか知らんけど、丑(牛)だけないねん。

十二支やから毎年読んだらええなあ。


とにかく虎にまつわる話をあらゆる本から引っ張り出して紹介してあんねん。

そのジャンルがすごいで。

『源氏物語』『今昔物語集』みたいな日本の本もあるねんけど、

『南米諸州誌』、

『波斯(ペルシャ)スシャナおよび巴比崙(バビロン)初探検記』みたいな外国の本とか、

『菩薩投身餓虎起塔因縁経』みたいな仏教の本まであるで。

聞いたこともない本の名前がずらずらっと100個以上も出てくるねん。

なんやこれ。南方は全部読んだんやろか、すごすぎひん?


上の文中に出てくる「プリニ」ってゆうんは、古代ローマのプリニウスのことやで。

省略したらわからんやろ。

なんぼ有名でもニュートンのことをニューってゆうたらわからんやん。


虎の語源が矢(チグリ)からtigris (チグリス)、

ほんでtiger(虎)になるんはおもしろいなあ。


どこまでもとことん調べるんが南方流や。

虎がテーマやのに狼がいきなり出てきたり、

一見ぐちゃぐちゃに見えるけど、南方の頭の中ではちゃんと筋が通っているらしいで。

これを理解できるようになるんは相当な賢者でないとあきまへんわなあ。

(『十二支考』は青空文庫で読むことができます)


2022年1月23日

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第二十一回

『やれば、できる。』 P123

小柴昌俊/著

新潮社 2003年発行


P123

 試作品の光電子増倍管ですら、晝馬(ひるま)社長の会心の笑みが浮かんでくるような素晴らしい出来栄えでした。

 おそらく完成品ならば、電子を千倍以上に強め、たとえば月面上にある懐中電灯の光までとらえるほどの高性能になることが予想できました。さすがは世界に名だたる浜松ホトニクスの技術力です。

 ただ、これが、一個三十万円。

 出来栄えからすれば決して高い値段ではなかったのですが、なにしろぼくらは国民の税金を使わせてもらって実験するわけだから、どんなにこちらが無理を言って頼んだこととはいえ、メーカーの言い値に首肯(しゅこう)することはできません。これは、常日頃から学生に言い続けている、ぼくのポリシーでもあるんです。

 だから、値切りに値切りました。

 「うちの優秀な部下二人を助っ人に送り込んだんだから、開発費は相殺して欲しい。それで原価計算をしてみたんだが、ひとつ十二万くらいで上がるはずだ。申し訳ないが、それでなんとかしてほしい」

 晝馬社長は真ん丸の目をぎょっとさせ、絶句してしまいました。

 結局、一個につき十三万円くらい払ったと記憶しています。なんでもその時、晝馬社長は心の中で、「もってけ、ドロボー!」と叫んだそうですが。


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解説 森裕美子


やるなあ、小柴先生(会うたことあるんで敬称つけるで)。

30万円を13万円に値切ったんや!

半額以下やて、関西人もびっくりやん。


これを1000個使って作ったのが、2002年に小柴先生がノーベル賞をもらうことになったカミオカンデや。

光電子増倍管はレフ電球をでっかくしたみたいな形してて、光をキャッチしてくれるんや。

なんの光かゆうたら、たとえば、外からやってきたニュートリノが、水の中で電子や原子核にぶつかったときに、ぶつかったもんから出る光や。

ニュートリノが光るんとはちゃうねんで。

ニュートリノを直接捕まえるのは難しいけど、光が出たことで見つけられるというわけやな。

カミオカンデの話を書いたら長なるから、もっと知りたい人は『ニュートリノ天体物理学入門』を読んでみて。


理科ハウスは、小柴先生が理事長やった財団法人平成基礎科学財団から小柴昌俊科学教育賞優秀賞をもろてん。

うれしかったでぇ。

2014年のことや。

そのときにサインをもらいに行ったんやけど、色紙に書いてくれはった言葉が「やれば、できる」やった。

いつもこの言葉を大事にしてはってんなあ。

きっと自分の体験からくる言葉なんや。


この本には、その気合で乗り越えてきた人生ドラマが書いてあんねん。

どんだけ前向きやねん、

と思うけど、

ほんまに「やってみたら、できた」になってるからすごいなあ。


小柴先生は「ぼくが本当に幸運だと思ったのは、素晴らしい人たちに巡り会えたこと」やとゆうてはる。

浜ホトの晝馬社長はその中の一人やったに違いないわ。

残念やけど2018年に亡くなりはった。

小柴先生も2020年に亡くなりはったけど、むこうできっとおしゃべりしてはるんやろなあ。


2022年1月16日

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第二十回

『蘭学事始』 P35

杉田玄白/著

片桐一男/全訳注

講談社 2000年発行


P35

 たしか三月三日の夜のことと覚えている。当時の町奉行曲渕甲斐守(まがりぶちかいのかみ)殿の家来で、得能万兵衛(とくのうまんべえ)という人から手紙で知らせてよこしたことには、

 「明日、おかかえ医師の何某というものが千住の骨が原(現在の東京都荒川区南千住五丁目のあたり) で腑分けをするということである。もしご希望であったならば、そちらへおでかけください」 という文面であった。

 かねて、同僚の小杉玄適というものが、以前、京都の山脇東洋先生の門人となって京都にいたとき、先生の企画で腑分けの観察が行われたことがあった際に、この玄適もお供をして行き、親しく観察したところ、古人の説明したことはみなうそで信じられないことばかりであった。大昔は九臓といっていたが、いまはそれを五臓六腑に分類しているのは、後の人の杜撰な誤りである、などという話もあった。そのとき、東洋先生は『蔵志』という著書を出版された。

 わたしは、その著書も見ていたことでもあるので、よい機会があったならば、自分も親しく観察してみたいと思っていたのである。ちょうど、こんなときに、オランダの解剖の書物をはじめて入手したことでもあるので、実物と照らし合わせてみて、どちらが正しいか試してみようと喜び、このうえもなく絶好の機会が到来したものだと、もう骨が原へ出かけてゆくことで、わたしの心はおどりあがらんばかりであった。


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解説 森裕美子


「腑分け」は解剖のことやで。

医師の杉田は、解剖したら身体の本当のことがわかると思うてうれしかったんやろな。

友達もさそって出かけたんや。

ほんで、解剖を見てめちゃ感動してしもたんや。


文中に「オランダの解剖の書物」ってゆうのが出てくるやろ、

これが『ターヘル・アナトミア』や。

感動した理由は、ここに書いてあることとおんなじやったからやねん。

杉田玄白は、これの日本語訳を作りたいて思うたんやなあ。

解剖を見た次の日からもう友達を集めて翻訳にとりかかってるで。


そやけど言い出しっぺの杉田はオランダ語をよう知らんかってん。

医学書やから専門用語が多いし、これは難しかった。

オランダ語の辞書もないような時代やったから、そら苦労したみたいやな。

翻訳するのに3年半もかかってんて。

ようやくできたんが、かの有名な『解体新書』(1774年出版)やねん。


この本はお医者さんには役にたったに違いないけど、それだけで終わりやなかってん。

この本がきっかけで、オランダの本が役に立つことがわかって、蘭学そのものが盛んになったんや。

杉田玄白、がんばったかいがあったなあ。


『蘭学事始』(1815年)は、そのいきさつを杉田が晩年になってから書いたもんやで。

ようするに『解体新書』のメイキングと蘭学仲間の紹介やな。

写真の本には原文もついてるからそっちで読んでもええけどちょっと読みにくいかも。

訳がついててありがたいなあ。

70ページくらいの短い文章やからさらさらっと読めますわ。

文章の最後に杉田が、戦乱の世ではこんなことはでけへんかったやろけど、天下太平のおかげでできた、って書いてるのがめちゃええなあと思いましたわ。


2022年1月9日

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第十九回

『新版 本多静六自伝 体験八十五年』 P231

本多静六/著

実業之日本社 2016年発行


P231

 しかし、再三いうことであるが、渋沢の偉い点はあくまでも合理的な公利公益主義で、いかによさそうな話でも、理屈に合わなければ取り上げようともしないし、またいかに有利有望な事業でも、独り占めにしてウマウマやろうという考えは絶対になかった。どんな計画でもできるだけ念には念を入れ、多くの人にはかってその利益を均霑(きんてん)させるようにした。そうして、いったん自分がそれに名をつらねて責任をもったとなると、どこまでもその面倒をみつづけたのである。しかも、会社創立の場合など、有利有望とみられるあまり、渋沢さんの特株分まで他にうばい去られても、

 「みんなで儲かればそれでいい」

と笑っていたし、また先の見込みがあやしくなって、予定以上の残株を引き受けなければならなくなっても、一向平気で黙って済ましていた。これなぞは、やはり渋沢の大物を物語る話で、私は毎々ながらいたく感服させられたものだ。

(10行略)

 いずれにしても、渋沢という人は、他者の話をよくきいた。そしてよく検討した。そしてよく実行した。私などのような一学究の言でも、それがもし実業上の何かの参考になると思えば、いつも熱心に親身になって耳をかたむけてくれた。


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解説 森裕美子


これは、NHKの大河ドラマ「青天を衝け」の主人公、渋沢栄一の話やで。

この本には渋沢の他にも後藤新平とか政治家も登場すんねん。

なんでかゆうたら、

鉄道事業とか都市計画に本多静六は大いにかかわってたからやねん。

本多静六(1866~1952) は林業博士で、「日本の公園の父」として有名や。

日比谷公園、明治神宮とかぎょーさんの公園を設計しはってん。

それから、雪の多い東北で鉄道を走らせるってなったとき、防雪林の必要性を進言しはってん。

渋沢はその鉄道の会社(国鉄)の重役さんやった。

林業ってゆうんはみんなにかかわることやし、先の先まで考えとかなあかん。

100年先まで考えられるてすごいことやなあ。

渋沢も豪快やけど、本多もそれに負けず劣らず豪快やでー。

明治の人らはなんでかパワフルすぎるやろ。


本多静六はめちゃぎょーさん本を書いてるねんけど、その中に『私の財産告白』ていうベストセラーがあんねん。

本多は貧乏やったとき、収入の四分の一を貯金してお金を貯めて、

ほんでそのあとお金持ちになりはってんけど、

貯めた莫大なお金を全部寄付してしまうねん。


実はこの本との出会いが理科ハウスを作るきっかけになったんやで。

私が夫から思いがけないお金を相続したときに、このお金をどないしたらええねんやろと悩んでしもてん。

相談する相手もおらんかったから本屋に行ったけど「こうやったら貯められる」みたいな本が多くて

「貯めたお金はこうやって使う」が書いてある本が見つからへん。

そのときに本多静六のこの本をたまたま見つけて読んだらびっくりしてしもた。


背中を押された気がしてん。

そやから本多は私にとっては特別な人や。

理科ハウスがあんのも本多のおかげでっせ。


2021年12月26日

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第十八回

『星界の報告』 P42

ガリレオ・ガリレイ/著

山田慶児、谷泰/訳

岩波文庫 1976年発行


P42

 一六一〇年、つまり、今年の一月七日の翌夜の一時に、筒眼鏡で天体観測中、わたしはたまたま木星をとらえた。わたしはたいへんすぐれた筒眼鏡を用意していたから、木星が従えている、小さいけれどもきわめて明るい三つの小さな星をみつけた(それまでは、ほかの劣った筒眼鏡を使っていたので、発見できなかったのである)。当初、わたしは恒星だと信じていたが、黄道に平行な直線にそって並んでおり、等級もほかの恒星より明るいという事実に、かるい驚きを覚えた。木星にたいするそれらの星の配置は、つぎのとおりである。


 E   ★      ★  O    ★     W


 東には星が二つ、西には一つあった。いちばん東と西との星は、もう一つの星より大きくみえた。木星との距離については、気にとめていなかった。いま述べたように、恒星と考えていたからである。ところが、いかなる運命の導きによってか、翌八日にもおなじ観測にたちもどって、その配置がまったく変わっているのを発見した。次図に示したように、三つの小さな星はみな木星の西にあり、まえの晩より相互に接近していて、いずれも等間隔であった。


 E          O  ★  ★  ★     W


(星の配置図は原文のママではありません)


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解説 森裕美子


この本はガリレイが月、天ノ川、星雲、木星、太陽の黒点を望遠鏡で観察したときの記録を書いたもんやで。

上の部分は木星の衛星発見の最初のとこや。

このとき見つかった4つの衛星イオ、エウロパ、ガニメデ、カリストは、ガリレイが見つけたから、今では「ガリレオ衛星」て呼ばれてんねん。

望遠鏡で見たことがある人は知ってると思うけど、木星の大きさに比べたらめっちゃちっさいねん。

あるで、て言われへんかったらわからんくらいや。

ガリレイは望遠鏡がよかったから見えたと書いてるけど、見つけたんはえらすぎる。

初めはわからんから恒星かと思た、て書いてあるな。

そりゃそーやな、誰かてそう思うわ。

たまたま木星と並んでるなーと不思議やったやろな。

次の日に見たらまた並んでて、しかも並び方が一直線やておかしいやん。

ほんで、木星といっしょに動いてるでーて気づいたんや。

星の並び方が日毎に違うのんも驚きでしかないわ。

こりゃー大発見やで。

うれしかったやろなあ。


記録は1月7日から3月2日までが書いてある(本には書いてないけどもっと続けてたみたいや)。

曇りや雨の日以外は毎日欠かさず観察してるんや。

まあ、木星の観察はええけど、太陽の黒点を毎日観察するんは、今は絶対やったらあかんやつや。

太陽の光のせいで眼が壊れんねん。

ガリレイは晩年、眼が見えんようになったらしいけど、これが原因なんかな。


月の観察もすごすぎてびっくりや。

クレーター(ガリレイは山とゆうてる)の影を観察して、それからちゃんと高さを計算して「月の山が地球の山より高い」とゆうてはる。


こういう観察力と考える力が、かの『天文対話』につながっていくんやな。

ガリレイのすごさはほんまに半端ないですわ!


2021年12月19日

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第十七回

『新天文学』 P167

ヨハネス・ケプラー/著

岸本良彦/訳

工作舎 2013年発行


P167

 こうしてその時から、観測結果を入手したいと真剣に考えはじめた。そして私の小著に関する意見を求めて1597年にティコ・ブラーエに手紙を書いた。返書をくれた彼が自身の観測にも言及していたので、私は彼の観測結果を見たいと渇望した。それ以来、私の運命の重要な一部ともなったティコ・ブラーエ自身も、自分のもとに来るようにと絶えず私をせき立てたのである。あまりにも遠隔地なので躊躇していたところ、彼のほうがボヘミヤにやって来たのを私は再び神の配剤としたい。そこで、修正された各惑星の離心値を学び取ろうという希望を抱いて、私は1600年の初めに彼の所にやって来た。初めの半月で、ティコもプトレマイオスやコペルニクスと同様に太陽の平均運動を用いていることが判明したが、視運動のほうが私の小著には適切だったので(それは私の著作から明らかになる)、ティコ本人に頼んで、観測結果を私自身の手法で利用できるようにしてもらった。当時、火星論はティコの助手のクリスチャン・セヴェリンが手がけていた。人々が初更の位置の観測つまり火星と太陽の獅子宮9°での衝の観測にたずさわっていたので、時期的な巡り合わせで彼が火星論を手がけていたのである。もしクリスチャンが他の惑星を扱っていたら私も彼と同じ惑星に出会っただろう。

 だから、彼が火星に専念していたちょうどその時機に私がやって来たのも、神の配剤によるものだと思う。火星の運動からの全く必然的な帰結である天文学の秘密を知らなければ、われわれはいつまでも無知のままだからである。


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解説 森裕美子


最初に正直に書いとこ。

私はこの本をちゃんと読んでへんで。

600ページ以上もあってたらたらと説明してあるねん。

むずかしゅうてわからんがな。

そやからパラパラとめくっただけや。


そやけど十分楽しめたわ。

これがあの大発見なんやー!てな。

この本は、ケプラーが見つけた第一法則「惑星は、太陽を焦点のひとつとする楕円軌道上を動く」と第二法則 (説明は省略) を説明したもんなんや。

それまでは惑星の軌道は円やと考えられてたんや。

円やったら太陽と惑星の距離はいつも同じやないとおかしいやろ。

けど、観測したら同じやないねん。

これ、なんでか説明してみーてなるやん。

そんでケプラーが火星で調べたら楕円やったってわけや。

他の惑星ではあかんかってんってケプラーさんはゆうてはる。


火星を研究できたんは神様のおかげやて。

科学者かて神様を信じてるねんで。

それぐらいびっくりすることなんや。


文中に出てくるティコ・ブラーエは天文学者として超有名や。

超新星も見つけてるし、たくさんのエピソードがある人やで。

自分の敷地のなかに天体観測所を作って観測してたんや。

そんで膨大な量の星の観測記録を持ってたんや。

望遠鏡のまだないときの話やで。


この本は1609年に出版されたんや。

コペルニクスの地動説を支持したガリレオ・ガリレイの『天文対話』の出版は1632年やねん。

そやからケプラーのこの本が地動説を支えることになったんは間違いないわ。

本の内容は難しいねんけど、後についてた訳者・岸本良彦さんの解説がものすごう役にたったわ。

この訳を書くのにどんだけ年数がかかったんやろな。

岸本さんは、ケプラーの他の本も訳してはんねん。

ケプラーとおんなじくらいすごい人やと思うわ。ほんま。


2021年12月12日


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第十六回

『牧野富太郎 なぜ花は匂うか』 イチョウの精虫 P177

牧野富太郎/著

平凡社 2016年発行


P177

 夢想だもしなかったイチョウ、すなわち公孫樹、鴨脚、白果樹、銀杏であるGinkgo biloba L. に、精子すなわち精虫(Spermatozoid)があるとの日本人の日本での発見は青天の霹靂で、天下の学者をしてアット驚倒せしめた学界の一大珍事であった。従来平凡に松柏科中に伍していたイチョウがたちまち一躍して、そこに独立のイチョウ科ができるやら、イチョウ門ができるやら、イヤハヤ大いに世界を騒がせたもんだ。そしてその精虫を始めて発見した人は、東京大学理科大学植物学教室に勤めていた、一画工の平瀬作五郎氏であって、その発見は実に明治二十九年(1896) の九月で、今からちょうど五十七年も前だった。

 こんな重大な世界的の発見をしたのだから、ふつうなら無論平瀬氏はやすやすと博士号ももらえる資格があるといってもよいのであったが、世事魔多く、底には底があって、不幸にもその栄冠を勝ち得なかったばかりでなく、たちまち策動者の犠牲となって江州は琵琶湖畔彦根町に建てられてある彦根中学校の教師として遠く左遷せられる憂き目をみたのは、憐れというも愚かな話であった。けれども赫々たるその功績は没すべくもなく、公刊せられた『大学紀要』上におけるその論文は燦然としていつまでも光彩を放っている。むべなるかな、後明治四十五年(1912) に帝国学士院から恩賜賞ならびに賞金を授与せられる光栄を担った。


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解説 森裕美子


イチョウの精子やて、見たことないなあ。

裸子植物にも精子あんねんや!って大騒ぎになったんやなあ。

これで進化の様子がちょっとわかったんかな。

この精子を見たかったらイチョウの雌の木を探すんやて。

おかしいやん、精子やから雄の木やろと思うやんか。

雄の木から花粉が飛ぶのは春やな。

ほんで飛んで来た花粉が雌花にくっついて、やがて秋になってからその花粉から精子が2個できて、泳いで卵にたどりつくねん。

そやから秋に雌の木の黄色くなる前の実の中を探せば見つけられるそうや。

やり方は『たねの生いたち』(西田誠/著 岩波科学の本 1972年) に詳しく書いてあるで。


牧野富太郎は植物図鑑でお世話になってる人が多いやろな。

牧野は植物が好きすぎて自分のことを植物の愛人やてゆうてはる。

好きなだけあって植物のことにはうるさいで。

漢字で書く紫陽花(アジサイ)、馬鈴薯(ジヤガイモ)、蕗(フキ)、杉(スギ)、山茶花(サザンカ)とか他にもいっぱい使い方がまちごうてるで、と書いてある。

へぇー、そうなんかあ。


牧野は、みんながもっと植物に興味を持ったらええのになあ、植物ってこんなにおもしろいでぇって一つ一つの説明を書いてくれてはる。

これを読んでしもたら植物をもっと真剣に見たなるなあ。

牧野富太郎の博物館は、出身地の高知県に大きな植物園があるし、東京都にも練馬区立牧野記念庭園記念館とゆうて牧野が30年間住んでたところが素敵な博物館になってるで。

よかったら行ってみてな。


2021年12月5日


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第十五回

『夾竹桃(きょうちくとう)』 チューリッヒに於けるアインシュタイン教授 P69

石原純/著

文明社 1943年発行


P69

 ヨーロッパに行って私はアインシュタイン教授に親しく接する機会を得ることを私の最も大きなよろこびの一つに期待していました。しかし最初の半年を先づドイツのミュンヘンで、次の半年をベルリンで過ごしたので、アインシュタイン教授の居られるスイスのチューリッヒに赴いたのは、その翌年の四月でした。もちろんこの頃(1913年) はまだ一般相対性理論はでき上がっていなかったので、彼の名は物理学界のなかでしか知られていないのでしたが、私はこの理論についての幾らかの研究を果していたのでそれを切に望んでいたのでした。スイスという国では、普通にポリテクニクムと称へている工業大学が国立で大規模につくられて居り、そのなかに純粋な数学や物理学や物化学などの教室もあって、アインシュタイン教授もそこの物理学教室に居られたのですが、この外に州立の大学もあったので、ここには同じく相対性理論の研究者として知られているラウエ教授が居ました。このラウエ教授とは、私は日本にいた頃から論文を交換したこともあり、また前年にはミュンヘン大学に居られたので、そこで能く知り合いにもなっていたので、チューリッヒに来て再会したのは奇妙なめぐり合いでもあり、それだけに親しい感もあったのでした。


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解説 森裕美子


じーちゃん(石原純)、ラウエとも知り合いやったんか!

ラウエって誰やねん!ってゆう人がほとんどやと思うから説明しとくわな。

ラウエは、X線回折現象の発見で1914年にノーベル賞もろてはんねん。

X線の波長は原子の大きさに近いから、分子の中の構造を調べるのにちょうどええ長さやったんや。

波長が長いとそれより小さいもんは調べられへんから可視光ではあかんのやな。

X線やったら結晶の中の原子や分子がどんなふうに並んでるのかがわかるねんて。

かの寺田寅彦(おもしろ科学史エピソードの第六回参照)もX線回折現象の研究してはった。

ワトソンとクリックがD NAの二重らせん構造の発見できたんもX線回折写真のおかげやった。

タンパク質の構造を調べたりするのにも使われてるで。

そんなわけでラウエは有名な物理学者や。


この本は石原純の随筆集やねん。

随筆の他にも詩や和歌も載ってるで。

文を書くのは好きやったんやろなあ。

大学に入るとき、理系に行くか文系に行くか迷うたてどっかに書いてあったなあ。

いろいろあって東北帝国大学の教授をやめてからは、本を書く人になったんや。

研究者もよかったけど、本を通して科学を伝える人になったんはよかったこともあると思う。

科学っておもしろそうやってぎょーさんの人が思うてくれはった。


ちょうど一昨日、知り合いからメールが来てん。

東大の駒場博物館でやっている「物理学者・久保亮五の研究と人生展」を見てきたんやけど、展示の中に久保に影響を与えた人として石原純が出てたでーって教えてくれたんや。

じーちゃんはやっぱりすごすぎたなあ。


2021年11月28日


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第十四回

『フランクリン自伝』 P282

ベンジャミン・フランクリン/著

松本慎一・西川正身/訳

岩波文庫 1957年発行


P282

 この新知事の在任中に公共の問題で私が演じた役割について話を進める前に、ここで少し私が科学者として名声をうるようになった次第を述べておくのも不都合ではあるまい。

 1746年にボストンへ行った時、私はそこで最近スコットランドからきた人で、スペンスという博士に会い、電気の実験をして見せてもらった。博士はあまり熟練していなかったので、実験は完全には行かなかったが、実験の対象が私にはまったく新しいものだったので、私は驚きもし喜びもした。フィラデルフィアに戻るとまもなく、ロンドンのイギリス学士院の会員ピーター・コリンソン氏から組合図書館にあてて、この種の実験に使う時の心得書を添えてガラス管を一本寄贈してきた。私はこれ幸いとばかりにすぐさまボストンで見た実験を繰返し、また大いに練習した結果、イギリスから説明書のきた実験がとてもうまくやれるようになっただけでなく、新しい実験もいくつかできるようになった。いま大いに練習したと言ったが、実際当分の間というもの、私の家はこの新しい奇蹟を見に来る人でいつも満員だったのである。


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解説 森裕美子


フランクリンはアメリカ建国の父や。

そやからこの自伝はアメリカではベストセラーなんやて。

知らんかったわあ。

私は、フランクリンは凧揚げで雷から電気を取り出した人として覚えてたんや。

ほんで、この本を読んでみたけど、なかなか雷の話が出てけーへんかったから、なんでやねん!と思ててん。

そしたら上の文章のようにちょこっとだけ書いてあったわ。

その後に、これは電気学史の中に出て来るはずやからこの本にその実験の話を長々と書くのはやめとくわって書いてあんねん!

もっと読みたかったのになあ。


フランクリンは他にもっと書いておきたいことがぎょーさんあったんやろな。

組合図書館(お金を出し合って作る)や他にも大学、病院を作るのに尽力したこととか、自分を律するための13個の徳についてとか。

徳ってゆうんはわりと具体的な、「飽くほど食うなかれ」とか「自他に益なきことを語るなかれ」とかや。

自分で書いておきながら守られへんねん、て自己反省もしてはる。

フランクリンが政治家として活躍できた理由のひとつは、みんなが暮らしやすうなるための工夫を次々と生んだってゆうのがあると思う。

ストーブや街灯を改良した話が出てくるんやけど、科学的にちゃんと考えてできる人やった。


話を戻すと、フランクリンの電気の実験はだんだんとすごい評判になってん。

電気とゆうても静電気しか知られてなかった頃やから、電気学史に残るくらいの大発見やったんや!

ほんで、1753年にイギリス王立協会からコプリー賞をもらいはった。

まだノーベル賞はない頃の話や。


科学者としてのフランクリンをもっと知りたかったら、『フランクリン』(板倉聖宣著 仮説社1996年) を読んだらええと思うわ。

わかりやすいで。

2021年11月21日


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第十三回

『宇宙に秘められた謎』 宇宙を知るためのガイド P41,45

スティーヴン・ホーキング/著

さくまゆみこ/訳

岩崎書店 2009年発行


P41

 わたしたちはなぜ宇宙に行くのでしょう?

 月の石を少しばかり持ち帰るために、なぜ多くの努力を重ね、莫大なお金を使うのでしょう? もっとましなことが、この地球でもできるのではないでしょうか?

P45

 一四九二年以前のヨーロッパにも、同じように考える人がいました。その人たちは、莫大なお金をかけて雲をつかむような探検にクリストファー・コロンブスを送り出すのはむだだと思っていたのです。でも、コロンブスはアメリカに到達し、そのことによって、時代は大きく変わったのです。わたしたちが今ビッグ・マックを食べられるのも、そのおかげかもしれないし、もちろん、ほかにもいろいろな変化が起こったのです。

 今のところ、宇宙旅行といってもそう遠くまで行けるわけではありません。じつは、とてつもない距離を超えて進む方法さえまだわかっていないのです。しかし今後二00年から五00年の間には、その方法を突き止めるという目標を持つべきです。人類は、約二00万年前から別個の生物種として存在してきました。文明は約一万年前から始まり、それ以来、発展の度合いは着実に増してきています。そして今、これまでだれも行ったことのない場所へ大胆に出ていく段階に来ているのです。その結果、何を見つけ、だれに会うかは、まだだれにもわかりません。

きみたちの宇宙の旅がうまくいくように、そしてこの小さな本がきみたちの役に立つことを願っています。

 宇宙での幸運を祈って。


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解説 森裕美子


紹介した本は『宇宙への秘密の鍵』『宇宙に秘められた謎』『宇宙の誕生』の3部作のうちの2冊目や。

内容は、主人公のジョージが宇宙を大冒険する物語で、著者はルーシー・ホーキング、博士の娘さん。

ワクワクするようなフィクションの物語やけども、合間にコラムが挿入されててな、ホーキングをはじめ、いろんな博士が宇宙について説明してくれてはる。

ここだけフィクションとちゃうんや。

コラムだけ読んでも楽しめるやん。


2018年、76歳の理論物理学者ホーキング博士は亡くなりはった。

ブラックホールの研究で有名やった。

ホーキングが書きはった本はよう売れるみたいや。

なんでやろな。


書いてあることは、哲学的で難しぅて全部はわからへん。

ホーキングが有名なんは、車椅子の科学者やからというだけやないと思うわ。

チャレンジャーで、前向きな生き方がみんなに元気をくれるし、ジョークもうまいしな。

けどやっぱりすごいのは、今、わかっていることだけやのうて、私らに未来の宇宙を見せてくれるからやろな。

光までも吸い込んでしまうと言われてるブラックホールはゆっくりと蒸発してしまうねんでぇてゆうてはる。

ほんまかな。


ホーキングは著書『ホーキングの最新宇宙論』(日本放送出版協会 1990年)で、難病にかかってるってわかったときのことを書いてるで。

それまでは怠惰な大学生やったけど、「早死にするかもしれないという現実に直面すれば、誰でも命の大切さや、やるべきことが山ほどあることに気づくものです」と思てがんばりはった。

病気やったのにこれができたんは、えらすぎるやろ。

もうホーキングの新しい本はないんやなと思たら残念やなあ。


2021年11月14日


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第十二回

『物理学者の眼』 アインシュタイン先生の想い出 P332

湯川秀樹/著

学生社 1961年発行


P332

昭和二十三年に私はプリンストンの高等科学研究所に招聘されたので、先生とはたびたびお目にかかる機会ができた。私の部屋は研究所の三階にあり前の広い芝生が一目で見渡せた。朝十一時ごろになると芝生の中の道を向うからゆっくりと歩いてこられる先生の白髪が一目でそれとわかった。先生は質素というか簡素というか、身なりも住居にもゼイタクということには全然関心を持たれなかった。自動車その他文明の利器を利用することさえも好んでおられなかったようである。研究所へ入って来られてもエレベーターには乗らず、コツコツと階段を上ってゆかれるという風だった。先生がプリンストンに落着かれた当時、あるエレベーター会社が二階しかない先生の家にエレベーターをつけようと申込んできた。先生の周囲の人がビックリしてこの申出を断わったという話も聞いている。エレベーターのいるような豪壮なお宅ではもちろんなかったし、また仮にエレベーターをつけてもそういうものを利用されなかったに違いない。先生とお会いしてよもやま話をしていると、先生の人間としての温かさがひしひしと感ぜられた。自分は東洋人だということをいつも私にはいわれた。そういう言葉の中にはアメリカの機械文明に対する皮肉が幾分か含まれているように私には感ぜられた。かっての日本訪問は先生にたいへんいい印象を与えたらしく、改造社長山本実彦氏や石原純博士のことをなつかしく想い出しておられた。


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解説 森裕美子


アインシュタインの人柄とかについて語ってる文章はぎょーさんあるなあ。

アインシュタインがいてはったプリンストン高等科学研究所に行った人はたいてい書いてるねん。

アイドルなみの人気やで。

まあ、誰でも知ってる有名人やからな。


中学生に「知ってる科学者の名前ゆーてみて」とお願いしたら、たいていアインシュタインやな。

あとはニュートンくらいしか出てきーひん。

子どもにも人気のアインシュタイン。

なんでこんなに有名なん?


著者の湯川秀樹は1949年に日本で最初のノーベル賞もろた理論物理科学者。

この文章のころには、石原純(じーちゃん)はもう死んでしもうてたんやけど、アインシュタインはじーちゃんのこと、ちゃんと忘れんと思い出してくれてはってんなあ。

アインシュタインと親しくしてた日本人ってどのくらいおるんかな。

そもそもアインシュタインは社交的やなかったからなあ。

湯川秀樹もその数少ないうちの一人やったんや。


この文章の終わりのほうに「私が日本に帰る前、映画を撮られることになった」ってゆうのが書いてあって、

アインシュタインにも出てもろたーて書いてある。

ふーん、と思うてググってみたらYou Tubeで 40分くらいの映画「ものがたり湯川秀樹1954年」を見つけたで。

湯川の家族が俳優みたいやなあと思たけど、みんな本人やな、たぶん。

アインシュタインもちょっとだけ出てて、もちろん本物で動いてて感激してしもたわ!


2021年11月7日


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第十一回

『相対性理論』 世界大思想全集 48 P124

アインシュタイン/著

石原純/訳

春秋社 1930年発行


P124

 「幾何学と経験」

私たちの空間が無限であると言うのは何を意味しているのでしょうか。それは私たちが大きさの等しい物体をどんなに沢山並べても空間を充たすことが出来ないということに外ならないのです。今大きさの等しい立方体の賽(さい)をつくったとしてみましょう。それをユークリッド幾何学に従って上にも下にも横にもお互同志並列させて勝手にどこまでも大きな空間を充たすことが出来ます。この並べ方は、併(しか)しどこまで行っても決しておしまいにはなりますまい。いつまで新しい賽(さい)を外へおいても、おき場所のなくなることはないでしょう。これが空間の無限であるということを言いあらわしているのです。


(8行略)


そこで私たちは二次元の連続体であって有限であるが、併(しか)し限界のないものの例を挙げて見ます。大きな地球儀の表面と、たくさんの等しい円形の小さな紙片とを取出してごらんなさい。この円い紙片の一つをどこまでも表面においてみます。私たちが指でその紙片を地球儀の上で勝手に移動させますと、どちらへ歩いても決して限界に衝き当たることはありません。私達はそれ故に地球儀の球面を限界のない連続体と言うことが出来ます。その上、球面は一つの有限な連続体です。


(13行略)


相対性理論の最近の結果によりますと、私たちの三次元の空間もほぼ球面的であることは確からしく思われます。即ちそのなかにおける剛体の配置法則はユークリッド幾何学によってでなく、十分大きな範囲を考えに取りさえすれば、寧ろほぼ球面幾何学によって与えられるのです。ここに読者の直観が革新されるべき点があるのです。「こんな事は誰だって考えられるものじゃない」彼は激してそう言うでしょう。「それは言うだけのことで考えられはしない。なる程球面は考えられるけれども、それの三次元の類推は無理だ」と。


(旧仮名づかいを読みやすくするために直しました)


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解説 森裕美子


これは1921年1月27日にベルリンでアインシュタインが講演したのを書き起こしたもんやで。

なんか難しそうなことゆうてるけど、宇宙の形について語ってはんねん。

そんで、びっくりするようなこと書いてあったから紹介しときますわ。


私は、宇宙って果てがなくどこまでも広がってるんやろなあ、と思ててん。

アインシュタインはそやないとゆうてはる。

宇宙は果てはないけど有限やと。

宇宙の形は3次元球面やとゆうてはる。

3次元球面って何? てなるやろ。

地球の表面みたいなもんか?

いやいや、それは2次元球面なんやで。

緯度と経度がわかったら場所を決めることできるやろ。

2個の数字で表せるから2次元球面なんや。

この球面はいわゆるユークリッド幾何学の平面にはおさまりきらんで、3次元空間やったら見ることができんねん。

これはわかるねん。


この考え方を、もうひとつ次元をあげるんや。

3次元球面ってゆうのは4次元の中で見ることができる球面ということらしいで。

そやけど、これはアインシュタインの考えた宇宙の形やから本当かどうかはまだわからんで。

理論物理学者のジョージ・ガモフは、宇宙は無限に広がってるってゆうてるしな。

宇宙の形はまだいろんな考え方があるみたいや。


どっちにしても、4次元の世界はおもしろそうやなー、ということで理科ハウスでは「多様体への道」っていう生解説動画を作ったんや。

みんなでワイワイしゃべりながら、頭の中でぐるぐる考えるんはめちゃ楽しい。

よかったら見に来てな。


アインシュタインの著書にもっと興味がある人は『特殊および一般相対性理論について』(アインシュタイン/著 金子務/訳 白揚社 2004年)も読んでみてな。

宇宙の形のことも書いてあるで-。


2021年10月31日


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第十回

『ピエル・キュリー傳』P112

キュリー夫人/著

渡邊慧/訳

白水社 1942年発行


P112

 彼の科学的問題に関する他人との交渉において、彼は角立ったようなところを示したことは一度もありませんでした。彼は自愛心や個人的感情によって自らを動かすようなことを決して致しませんでした。あらゆる美しい成果が彼に取って歓びの源となりました。彼自身が最初の発見者であると主張出来るような分野においてさえ同様でありました。

 「他の人が発表しさえすれば、何も僕自身が発表しなかったって構いはしない。」と申すのでした。彼の考えでは、科学に関しては事実に注目すべきで人には注目してはいけないのでありました。競争心というものはおよそ彼の感情に正反対なものであって、それが競争試験とか、中学校の席次とかいう形においてでも、又は栄誉とか表彰という形においてであっても、すべて張合いということを彼は罪悪視しておりました。彼が科学的な仕事に向いていると思った人に対しては、必ず助言とか激励とかを与えました。それらの人のある者は、彼に対して深い感謝を後々まで心の中に抱いておりました。

(旧仮名づかいを読みやすくするために直しました)


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解説 森裕美子


キュリー夫人が書いた本を探してたらこの本を見つけたで。

淡々と書いてあるねんけど、めちゃめちゃ愛のこもった本やったわ。

夫の伝記を書くのはどうやろな。

書きにくいちゃうん。

キュリー夫人も最初は断ったけど書くことになった、と打ち明けてるし。

世間ではキュリー夫人のほうが有名になってしもうて、ピエルのほうはあんまり知られてへん気がするなあ(私が知らんかっただけか?)。

夫婦でノーベル賞もろてるけどな。


ピエルの研究は私らの生活に役立ってるのがけっこうあるで。

たとえばクォーツとか圧電素子(チャッカマンに使われてる)。

結晶の研究してて、結晶に力加えたらどうなるかなあとか、電気流したらどうなるかなあとか、いろいろやってみたんやろな。

それから「キュリー温度」。

磁石を熱して温度を上げたら、ある温度で磁力がなくなってしまうねん。

その温度のことを、キュリー温度ってゆうんや。


ピエルは、出世なんかどうでもええ、とにかく研究やりたい!の人やったみたい。

ラジウムから出る放射線を研究してたとき、自分の腕にラジウムを当ててどうなるか実験してたんや。

そんで、ひどいやけどみたいになってしもてな。

人体実験やで。すごすぎるわ。

ふつうの家族やったら「やめときー」てゆうてしまうわ。

けど、キュリー夫人やったからなあ。

ピエルにとってはキュリー夫人に出会えたことは、ほんまに幸せなことやった。

ものすごい理解者やったと思うわ。

まあ、お互いにな。


ピエルが馬車にひかれて亡くなったんは46歳のときやってん。

早すぎるし、突然やった。

キュリー夫人の落胆は相当なもんやったみたいやな。

研究があったから立ち直れたんかな。


古いけど、映画の『キュリー夫人』(1943年)はピエルのこともわかるし、なかなかええで。

本を読むのがめんどくさい人は見てみて。

2021年10月24日


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第九回

『怠け数学者の記』 プリンストンだより P262、267、271

小平邦彦/著

岩波現代文庫 2000年発行


P262

11月21日

 今僕の今度の大発見の最後の一コマが完成しつつある所。これが出来れば、今までの僕の論文の中で一番のケッ作になる筈です(おかしなことに、英語は一寸も進歩しないのに漢字を少し忘れました。変な所に仮名を使うのはそのためです)。


P267

 12月19日

・・・・・朝永先生は二、三日前からニューヨークへ行って歯を直しています。今日来た葉書によると先生歯を全部引っこ抜かれて八十歳位の顔になったそうです。明日ニューヨークへ行って八十歳オジイサンの朝永先生とシカゴで世話になった学生ギャフネイ氏と三人でお昼を食べる積りです。


P271

 1月4日

・・・・・お雑煮のない筈のお正月が、日本でも仲々食べられないような日本料理を御馳走になって、流石世界一のニューヨークなる哉と大いに感心しました。しかし、あまり食べ過ぎと飲み過ぎで朝永先生は風邪をひいてお腹を悪くしてしょげています。僕は余り飲まなかったから何ともないけれど。この前書いたかも知れないけれど、朝永先生は歯を全部引っこ抜いて総入歯を入れて、すっかり若くなりました。アメリカ製の歯を入れると日本語が下手になって英語がうまくなるから不思議です。


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解説 森裕美子


これは、小平邦彦がアメリカのプリンストン高等研究所で研究してたとき、単身赴任やったから妻に宛てた日記や。

戦後から4年しか経ってない1949年のことやで。

小平は数学のノーベル賞と言われているフィールズ賞という、ものすごい賞を受賞している数学者。

大学では数学科を出た後に、さらに物理学科も出て、そのあと数学博士になったんや。

小平の専門は複素多様体(説明してみよと思て調べたけどわからん日本語やった)。

ユークリッド幾何学とはちょっと違うけど、宇宙の形とかにもめちゃくちゃ関係ある新しい考え方の「図形」みたいなもんかな。


日記には、なんか「朝永先生」が何回も登場するねん。

(朝永振一郎については「おもしろ科学史エピソード」第五回を読んでみて)

二人は同じ家の2階の別の部屋に下宿してたから、しょっちゅういっしょにおったんやな。

小平は「朝永先生」を観察するのが楽しそうや。

笑いのネタにしてるやん。

朝永は1906年生まれやから40歳代で総入歯になってしもたんか。

かわいそうやな。


それからこの年は湯川秀樹がノーベル賞もろた年やねん。

湯川もこのとき同じプリンストン高等研究所の客員教授やったから、二人で湯川の家に行ってお祝いしたりしてる。

みんな仲よーて楽しそうやわ。


小平の日常で私が驚いたんは「毎日十二時間寝ます」と書いてあることや。

これはほんまにびっくりやで。

みんなも小平に見習って、もっとたくさん寝たほうがええでー。


2021年10月17日


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第八回

『力と物質』 P9

マイケル・ファラデー/著

稲沼瑞穂/著

岩波文庫 1949年発行


P9

 私は、あなたがたのクリスマス休みの予定をたいへん狂わしたのではないかと考えて、ひじょうに申しわけなく存じております。私はお約束したことをその通りに実行したいと願っていたのではありますが、とかくこのようなことはすべて、私たち自身の思うようにはまいらないものであります。そのときの定められた情況によっては、どうしてもそれにしたがうよりほかはないことがあります。

 私は今日は、とにかくできるだけをつくしてみますが、少ししかお話ができないかもしれませんので、その点はどうぞお許し下さるようねがいます。その代り、私ができるだけ十分にいい表わしたいと思う意味については、実験による説明をいたしましょう。もし今日の講演が終わったとき、次の週間には私のチカラがもっと回復してくることを考えに入れながら、この講演をつづける方がよいということが、みなさんによってみとめられましたならば、もちろんみなさんの意見にしたがって、この話のつづきを進めて行くか、または別の話にうつるか、どちらでもあなたがたが適当とお思いになる順序にしたがってやって行きたいと思います。今日は、私は病気―といって単にカゼなのですがーのためにどうも少し弱ってはおります。


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解説 森裕美子


このとき、ファラデーは68歳。

そりゃあ風邪ひいたらしゃべるのはつらいで。

これは1859年にファラデーが実演したクリスマスレクチャーの冒頭の部分や。

この次の年のクリスマスレクチャーが、かの有名な『ロウソクの科学』の講演ですわ。


おもしろい講演やったから、これを本にしたら売れるやろなあ、と考えたのは「序文」を書いてるウィリアム・クルックス(真空放電のクルックス管で有名や)。

今みたいに録音機はなかったから、記録を速記する人を雇ったんかなあ。

この記録は臨場感ある。

ファラデーのていねいな言い訳まできちっと書いてはる。


ファラデーは化学者でもあったし、電磁気学でもぎょーさんの発見をしてる。

この講演のお話のテーマは「力」やねん。

今でゆうたらエネルギーのことかなあ。


化学エネルギーが熱エネルギーに変わったり、電気エネルギーに変わったりするやろ、

逆もあるでー、ほらなーって、次々実験して見せてくれるねん。

ファラデー自身も実験ショー見て、科学の道に進んだ人やったからやりがいを感じてたんやろなあ。


実験内容は、どれも当時では最先端のレベルやったはずや。

そやけど、今では、この本に出てくる実験と似たような実験を学校や科学館でやってたりするで。

この本があるからお手本になるしな。

理科ハウスでも毎年12月には、『ロウソクの科学』の実験をやってんねん。

人気あるで。

これもファラデーさんのおかげやな。ありがとうな、ファラデー。


2021年10月10日


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第七回

『生命とは何か』 P17

エルヴィン・シュレーディンガー/著

岡 小天・鎮目恭夫/訳

岩波文庫 2008年発行

P17

 この「きまじめな物理学者の考え方」を進めてゆくうまい方法が一つあります。それは、風変わりな、人をばかにしたような疑問、「原子はなぜそんなに小さいのか?」から出発することです。そもそも、原子というものは実際まったく小さなものです。われわれが日常生活で取り扱うものは、どんな小さな一片の物質でも、とほうもなく多数の原子を含んでいます。このことを人々にピンとわからせるために、いろいろな説明の仕方が今までに工夫されてきましたが、ケルヴィン卿の次のようなたとえほど印象的なものはないでしょう。いま仮に、コップ一杯の水の分子にすべて目印をつけることができたとします。次にこのコップの中の水を海に注ぎ、海を十分にかきまわして、この目印のついた分子が七つの海にくまなく一様にゆきわたるようにしたとします。もし、そこで海の中のお好みの場所から水をコップ一杯汲んだとすると、その中には目印をつけた分子が約100個みつかるはずです。


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解説 森裕美子


コップ一杯の水の話はいままでに何回か聞いたことあったんや。

これな、誰が最初に言いはったんか、知りたかってん。

ケルビン卿(ウィリアム・トムソン)やってんなあ。

絶対温度の単位になってるケルビンやで。


これ、ほんまにそうなるんか、計算してみたなる。

ケルビンが言うてるからまちがいないで、と思うのはあかん。

科学者かてまちがえることあるしな。


ほんで、私の計算の答えは770個くらいやった。

「100個みつかる」やから、まあ、まちごうてないわ。

けど、答えが100個としても1000個としても水の一滴にも到底たらんけどな。


理科ハウスでは、こんなふうに研究者もやったんやろうなと思う計算を、みんなでやってみたりしてんねん。

ちょっとだけ科学者に近づけた気がしてええと思いますわ。

もちろん、計算が簡単なときだけやけど。


この本は量子力学で超有名なシュレーディンガーが書いたんやけど、物理学者が生物学の本を書くってめずらしいやん。

本人もまえがきで、掟やぶりやけど許してちょ、て書いてるねん。

けど、ワトソンとクリック(この二人はDNAの二重らせん構造を見つけた)は、この本にめちゃくちゃ影響されたんやって。

もし、読んでなかったらDNAの研究はせーへんかったかも。


そやから、掟やぶりでも書いてくれてよかったやん。

日本の科学者もこの本に影響されてたっていうから、もう名著とゆうてもええんちゃう。

シュレーディンガーが分子生物学への扉をあけた、とゆうこっちゃ。

薄い本やから、飛ばし飛ばし読めば誰でも読めますわ。


2021年10月3日


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第六回

『第三冬の華』 P86「寺田先生の追憶」から

中谷宇吉郎/著

甲鳥書林 1941年発行


P86

 先生はどんな人でも憎んだり、避けたりされるようなことはなかった。沢山の学生の中には、随分気障な男や、内攻的な打算家などもあって、私たち仲間ではいやな奴となっていた男でも、先生はよく親身になって面倒を見て居られた。もっとも時々癇癪を起こされることもあったが、その後ではいつも「今の若い連中には、無限に気を長く持たなければならないようだ。それぞれ長所はあるんだが」と言って居られた。

 そういう気持ちの先生でも、矢張り憎悪に近い感情を持たれた一種の人たちがあった。それは、道徳とか愛国とかいう最も神聖なことを売り物にして、それで生活の資を得ている人たちに対してであった。その頃物理の畏敬すべき先輩が恋愛事件で失脚されたことがあった。その事件をいつまでも如何にも楽しそうに蒸し返し繰り返して非難することによって、自己の道徳が堅固であることを誇示するつもりになっていた先生方が、大学の中にもあったそうである。それからこれも末期の現象の一つであったのであろうが、東京の下町などには、女髪結のような職業の人たちにいやがらせをやって生活していた自称愛国団体の下っ端の連中があった。こういう人たちの話が稀に出ることがあると、先生は妙に興奮気味の口調で「僕はああいう人たちには、どうにも我慢が出来ない」と言われた。そして「寺田君の説によると、泥棒をする男は皆善人なのだそうだ」という風に意地の悪い人たちから言われても、平気な顔をして居られた。これは推測であるが、そういう風に言われると、却って内心少し御得意のようでもあった。


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解説 森裕美子


「寺田先生」というのは、物理学者であり、俳人、随筆家の寺田寅彦。

中谷宇吉郎は寺田の弟子、雪の研究で有名やな。

別におもろないで、このエピソード。

そやけどこれは書いとかなあかん。

これはうちのファミリーヒストリーやから。

文中の「恋愛事件で失脚」したんは石原純のことやねん。


石原が歌人・原阿佐緒と不倫。

大正10年7月30日の東京朝日新聞2面にデカデカと写真入りで載ったんや。

記事の内容は事実とはけっこう違うかったみたいやけどな。

じーちゃん、真面目な性格やったから,恋愛に対しても真面目やった。

おかげで家族は大変やったみたいやけど、「大変」のほとんどは周りの目のせいや。

私も学生時代に教授陣に呼び出されて質問されて、ちょっといややった。

そのとき初めて「じーちゃん、不倫でこんなに有名なんや」と知ってん。

人の恋愛てそんなに気になるもんなんか。

そやから寺田寅彦、援護してくれてはってんなあと思たら泣けるやん。


寺田と石原は岩波の雑誌『科学』の創刊にかかわっててん。

そんでどんな紙にするん? てなったときに、

石原が推してた紙に、「そんなツルツルなんはいややー」て寺田が言ったとか。

仲ええな。


(追記)「寺田先生の追憶」はインターネットの青空文庫で読むことができます。

似ている題で「寺田寅彦の追想」もあるのでご注意ください。

2021年9月26日


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第五回

『科学者の自由な楽園』 P30、P138

朝永振一郎/著

江沢洋/編

岩波文庫 2000年発行


P30

 「繰り込み」理論の話が出ましたから、ちょっと、私は「くりこみ」とひらがなで書く習慣があるんですが、そうしたら、それを書いた校正刷りがきまして、それを見ましたら、「しりごみ」になっているんです。「しりごみ理論」と。つまんないことを申し上げて・・・・・。


P158

 中学五年生のとき、有名なアインシュタインが来日した。何もわからぬのにジャーナリズムはいろいろと書きたて、なまいきな中学生もそれに刺激されて、なんにもわからぬのに石原純先生の本などを手にしたりした。時間空間の相対性、四次元の世界、非ユークリッド幾何の世界、そんな神秘的なことが、このなまいきな中学生を魅了した。物理学というものは何と不思議な世界を持っていることよ、こういう世界のことを研究する学問はどんなにすばらしいものであろうかと思われた。


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解説 森裕美子


しりごみ理論は笑えた。

朝永振一郎は「くりこみ理論」でノーベル賞もらいはった理論物理学者。

そんなすごい理論をこんなエピソードにできるって太っ腹すぎるやん。

「くりこみ理論」は難しいから、私は説明でけへんで。

知りたかったら『量子力学と私』を読んだらええと思うわ。


科学者の自由な楽園、ていうのは財団法人理化学研究所のことや。

ふえるわかめちゃんの、りけん。

ビタミンAやわかめの売り上げのおかげでのんびりできたんかなあ。

月給はもらえて義務はないねんて。

令和の研究者が聞いたら、うらやましすぎて泣いてまうわ。


この本にはノーベル賞の受賞式のこととか、訪英旅行のこととか、いっぱい笑えるエピソードがあんねんけど、話が長いからここに書くのはあきらめましたわ。

この本のエッセイや講演の記録は読みやすいで。

量子力学みたいにわけわからん理論の説明を読むときは、めちゃ疲れるけどな。


ほんで、でたー! 石原純! 

うちのじーちゃんや。

これは、理科ハウスに関係あるから書いとかなあかんエピソードやった。

ノーベル賞もらいはったあの人もこの人も、ほんでノーベル賞をもろてないぎょうさんの人に影響与えたんや。

これ、すごいことちゃうの?

けど、そんなすごい人やったって、私は40歳近くになるまで知らんかった。

孫としてどうなん?

まあ、科学史エピソード書いて挽回しますわ。

2021年9月19日


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第四回

『完訳 ファーブル昆虫記1巻~10巻』 6巻上のP85

ジャン=アンリ・ファーブル/著

奥本大三郎/訳

集英社 2008年発行(第6巻)

P85

 私は五歳か六歳であった。家が貧しいから口減らしのために、先ほども述べたとおり、私は祖父母のところに預けられたのであった。

 その人里離れた農家の、鵞鳥や仔牛や羊のなかで、私の知性の最初のかすかな光が差しはじめたのである。

 それよりまえのことは真っ暗闇のようで、私には何もわからない。私の内部から曙の光が差しはじめ、無意識の暗雲が晴れて、いつまでも消えない記憶が残るようになったとき、私は本当に生まれたのだ。

 いまも自分自身の姿がはっきり目に浮かぶ。私は粗い布の子供服を着ていた。裾を引きずっているので、裸足の踵のところは泥だらけになっていた。腰に締めた帯に紐でぶら下げたハンカチのことを覚えているが、このハンカチをよく失くしたものだ。それで、その代わりに服の袖の裏側で何でも拭いたのだった。

ある日のこと、幼い私は両手を後ろに組み、太陽に向かってさっきから考え込んでいた。まぶしい輝きが私をとらえていて、私はランプの灯りに惹きよせられた一頭のシャクガであった。私がこの燦々とした輝きを受けているのは、口で、なのか、それとも目で、なのか?

 これが、芽生えはじめた私の科学的好奇心から出された問題なのであった。読者よ、笑わないでいただきたい。未来の観察者はもうすでに練習し、実験しているのである。私は口をあんぐりと大きく開け、目を閉じてみた。輝きは消えた。目を開いて口を閉じてみた。輝きは再び現われた。私はそれを繰り返してみた。結果は同じである。

これで決まりだ。つまり、私は“自分の目で太陽を見る”ということをはっきりと知ったのである。ああ! なんと凄い発見だろう! その夜、私は家じゅうのものにその話をした。祖母は私の無邪気さに優しくほほえんでくれた。ほかのものたちは馬鹿にして笑った。世間というのはこんなものである。


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解説 森裕美子


今回はダーウィンが「類いまれな観察者」とゆうてたファーブルの本やで。

ファーブルは進化論には反対してたけど、二人は手紙のやりとりをしてたんやな。

英語とフランス語で大変そう。

ファーブルは、自分が虫好きなんは遺伝なんか?と祖父や祖母や親を振り返ってみたけど思いあたらん。

小さい頃を思い出して、上のエピソードを書いたんや。


なんや、最初の発見は虫とちゃうやん!

そやけど、観察力、普通やないな。

昆虫学やのうて、別の分野でも科学者になれたと思うわ。

実際、コルシカ島で物理の先生にもなってはった。


『ファーブル昆虫記』に出てくる虫の話は、観察→仮説→実験→考察がめちゃ多いねん。

とにかく実験がすごいわ。

そこまでやるかー、のレベル。

虫に詳しい人にはたまらんやろな。


私が感動したのは、91歳までの波瀾万丈の生き方やね。

子どもや自分より40歳も若い妻が先に亡くなりはったんは辛かったやろなあ。

本の訳をやりはった奥本大三郎さんは、東京都文京区千駄木にあるファーブル昆虫館(虫の詩人の館)の館長さんや。

興味がある人は、コロナ禍が落ち着いたら行ってみてくだはれ。

2021年9月12日


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第三回

『ダーウィン先生地球航海記1巻~5巻』 4巻のP174

チャールズ・ダーウィン/著

荒俣宏/訳 内田春菊/イラスト

平凡社 1995~1996年発行

P174

 泉の近くでは、なんとも興味ぶかい光景がみられた。たくさんの巨大な陸ガメたちが、あるものは頭を前方につきだしながら必死に脚をうごかして旅をつづけ、またあるものは満腹するまで水を飲んでゆっくりと帰っていくのだ。

 陸ガメは泉にたどりつくと、付近になにがいようとおかまいなく、頭を目のところまで水にしずめて、一分間に十度ほどの割合で、ごくごくと口いっぱいに水を飲む。

 住民からきいたところ、陸ガメたちは泉のあたりに三日から四日とどまったあと、低地にもどるのだという。かれらがここへやってくる頻度はまちまちである。おそらくは、ふだん生活している場所でたべているものの性質によって、水場へおもむく回数がきまるのだろう。しかしながら、この動物たちは、年間にほんの数日、雨がふる以外にまったく水気のない島でさえ、確実に生きていける。

 カエルの膀胱が、生きるのに必要な水分をたくわえる機能をはたしている事実は、ひろくみとめられていると思う。どうやらおなじことが陸ガメにもいえるらしい。なぜならば、カメたちは泉に着いた直後、膀胱がしばらく水をたくわえてふくれているのに、すこしずつその容積がちいさくなり、なかの水も純度が落ちてくるからだ。ここの住民は低地をあるいているときにのどがかわくと、この現象を参考にして、カメの膀胱がじゅうぶんにふくれている場合にそのなかの水を飲むようにしている。わたしの目前でころされた陸ガメの場合、なかの水はすきとおっていて、かすかに苦い味がするだけだった。しかし住民たちはさいしょに頭骸骨膜のなかにある水を飲む。これが最良なのだそうだ。


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解説 森裕美子


飲んだんかい!

ダーウィン、ワイルドやん。

まあ、そのくらいのことはなんでもあらへん。

そやないとこんな大冒険はでけへんな。

この航海はダーウィンの人生を変えたんや。

かの有名な『種の起源』はこの経験が元になってるからなあ。

上に登場する陸ガメはもちろん、ガラパゴスゾウガメのことでっせ。


ダーウィンは動物や植物や生き物のことはよー知ってるんやろなー、くらいはなんとなくわかるやん。

けど、もっと詳しいのは地形とか地層、化石とかやってん。

そらそやな。

もう死んでしもた生き物は化石になってんねん。

地面の中のこともぎょーさん知ってんとあかんやろ。進化論やから。


この全5巻の本の中身は全部がエピソードやねん。

エピソードだらけの本。

ほんで、ダーウィンを一番驚かせたんは、フエゴ島に住んでた「フエゴ人」。

うちらと違う文明を持ってたフエゴ人。

文明の進化についても書いてるで。

すべての人が平等にあつかわれている社会では文明の発達を遅らせる、てゆうてんねん。

フエゴ人はみんなが物を分け合うねん。

どひゃー!

これにはびっくりしてしもたなあ。

2021年9月5日


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第二回

『素粒子はおもしろい』 P14,P82

益川敏英/著

岩波ジュニア新書 2011年発行

P14

 翌日、いつもどおり、午前10時すこし前に大学に着きました。小林くんが10時ちょうどにやって来ました。「四元ではダメだという論文ではなく、六元にしたらうまくいくという論文にしよう」と提案したら、小林くんも一瞬だけ考えて「あ、そうですね」とOKの返事が来ました。それで、論文の骨子が決まったのです。

 四ページの短い論文だったので、手早い人だったら、二~三日間で書いたかもしれません。英語には「ハードワーカー」という言葉があって、「ソフトワーカー」という言葉はないそうですが、私は基本的にソフトワーカーです。一ヵ月ぐらいかかって日本語で論文をまとめ、こんどは小林くんがそれを参考にしながら、英語で論文を書きました。小林くんが思いきって削ったので、最終的には分量が半分ぐらいになっています。


P82

 私の似顔絵が饅頭に描かれた「名大饅頭」が名古屋大学の生協で売られています。私はこれはなかなかセンスのいい試みだと思っています。学生たちに「益川、かじっちゃえ。ノーベル賞なんか、食っちまえ」とハッパをかけているわけですから。

日本だけかもしれませんが、偉人の姿とか名前を書いたものに人格が宿るとして崇拝します。なにも偉い人が名前を書いたからといって、それを破ろうが燃やそうが何でもありません。夜中に藁人形に釘打ちして相手を呪い殺すというようなことがあるといわれていますが、そういう言霊の世界は科学とはあいいれません。

 もっとも、私は甘いものは嫌いなので、名大饅頭を共食いすることはありません。かじっている写真を撮らしてくれというので、かじる格好をしたことはありますが。


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解説 森裕美子


名大饅頭食べてみたい。

7月に亡くなってしもうたから、もう饅頭でしか会われへん。

こんな写真のリクエストにもこたえてくれるなんて優しい人やってんな。

益川さんは理論物理学者。

上の本は、素粒子の本やけどコラムがたーくさんあって、益川さんの人柄が、ほんま、よーわかるで。

素粒子の説明はわからんかってもええねん(文中で益川さんもそうゆうてはる)。


いっしょにノーベル賞をもろた小林誠さんの著書、『消えた反物質』も紹介しときますわ。

Bファクトリー(B中間子を作る高エネルギー加速器)の実験結果が出る前、要するにノーベル賞もらう前に書きはったんや。

この本を読んでも小林さんのことはぜんぜんわからん。まじめな本や。益川さんがまじめやない、というてるのとはちがうで。性格の違い。

複素数が出てきてちょっと難しいけどな、わかるとこもあるで。


この二人が何をやったんか。

これ、ちゃんと人にわかるように言える人はなかなかおらんやろ。

そやからわかりたかってん。自分なりにな。

ほんで、理科ハウスの生解説動画「原子のなかみ」を作ったんや。

これがなかなかよーできてんねん。

二人はただのおじさんにしか見えへん人が、これ聞いたら「めちゃかっこええ科学者やん」になるねんで。

中身を見るってこういうことやんな。

2021年8月29日


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第一回

『熱き探求の日々』DNA二重らせん発見者の記録 P92-93

フランシス・クリック/著 中村桂子/訳

TBSブリタニカ 1989年発行

P92-93

今日では、DNAが何であるか知らない者はほとんどいない。たとえ知らなくとも、それが「化学的」とか、「合成」などと同じ「汚らわしい」言葉に違いあるまいぐらいのことはわかる。その中に、幸いワトソン、クリックというふたりの人物がいたという事実を覚えている人がいてはくれても、この二人を区別のできる人はあまり多くない。熱狂的なファンだと言い、あなたの書いた本は実に面白かったという人にどれだけ会ったことか。もちろん例のジムの本のことだ。しかし、こんな時にそれは私ではありませんなどと説明しないほうが良いことは、これまでの経験から身にしみてわかっている。

もっとおかしなこともある。1955年にジムがケンブリッジに戻ってきたときのことだ。ある日私は、新しくキャベンディッシュ研究所教授に就任したばかりのネビル・モットと歩きながら、

「ワトソンをご紹介します。研究所に来ていますから」というと、教授は驚いたような顔をして私をまじまじと見つめ、

「ワトソン、ワトソンって? 私は君の名前がワトソン=クリックだと思っていたよ」と言ったものだ。


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解説 森裕美子


「例のジムの本」ていうんは、ジェームズ・ワトソンが書いてベストセラーとなった『二重らせん』のことやで。

DNAの二重らせんの構造を見つけるまでのたった約2年間のできごとを、人間関係のごちゃごちゃも含めておもしろーに書いてあるん。

そやけど、これはワトソンの偏見で書いてあるから、この本が出版された後に登場人物からめっちゃクレームがあったんやて。

そしたら次に、そのクレームの中身やたくさんの証拠を追加して「二重らせん 完全版」を出したんや。

ワトソンすげぇ。

「正直ジム」って呼ばれてんねんて。


一方、クリックが書いたのが上の本やで。

おんなじ登場人物が出てくるから、この2冊を読み比べるとよろしいわ。

ここはワトソンの偏見やってんな、とかわかってしまうで。

クリックもおしゃべりで有名やってん。

ふたりはええコンビやってんな。

ずーっと後にワトソンは『DNA』という本も書いてんねん。

遺伝についてまとめた本や。DNAの研究の歴史がわかりやすいし、ヒトゲノム計画にかかわったジムが自分の宣伝もちゃんとしてるとこが正直やと思うわ。

2021年8月22日


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