トップページ理科ハウスの想い利用案内スケジュール日記調査研究石原純ショップ問い合わせ

                                         

「科学者が書いたもの」の中から「理科ハウスの独断」で「本文の一部」を紹介します。

おまけとして解説をつけてみました。科学者がちょっとでも近い存在に感じていただけたらうれしいです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第四十四回

『雑種植物の研究』  P42

グレゴール・ヨハン・メンデル/著

小泉 丹/訳

岩波書店 1928年


P42

 以前に観賞植物に就て行われた研究で、既に、雑種は、正しく両親の中間の形態を表わすものではないのが通例である。という証左を得て居った。(4行略)

 

 「えんどう」の雑種でも、所見は同様である。雑種の形質七つの何れもが、両親の対の形質の一方に全く同じであって、も一つの親の形質は、認めることが出来ない。或は、其に似て居って、雑種と其の親とを明らかに区別することが出来ない。此事実は、雑種から生ずる子孫に見られる、いろいろの形態のものの類別決定や、分類配列をすることに、極めて重要なことなのである。此より以下の叙述では、〔双親の相対的の形質のうちで〕、雑種形成に於て、全然或は殆んど変らずに表われて来る方の形質、従って、自身で雑種の形質となる方のものを、優性 dominierend と名づけ、また雑種形成において、隠れている方の形質を、劣性 recessiv と呼ぶこととする。何故に“recessiv“ という言葉を用いるかといえば、この形質が、雑種では退き隠れ或は全く消えてしまっているのであるが、後に述べるように、その雑種の子孫には、再び、少しも変らずに表われて来るからである。

 

 (旧かなづかいを一部現代かなづかいに直しました)

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


メンデル(1822~1884)は聖職者。

修道院の庭で遺伝のしくみを調べるために「えんどう」を育ててたんや。


私は豆ごはんを食べたいから庭にエンドウを植えるねん。

逗子のスーパーでは豆ごはん用のエンドウをあんまり売ってへんからなあ。


メンデルは豆ごはん食べてなかったと思うけど、なんでエンドウにしたんかってゆうのには、ちゃんとわけがあんねんで。

本にその3つの理由が書いてあるで。

簡単にゆうたら、形が見分けられること、

花が咲くときに他の花粉がつかへんようにできること、

何代かけあわせてもちゃんと子孫ができることや。


エンドウはめしべやおしべが花の中に隠れてて自家受粉するから都合がよかったんやなあ。

けど、純粋種から雑種にするときには、いちいち花を開いておしべを取って他の花の花粉をつけるってゆうのをやらなあかん。

めんどくさー。

メンデルはこれを8年間もやりはった。


文中の7つの形質は、

種子が丸いかどうか、胚乳の色、種子の皮の色、さやの形、未熟なさやの色、花のつき方、茎の長さやて。

どの形質を調べても親の形質が混ざって中間になったりはせえへんねん。

親のどっちかとおんなじやねんってわかったんやなあ。

現れるほうを優性、隠れてるほうを劣性ってメンデルが名づけたんや。

最近では、この日本語訳がようないわってなって顕性と潜性に変わったんやで。


メンデルの組み合わせの考え方がすごかったわ。

数学が得意やったそうや。

この論文は自分が生きてる間は認めてもらわれへんかった。

1900年に3人の遺伝学者のおかげで日の目をみてほんまによかったなあ。

今では遺伝の父と呼ばれてるしなあ。


2022年10月2日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第四十三回

『寄生虫館物語』  P131

亀谷了/著

文藝春秋 2001年


P131

 朝八時ごろからはじめて、すぐに一匹は見つかった。「しめた!」と僕は思わず叫んでいた。

 

 結局、夜暗くなるまで同じ作業を続け、全部で10匹の寄生虫が見つかった。さらに同じ作業が、何日も何日も続き、結果として合計39匹の寄生虫が採取できたのだ。

 

 次にやるのは、標本作りだ。なるべく形がしっかりしているものを選び、染色して、顕微鏡で見やすい標本を作っていった。

 

 僕は、ネオダクティロディスクス・ラチメルスという名前を、この寄生虫につけた。

 

 一種の吸着器官だと考えられるのだが、まるでお皿のような部分があるのが、この寄生虫の最大の特徴だ。名前についているディスクスは皿という意味で、それにちなんでつけられている。さらにラチメルスというのは、シーラカンスを初めて発見した、ラチメール女史にちなんでいる。

 

 パリの自然史博物館に手配して、同様のものを採集したかどうかを確かめたが、否という返事だった。そこで、新種、親属、新科として発表したのである。それは、1972(昭和47)年のことだった。

 

 スイスのベールは、彼の著書『動物の寄生虫』(1971年。1973年に平凡社より日本語版発行)の中で、シーラカンスには単生類の寄生虫がいてもいいはずだと述べている。それを僕が見つけたわけであるから、喜びは大きかった。

 

 (文中の漢数字を数字に変えました)

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


今年の夏、「あのビル・ゲイツさんが目黒寄生虫館に来た!」って、ネットのニュースに載っててん。

ゲイツ財団が取り組んでる熱帯病対策のお仕事で来はったらしい。

寄生虫を紹介してる「目黒寄生虫館」は世界でも貴重な博物館、ゆうことがわかるニュースやった。


このすごい博物館を創りはったんが、医師の亀谷了(かめがいさとる 1909~2002)や。

最初は小さい部屋やったのに、どんどん大きくなって今のビルになってん。

企業でもない民間がこれを70年近くも維持できてるんが、ほんまにすごいことやわ。


上の発見物語は、亀谷がシーラカンスの体の中から寄生虫を探す話や。

日本に送られてきたシーラカンスを解剖してたとき、エラの下に手を突っ込んだら鋭い歯が刺さってしもて、亀谷の手が血だらけになってしもてん。

そんな状況やのに寄生虫を探すのがうれしかったんやて。

寄生虫愛がすごすぎるやん。

けど、このときは寄生虫がちゃんと見つけられへんかったそうや。

その後、よみうりランドに展示されてたこのシーラカンスを何度も調べて、ようやっと新種の寄生虫を見つけたんや。

がんばりはったなあ。


この本にはいろんな寄生虫が登場するで。

カマキリのお尻から出るので有名なハリガネムシは人に入ることもあるらしい。

5歳の女の子から出てきたハリガネムシが寄生虫館に展示されてるねんて。

今でもあるんかなあ。


それから、めちゃくちゃ気になるのがフィラリアや。

これに寄生されて象皮病になってしもた人の写真は衝撃的や。

寄生虫館に行ったことある人は、これだけは忘れられんっていうすごい写真や。

気になる人は見に行ってな。


他にもたくさん紹介されてるんやけど、やっぱり寄生虫はこわい。

亀谷は食事について注意する点をちゃんと教えてくれてはる。

グルメな人ほどこの本読んどいたほうがええでぇ。


2022年9月18日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第四十二回

『地球をはかる』  P196

古在由秀/著

岩波書店 1973年


P196

 その年の五月、チェコのプラハでひらかれた国際会議の、私が座長をしていた会場で、アレイさんがアメリカの月のレーザー計画について講演し、「日本にはとくに協力してほしい」といって話をむすびました。アポロ11号のテレビの中継に出てきたアレイさんは、日本からの特派員のインタビューにこたえ、「日本でも東京天文台では古在さんたちがもうすぐ観測をはじめるだろう」といったのを聞いておどろきました。

 

 私たちはまだ何の準備もできていなかったのです。アメリカではもちろんアポロ11号が逆反射器をおくとすぐ、カリフォルニアのリック天文台の口径三メートルの望遠鏡を使って観測をはじめました。

 

 月に向けては、五ジュールほどのエネルギーのレーザー光を発射しなければいけません。月は人工衛星とくらべればずっとゆっくり動いているので、望遠鏡も速く動かさなくてすみます。しかし、四〇センチ四方の逆反射器は、たとえ太陽の光があたっていても、大望遠鏡でも見ることはできません。太陽の光があたっていない、月も夜、地球も夜の時の方がよけいな光がまぎれこまないので、観測にはのぞましいのですが、望遠鏡を目標に向けるのは、目標の付近の地形も見えないのでむずかしくなります。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


地球の大きさを初めてはかったんはエラトステネスやったなあ。

もっと精確に地球の大きさや形を調べるってゆうことは、こんなに大変なんやとこの本を読んで思たわ。


どうやってはかってるんかゆうたら、

恒星が月に隠れる時間を調べたり、人工衛星の軌道を調べたりすんねん。

めちゃ大きな三角測量やな。


古在由秀(1928~2018) は国立天文台の最初の台長さんや。

専門は天文力学で「古在機構」は世界的に有名なんやで。


上の文章の書き出しにある「この年」てゆうんは、

アポロ11号が月に向かった1969年のことやと思うねんけど、

アポロ11号のミッションのひとつが月面に鏡を置いてくることやった。


その鏡が「逆反射器」や。

地球からこの鏡に向かってレーザーを発射したら反射して地球に戻ってくるねん。

ほんでその往復にかかった時間を測ったら、地球と月との距離が計算できるちゅうわけや。

38万㎞も離れてる月の上の鏡やで。

簡単に当てられるわけないやんな。

どないしてやってるんか知りたい人は本の続きを読んでな。


古在先生、理科ハウスに来てくれたことあんねん。

小柴昌俊科学教育賞の第二審査のとき、先生は審査員の一人やったから現地視察に来はったんや。

そんとき、うちのばーちゃん(石原純の妻)の弟の話してはった。

名前は橋元昌矣ってゆうねんけど、じーちゃんと大学の同期で友達やってん。

ほんで天文台に勤めてたんや。

そやから古在先生もその名前を聞いたことあったんやろなあ。

知ってはったんでびっくりしたわ。


古在先生は、理科ハウスの展示をニコニコしながら見てくれはった。

「ぼくが行ったとこはなんでか審査に落ちるんや」

てなことゆうてはったけど、

理科ハウスはそのジンクスを破ってみごと第二審査を通過し、

第三のプレゼンでもトップで優秀賞をもろたで!

古在先生ありがとう!


2022年9月4日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第四十一回

『数学おぼえ書き』  P109

矢野健太郎/著

新潮社 1980年


P109

 アインシュタインの日本における第一回目の講演は、十一月十九日に慶応義塾大学の大講堂で、「特殊および一般相対性理論について」と題して行われた。その通訳に当ったのは、和服姿の石原純博士であった。

 

 まずアインシュタインは、午後一時半から四時半までの三時間、特殊相対性理論について語り、一時間の休憩ののち、さらに午後五時半から七時半までの二時間、一般相対性理論について語った。

 

 つまりアインシュタインの講演は、通訳も入れてなんと五時間にも及んだわけであるが、この間二千数百人に及ぶ聴衆が、身じろぎもせずに最後まで静かにきいた。これはアインシュタインに非常に大きな感銘を与えた。

 

 このことを日本の新聞は、「聴衆はながい間静かにきいていた。アインシュタイン氏の声は金鈴をふるように音楽的であり、石原博士の説明は女子どもにも理解される言葉使いである。二千数百の聴衆は、理屈はわからねど全くよわされた。ちょうどアインシュタイン氏の催眠術にでもかかったように」と報じている。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


矢野健太郎(1912~1993)は「ヤノケン」の名前で知られてる数学者やで。

専門は微分幾何学。

参考書でお世話になった人もぎょーさんおるやろな。

エッセイも書いてはる。

この本は雑誌や新聞やらに載った文章をあちこちから取ってきてまとめたもんや。

アインシュタインが日本に来はったとき、矢野は小学生やった。


アインシュタインはあこがれの存在やったけど、自分が数学者になってプリンストン高級研究所に二年間行ってたときに、なんとアインシュタインの部屋の斜め前の部屋やってんて。

こんなん、毎日うれしゅうてドキドキやろなあ。


アインシュタインが日本に来たのは1922年、今年は記念すべき100年目や。

新聞の記事の「女子ども」にはカチンとくるけど、100年前はこんなんが当たり前やってんなあ。

アインシュタインの講演会はどれも有料やってんでぇ。

今やったら1万円近くになる値段やった。

そやのに2000人以上も来るやなんてびっくりやな。


開催した出版社、改造社の戦略がうまいこといったんやと思うけど、

それにしても不思議な気がするわ。

アインシュタインの人気が出た理由がよーわからん。

5時間もかかる長い講演は、通訳してたじーちゃん(石原純)も大変やったやろな。

久しぶりのドイツ語であせってしもたて、どっかに書いてあったわ。


アインシュタインと和服姿のじーちゃんとのツーショットの写真が理科ハウスのホームページに載せてあるからよかったら見てな。

石原純について

2022年8月21日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第四十回

『中谷宇吉郎 小伝と科学随筆抄』  P74

藤岡由夫/著

雷鳥社 1968年


P74

 学問の値うちは、役に立つか立たぬかで判断すべきではありませんが、しかし宇吉郎の雪から氷についての一貫した研究は、ずいぶんと役に立ちました。また宇吉郎は「雪を切ることを教える」ということを気にし、自己弁護しております。私の友人宮崎友喜雄博士は、宇吉郎の教室を出てそこの助手をしていた人であります。「北大でなにをしていられましたか」とたずねますと、にこやかに「雪を切っておりました」と答えます。博士はその後に仁科芳雄博士の門に入り、いま理化学研究所の宇宙線の立派な主任研究員です。博士が雪ばかり切っていられたことは一つのことにほんとうに打ちこめば、それが何であっても後のために役に立つようになるものだ、ということの例を示すものです。

 

 ウサギの腹毛を使って人工雪をはじめて作ったS君というのは、関戸弥太郎博士で、博士も宇宙線の著名な研究者で、名古屋大学の教授であります。雪の研究には多勢の人がかかったのですが、それぞれ後に各方面の仕事に能力を発揮されるようになりました。

 

 なお雪に見える縞模様も、宮崎氏が雪を切ってしらべた結果、高い低いの溝ができていることが分かりました。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


雪を切るって何のこっちゃわからんやろ。

中谷宇吉郎(1900~1962)は雪の研究で有名な物理学者やな。

雪の結晶の種類を調べて、しまいには人工で雪の結晶を作れるようになりはった。

結晶には縞々模様があるねんけど、これを横から見たいわあって思て、結晶を切ってみたらええやんと考えたんや。

あんな顕微鏡サイズの小さいもんが切れるんか?

道具は安全かみそりやで。


助手の宮崎氏が毎日人工雪の結晶を切っててん。

ほんでそれをひたすら三か月以上もやって、しまいには切れるようになりはってんで!

すごすぎるやろ。

そこにはやっぱりなんか工夫みたいな、こつみたいなもんがあったんやろな。


この話は中谷宇吉郎が書いた『冬の華』の

「雪雑記」(青空文庫 中谷宇吉郎 雪雑記)に書いてあるで。


北海道みたいに寒いとこではいろいろ困ることが起こんねん。

地面の下が凍ってしもて盛り上がってしまう凍上とか、飛行機の翼に氷がついてしまう現象とか。

これの解決には中谷の研究が役にたってんねん。


宇吉郎の二女芙二子さんが北大の自動車に乗って小樽へ行きはったときのことや。

運転手が「札幌の道路のよいのは、まったく中谷先生のおかげです」とゆうたそうや。


この本の著者、藤岡由夫(1903~1976)も物理学者やで。

理研にいてはった。

藤岡の書いた本にはエピソードがたくさんあるからええわあ。

他の本も紹介したいなあ。

中谷宇吉郎の出身地、石川県加賀市にある「中谷宇吉郎 雪の科学館」はおすすめや。

花の形のチンダル像を生で見せてもらいましたわ。

きれかったでえ。


2022年8月7日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第三十九回

『天体の回転について』  P14

ニコラス・コペルニクス/著

矢島祐利/訳

岩波書店 1953年


P14

 私の意見の新奇と不条理に対する軽蔑の怖れが私をして、とうに完成している著述を殆ど発表せずにおくところでした。

 

 しかし私の友人たちは私が長い間躊躇し、彼等に反抗さえしたのを思い返させました。そのなかの第一はカプアの僧正であり、知識のあらゆる分野において高名なニコラス・シェーンベルクでありました。次はクルムの僧正ティーデマン・ギーゼでした。この人は私の親友であり、宗教上また他の良い学問に対する熱意に溢れた人です。彼は九年どころでなく、既にその四倍も私のところにしまってある研究を本に書いて公けにすることを度々私に勧めたばかりでなく、私がそうしないのを何度も非難しました。その他のすぐれた学識のある人々が同じように私に求め、数学にたずさわるすべての人々の最大の利益のために私の研究を公けにすることを、私が考えている懸念のためにもはや拒絶しないようにと勧めました。地球が動くという私の理論は今のところ多くの人々に不条理に見えようとも、私の著述が出版されて不条理の雲が明瞭な説明によって消えて行けば、それは多くの賞賛と感謝を呼び起こすであろうと彼等は申しました。長い間彼等が私に求めていた私の著述を出版することを友人たちに許すに到りましたのは、このような勧めとこのような希望によってであります。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


地動説で有名なコペルニクス(1473~1543) の職業は聖職者でありお医者さんや。

イタリアへ留学してたときに天文学にはまってしもた。

当時の、地球が中心で考える天動説による惑星の動きは、コペルニクスには「怪物」に見えたみたいや。

火星を地球から観測したら行ったり来たりするやろ。

そやからそれを表すために円軌道の中に周転円ってゆうちっちゃい円を加えたりしてたんやけど、その数が多すぎてぐちゃぐちゃになってたんや。


そやからコペルニクスはこの「怪物」をなんとかしようと思てん。

地球は動くことにして、太陽を中心に惑星の動きを書いてみたら周転円が減ってすっきりしたんやて。

これは数学が得意やったコペルニクスやったからできたんかもしれん。

この考えを本にまとめて、その「概要」を友だちに読んでもろたりしてたんや。

その結果が上に紹介した序文になるわけや。

結局、本を出版したのは、本人やのうてレティクスってゆう人やねん。


『天体の回転について』は全六巻の大著や。

岩波文庫にはそのうち第一巻だけが訳されてる。

他の巻については目次だけ書いてあるわ。

訳の後ろに科学史家である矢島祐利(1903~1995)の詳しい解説がついてるのがありがたいなあ。

(矢島はアララギの歌人でもあったから、うちのじーちゃんの短歌論についてまとめたりしてはる)


コペルニクスが臨終の床にあるときに、この本が届けられたとゆうエピソードが有名やねんけど、どうもそんなに間ぎわでもなかったみたいや(アシモフ著の「人名事典」参照)。

「コペルニクスは水星を見たことがない」というエピソードまであるんやけど、そんなことないやろ!

私かて水星見たことありまんでえ。


2022年7月24日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第三十八回

『飄々楽学  新しい学問はこうして生まれつづける』  P242

大沢文夫/著

白日社 2002年


P242

 われわれの研究室に「大沢牧場」という名前をつけたのは丸山工作さんです。七〇年代の終わりです。そのころ名古屋に来た外人さんがここは大沢牧場といわれているそうですね、と言ったのを覚えていますから。丸山さんの文章をそのまま引用させてもらいますと、「殿村、大沢、江橋の三研究室は、殿村工場、大沢牧場、江橋精肉店とニックネームがつけられている。殿村工場では、工場長の企画と指図にしたがって製品が整然と生産される。やがて課長クラスは独立して、それぞれ町工場をつくる。大沢牧場では柵にかこまれた広い草原で子馬たちがのびのびと育つ。成育した駿馬たちは自由をもとめて柵外に去り、自らのテリトリーを形成する。江橋精肉店では若者は店主夫妻の監督下で徒弟奉公したのち、暖簾を分けてもらって分店を経営する。名取親分は一家をかまえて組の繁栄をきずきながら、なお日本全体の科学に奉仕する。」(『筋肉のなぞ』丸山工作、岩波書店、一九八〇)

 

 牧場と言ってもらえるのは僕にとってはありがたい話でした。「牧場」から「放任主義」が想像されますが、別に主義主張があってそうなったのではなくて、自然にそうなったのです。

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


これはほんまの牧場のことやないで。

生物の研究室の話やねん。

前回に紹介した丸山工作が書いた文章が引用されてる。

丸山はニックネームをつけるのが上手やったんやなあ。


登場人物の殿村雄治(1922~1982 植物学)、大沢文夫(1922~2019 物理学)、江橋節郎(1922~2006 医学)、名取礼二(1912~2006 医学)、ほんで丸山工作(1930~2003 動物学)、みんな若いときに、アルバート・セント=ジェルジが書いた筋肉についての本を読んで感動して、筋肉の研究に頑張った人らや。

その頑張りは、1957年、筋化学の国際学会を日本で開くまでになったんや。


筋肉ってな、アクチンとかミオシンてゆうタンパク質でできてんねん。

筋肉は縮んだりゆるんだりするやろ、けどそのしくみはまだよーわかってなかってん。

そんなこと知らんかて筋肉動かせるでぇと思うけど、修理するにはしくみがわからんとあかんわな。


紹介した本を書いた大沢文夫は日本の生物物理の草分け的存在な人や。

最初は物理学の人やってん。

大沢の先生が寺田寅彦の弟子やったから、大沢は孫弟子になるなあ。

そやのに、なんで研究テーマが筋肉に変わったんか、この本にエピソードだらけで書いてあんねん。

なんかこの研究はめちゃ楽しそうや。

バクテリアのべん毛(モーターを持っている)の動きを調べるねんで。

この本は登場人物が多すぎてくらくらするけど、その世界では有名な人達なんやろなあ。


大沢はぎょーさんの子馬(学生)を育てはった。

ほんでその子馬のうちの一頭が、うちのにーちゃん(兄)やった。

そやから大沢先生の名前は聞いたことあってん。

にーちゃんは本の中にある写真にも写ってるで。

大沢先生のとこで博士号を取った後、アメリカの大学に行ったまま帰ってけえへんねん。

今は研究者やないねんけどな。


2022年7月10日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第三十七回

『新・分子生物学入門』  P144

丸山工作/著

講談社 2002年


P144

 一九八三年度のノーベル医学生理学賞がアメリカの遺伝学者バーバラ・マクリントックに授与された。三二年前に発表した「動く遺伝子」の研究に対してである。受賞の知らせをきいた八一歳のマクリントックは、「あれまあ!」とだけつぶやいて、彼女が丹精こめて手入れしているトウモロコシの畑に散歩にでかけていってしまったという。

 

 マクリントックは、ニューヨーク州のコールド・スプリング・ハーバーという小さな島にある研究所で、この四〇年間、ひとりでこつこつとトウモロコシの遺伝をしらべつづけてきた。トウモロコシの殻粒は、ふつう黄色いが、ときに、紫、黒、桃色などをしているものがある。これらは、アントシアンという色素の種類や濃さの違いによっている。マクリントックが目をつけたのは、殻粒の色がまだらになっているまだら入りの現象であった。まだら入りのトウモロコシはドライフラワー店で見ることができる。

 

 どうして、同じトウモロコシにまだら入りができるのだろうか? まず、黒っぽいアントシアン色素をつくらせる遺伝子の存在がたしかめられた。しかし、この遺伝子はトウモロコシのどの殻粒でも働いて、全体を黒くするはずで、白っぽい殻粒の出現を説明することはできない。何かが遺伝子の作用を抑えているのに違いない。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


マクリントック(1902~1992)、かっこええなあ!

ノーベル賞の受賞まで30年以上かかるゆうことは理論物理とかであるなあ。

その理論が証明されるのに時間がかかるからや。

そやけどマクリントックの場合はちゃうで。

発見の偉大さに多くの科学者が気がつかへんかっただけやねんで。

なんや、それ。

遺伝子の研究は、今やったらDNAを研究するんやろけど、当時は染色体やった。

まだDNAの二重らせん構造もわかってなかった頃や。

メンデルがエンドウマメを一生懸命育ててたみたいに、マクリントックはトウモロコシをたくさん育てて、染色体を調べて、その中のある遺伝子が染色体から別の染色体に移動してるって見つけたんや。


どうやって見つけるんやろ。

染色体の長さを調べるんやろか。めちゃ興味あんねんけど。


今では「動く遺伝子」はぎょーさん見つかってて、「トランスポゾン」て呼ばれてる。

これを最初に見つけたんやからすごいことやなあ。


メンデルは今ではめちゃ有名人やけど生きてたときはその研究があんまり注目されへんかった。

マクリントックは長生きやったんでノーベル賞もらえてよかったわ。


この優秀な女性研究者を紹介してくれたんは、丸山工作(1930~2003)。

筋肉の研究者でコネクチンを見つけはった。

丸山の本はエピソードが入ってて読みやすいしおもしろい。

この入門書もおすすめですわ。


マクリントックについてもっと知りたい人はサイエンスチャンネルの動画(30分)があります。


「偉人たちの夢 (90)マクリントック | Science Portal - 科学技術の最新情報サイト「サイエンスポータル」


2022年6月26日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第三十六回

『猿橋勝子 女性として科学者として』  P20

猿橋勝子/著

日本図書センター 1999年


P20

 学術会議会員選挙は、男性でもむずかしいといわれている。私の恩師三宅泰雄先生は、第七期から第十期までの四期、十二年間にわたって会員をつとめられた。毎期とも高得点で当選された。私はその時の選挙事務のお手伝いをしたので、選挙のむずかしさは、ある程度分っていた。いままでも、著名な先生方が何人も苦杯をなめている実状を、私はつぶさに見てきた。学術会議会長が次期会員選挙に立候補し、落選したこともあった。気象庁長官も現職で立候補し落選した。 一人ならず二人の長官が落選したのである。 (7行略)

 

 私がようやく立候補を決意したのは、届出締切一週間前であった。準備のよい方は一年くらい前に立候補を考え、着々と準備をすすめていられる。マラソンでいえば、他の候補者はすでに折返し地点くらいまで走っているのに、私はようやく、スタートラインに入ったという感じであった。

 

 ちょうど近くまで出かける用事があったので、学術会議に立ち寄った。係官は事務上の手続について、くわしく説明してくれ、「おかえりになりましたら、候補者の先生によくお伝え下さい」といった。私も「ハイ、わかりました。ありがとうございました」といって別れた。係官は、女性が立候補するなどとは、全く予想もしていなかったのである。実情を知る学術会議の事務官にとっては、当然の挨拶であったといえよう。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


これ、私やったら、頭の中でブチッ!と切れてまうわ。

この係官は次からは態度を変えなあかんことになんねんで。

なんでかゆうたら、猿橋勝子(1920~2007)は、1981年に日本学術会議の初めての女性会員になったからや。

まさにファーストペンギンになりはった。

日本学術会議の会員になるんは選挙に勝たなあかんて知らんかったわ。


猿橋勝子は気象庁気象研究所に勤務していた地球科学者。

1954年、第五福竜丸が太平洋での水爆実験のせいで被ばくしたとき、

この船の放射能汚染について調査しはってん。

ほんで、それからは日本各地の大気や海洋の放射能汚染について調査して研究しはった。


毎年、5月になったら「猿橋賞」を受賞しはる女性研究者がニュースになってるなあ。

今年は原子核物理の関口仁子さんやった。

そういえば、猿橋って何を研究してはった人なんかなあと思てこの本を読んだんや。

女性研究者の地位向上のためにめちゃくちゃ活躍しはった人やった。

1958年には「日本婦人科学者の会」を創立。

この会の最初の会長は「元始、女性は太陽だった」で有名な平塚らいてう!

猿橋は事務を担当。

1964年、第一回国際婦人科学技術者会議にも招かれはった。

研究もあるのに大変やな。


猿橋は学生時代は医者になりたいて思てたけどやめたんや。

東京女子医学専門学校を受験して合格してたけどな、

面接で校長に「あなたはどうしてこの学校を受験しましたか」と聞かれて

「先生のような立派な医者になりたいと思います」て答えたんや。

そしたら校長が笑いながら「私のような女医になりたいんですって? とんでもない。

そうたやすくなれるもんじゃありません」やと。

これには猿橋かて頭がブチッと切れてもしゃーないわな。


2022年6月12日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第三十五回

『科学の価値』  P127

アンリ・ポアンカレ/著

吉田洋一/訳

岩波書店 1977年


P127

 これは自然の蔵する秘密のうちでも最も重要な秘密の一つだ、とわたしは考えている。日本の物理学者長岡氏は最近一つの説明を提案した。氏によれば、原子は一つの大きな陽電子とそれを取り巻くきわめて多数の小さい陰電子から成る環とでできている、と言うのである。正に土星をとりまく環のようだ、というべきか。これはすこぶる興味ある試論ではあるが、まだ、これならまったく申し分ない、とはいい得ない。この試案にはもっと手を加える必要があろう。われわれは、いわば、物質の内奥にまで立ち入ろうとしているのである。

 


『日本の科学精神2』 原子力時代の曙 P13

工作舎 1978年


P13

長岡 いや、今の人は臆病なんだよ。ぼくは無鉄砲だからね。(笑声) 自分の考えたものはかまわず出したんだけれども、アトム・モデル(原子模型) というものを出したときには、なんだこんなものが--- といわれたもんです。


渡辺 そのころ、山川健次郎博士が物理のほうではおられたんでしょうか。


長岡 いや、山川先生はいなかった。中村清二氏などいたね。みんな反対した。反対したというわけじゃないが、疑いの目をもって迎えたわけだ。----しかし、ポアンカレーが彼の本の中で、こういうものもあるということを書いている。


藤岡 ほめていましたね。---どうも日本人は昔から、外国で有名になったものでないと、信用しないという癖があります。


長岡 掃き溜のゴミばかりほじくっている。これは日本人の大きな欠点だね。漢学者の残した弊害です。


(1948年9月 朝日新聞社出版局主催鼎談会にて  話手は長岡半太郎、渡辺寧、藤岡由夫の三人)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


今回は前回の続きやで。

長岡半太郎が考えはった「土星型原子モデル」は、1904年には外国にも発表されたんや。

ほんで、ポアンカレ(1854~1912)がちゃんとそれを知ってて、

翌年出版した本に書いてくれてん。

長岡はこれはうれしかったやろなあ。

日本ではあんまり評価してもらえへんかったみたいやから。


論文を出した頃の様子を回想してるのを書いてあった本を見つけたから、付け足しときました。

上の文中の「重要な秘密」ていうのは、原子の構造が謎になってることをゆうてんねん。

ゼーマンていう物理学者が、ナトリウム原子から出る光のスペクトルを調べてたときに、

ナトリウムを強い磁界中においてみたらスペクトルの輝線が増えてまうでぇってゆうたんや。

いったい原子の中身はどないなってんねんってなったんや。

ほんでいろんなタイプの原子モデルが考えだされたんやなあ。


次は、ポアンカレの説明するわな。

「ポアンカレ予想」って聞いたことあるやろ。

解けたら賞金がもらえる数学の難問や。

ぺレルマンが解いてしもたけどな。

ポアンカレ本人よりポアンカレ予想のほうが有名になってるで。

けど、他にもポアンカレの名前がついてる定理とか、めちゃたくさんあるねん。

私ら知らんだけやで。

とにかくポアンカレは、トポロジー(位相幾何学)の泰斗(たいと)や。


そんなポアンカレは科学に対して言いたいことたくさんあったんやなあ。

『科学と仮説』(1902)、『科学の価値』(1905)、『科学の方法』(1908)『晩年の思想』(1913)、の4冊も書いてる。

ちょうどこの頃、アインシュタインの相対性理論やボーアたちの量子力学が出てくる直前やった。

もう預言者になったみたいに、次はこうなるで、みたいなこといっぱい書いてはるわ。

数学だけやのうて科学についてこんだけ書けるってだけでもすごさを感じるわ。

本の内容は難しゅうて全部はわからんかったけどな。


2022年5月29日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第三十四回

『物理学者の眼』  田園銷夏漫録・抄  P139

長岡半太郎/著

学生社 1978年


P139

 寺の背後には孟宗竹の茂林がある。小高くなって、遠くから望めばふさふさとした竹の葉が風にそよいで、何となく寺門のあるかを疑わしめる。この竹山には大震で断層が現れた。由来地震が揺れば竹藪ににげろと言われているが、ここでは著しき除外例を示した。竹山の下にある寺は、はなはだしく揺れて、ついに倒壊した。寺門はむろん潰れたが、倒れた寺の屋根をそのままに残して、大黒柱などは中折れしてしまった。門傍の仮屋に住っている住職は、日露戦争の勇卒で、容易に動じる人ではないが、大震のときは肝を冷したようである。(4行略)

竹林も外から見ては何たる変りがないようだが、竹にまとう蔦や笹枝を手蔓に、けわしい坂をよじ上れば、竹林を横ぎる陥没地がある。割れ目が二メートルもあろうか、竹の根などがこの作用に対してどんな抵抗をなし得たか。竹も根も草も、木もめちゃくちゃに倒れて、その中に葬られ、ものすごい状況を呈している。この割れ目は震後数日はどのくらい深いか分からなかった。試しに石を落して見ると、しばらくあって水に落ちたような音がしたそうである。だんだんそばの土が崩れて、ついに今日のごとくなかば埋ってしまった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


2メートルも地面が割れてしまうて、こわすぎる!

落ちたら大変や。


倒れてしもた寺は、神奈川県横須賀市津久井にある荘厳寺。

大震とゆうのは関東大震災(1923年)のことや。

長岡半太郎(1865~1950)は、この寺の近くに別邸をもってはって、

夏になると東京は暑いからいやや、ゆうてこっちに来てたんや。

震災のときにもこっちにいてはった。

長岡の別邸は倒れへんかったけど、壊れたから修理せなあかんかった。

90年も経ってる萱葺きの家やて。

震災の時は二晩を庭で過ごしたそうや。

大変やったなあ。


「田園銷夏漫録・抄」は

この避暑地でのいろんなできごとを震災の翌年の11月に綴ったものや。

下浦のタコは甘くておいしいとか、

海にアジ釣りに行って釣り糸の横振動を観察したりしたとか、

油壷にある東大の臨界実験所まで出かけた話とかを書いてはる。


今、この別邸のあったところには記念館が立ってるねん。

「長岡半太郎記念館・若山牧水資料館」


歌人の若山牧水も近くに住んではったことがあってんなあ。

なんでかしらんけどセットにされてしもた。

ちっちゃい記念館で受け付けの人も一人やから、昼休みには閉まってまうねん。

行きたかったら、昼の時間に重ならんように気をつけたほうがええで。


物理学者の長岡半太郎はうちのじーちゃん(石原純)の大学の時の先生やってん。

たくさんの弟子を育てはった。

1903年に、原子はまんなかにプラスの電気を持った原子核があってそのまわりをマイナスの電気を持った電子が回ってるてゆう「土星型原子モデル」を考えはった。

電子はもう知られてたけど、陽子も中性子もまだ誰も知らん頃の話やねんで。


2022年5月15日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第三十三回

『自然発生説の検討』  P104

ルイ・パストゥール/著

山口清三郎/訳

岩波書店 1970年


P104

 あらかじめ加熱された浸出液に出現するすべての有機体性生成物の起源は、空気が断えず運んで来てあらゆる物体の上に置き捨ててゆく固態粒子以外のなにものでもないことが、前の諸章において厳密に証明されたことと思う。もし、それでもなお、この点に関して読者の心中に一抹の疑惑が留まりうるならば、以下に述べる諸実験によりそれは払拭されるであろう。

 まず、外気に接触するとき極端に変敗しやすい性質をもつ種々な液、すなわちビール酵母浸出液、糖含有ビール酵母水、尿、甜菜汁、胡椒水の中から一つを選んでガラス製フラスコの中に入れ、フラスコの頸(くび)を火焔で引き伸ばして第二十五図に示したような種々の彎曲(わんきょく) をこれに与える。

次に液を数分間煮沸し、引き伸ばされた頸の開放されたままになっている端から水蒸気が盛んに噴出するまでこれを続ける。そのほか、特に注意すべき点はない。そして、フラスコを冷却せしめる。すると、このフラスコの液は変敗することなくいつまでも原状に留まっているのである。これは不思議なことであり、いわゆる自然発生に関する微妙な実験に慣れて来た人たち全体を驚かせるに十分である。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


図の一番上のフラスコの先っちょがS字状に曲がってるやろ。

これが「白鳥の首フラスコ」と呼ばれて有名なんや。

なんでパスツール(1822~1895)がこれを作らんとあかんかったんかは、ふか―いわけがあんねん。


当時、科学者の中にも、生き物は親なしでも生まれる、てゆう自然発生説があったんやな。

さすがにカエルとか虫とかはそんなことはないとわかってたんやけど、

微生物はそう思われてたんや。


パスツールはそんなわけないやろ思て、これを証明しようとしたんや。

微生物がわくのは、親となる粒子が何かにくっついてたり、

空気中の塵の中におるからやと。


たとえば牛乳を入れたフラスコをそのまま置いといたら、微生物がわいて腐ってしまうわなあ。

そやから牛乳を入れたフラスコを煮沸した後、微生物が入らんようにその口を閉じてしまうねん。

これは一週間経っても腐らへんかった。


ところが、自然発生説の人から「そんなことしたら中にあるんは生気のない空気やから微生物も生まれへん」って言われてしもた。

それで、パスツールは空気は入れるけど空気中の塵は入らんようにしたかったんや。

白鳥の首フラスコは、S字状になってるから塵は途中で落ちてしもて管の上のほうには上がられへんねん。

このフラスコで実験したら牛乳は腐らへんかってん。

うまいことできたなあ。


パスツールのぎょうさんの実験のおかげで、牛乳が腐らんように保存する方法も見つけられた。

「パスチャライズ」という言葉は、パスツールから来てるんやて。


これでもう自然発生説は消えてしまうんかなあと思うけど、

生命の起源を考えるとき、自然には生命は生まれへんねんやと思たら不思議な気するわ。


2022年5月1日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第三十二回

『ノー モア ウォー』 P156

ライナス・ポーリング/著

丹羽小弥太/訳

講談社 1959年


P156

 その後一九五七年五月に私はセント・ルイス市のワシントン大学で講演した。(13行略) 私はつぎのようにつづけた。「私は人道主義者である。私は事業のために一人の人間もぎせいにしてはならないと信じている。とくに私は数億の人間を殺し、われわれの住むこの美しい世界を破壊する核兵器を完成する事業のためにただ一人の人間も犠牲にしてはならないと信じている」 私は一七八〇年にベンジャミン・フランクリンが科学者のジョセフ・プリーストリーにあてた手紙からつぎのような一節を引用して講演を終えた。「真の科学の急速な発展をみるとき私はときどき早く生れ過ぎたことを後悔する。千年後に物質に対する人間の力がどのような高さにまで高められるか想像することは不可能だ。道徳の科学が同じように進歩の大道を進むことができ、人がお互同士狼であることをやめ、人間がついには現在不適当にも人間性と呼んでいるものをほんとうに理解することができますように!」

 この講演が終ったときの喝采、出席していたワシントン大学の千余の学生、教授たちの一部から受けたなにか自分たちでできることはないかという質問、これが私にアメリカの科学者が署名できるようなアピールを準備するという構想を進める決意を固めさせた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


戦争はいやや。

ポーリング(1901~1994)もそうゆうてるし、こんな題の本も書いてる。


ポーリングはこの講演後に、原子爆弾の実験の停止を求める声明を書いて署名を集めはった。

すぐにアメリカの科学者達からの署名が届き、数か月後には、世界の1万人を超える科学者からの署名が集まったんやて。

そのうち日本の科学者は1161人や。

被爆国やから関心は高かったはずや。

これを集めたんは、ポーリングから頼まれたある日本の科学者やと思うねんけど誰やったんやろな。

とにかく、このたくさんの署名はポーリングがまとめて国連に提出しはった。


忘れてた。

先にポーリングの説明しとかなあかんかった。

1954年に化学結合や分子構造の研究でノーベル化学賞もろてはるで。

「おもしろ科学史エピソード」の第一回で紹介したクリックがDNAの構造を論文で書いてた頃、ポーリングも同じ謎を解こうとしてたんや。


ほんでクリックらがノーベル賞をもろた1962年に、なんとポーリングは2個目のノーベル賞をもろてはんねん。

こんどは平和賞やった。

上に書いた署名のことがひとつの理由やと思うけど戦争中から平和主義を通してたんや。

第二次世界大戦の後、アメリカとソ連は争って核実験をやってたんや。

しかも広島や長崎で使うた爆弾より千倍も強力な水爆の実験や。

そのせいで地球に降り注がれた放射性元素、ストロンチウム90や炭素14の影響がどんなもんになってしもたんか、この本が教えてくれる。


フランクリンとプリーストリーの関係も気になるねんけど、

科学者が戦争とどうかかわってきたのかようわかる本やと思うわ。


2022年4月17日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第三十一回

『パスカル全集 第一巻』 P526

ブレーズ・パスカル/著

松浪信三郎、安井源治/訳

人文書院 1959年


P526

 或る意見があらゆる時代を通じて全般的にあらゆる人々から受けいれられてきたという理由で、この意見を疑わしいと思うことを敢てしない人々には、おそらく次の実例が眼を開かせてくれるであろう。というのも、唯の職人風情ですら、世に哲学者と称せられる偉い先生がたの誤謬を、立派に証拠立てることができたからである。なぜなら、ガリレイはその『対話』の中で言明しているように、ポンプが一定の高さまでしか水を引き上げえないことを、イタリーの井戸職人に教えられたからである。その後ガリレイは自分でそれをためしてみた。イタリーでは、ついで他の人々がそれを試みた。その後、フランスでは、便宜上、水銀を用いて試みてきたけれども、種々の仕方で同じことが示されたにすぎなかった。

 このことが知られないまえには、水をポンプに上昇させる原因が空気の重さにあるということ、そして、この重さには限度があるから、無限の現象を呈させることはできないということを、証明するよしもなかったのである。

 けれども、すべてこれまでの実験では、空気がかかる現象の原因であることを示すには、まだ十分ではなかった。というのも、それらの実験はわれわれを一つの誤謬からは脱却させたものの、なお依然としていま一つの誤謬のうちに残しておいたからである。思うに、それらすべての実験によって、水が一定の高さまでしか上昇しないということはわかったけれども、低い所へ行けば行くほど一そう高く水が上昇するということはわからなかったからである。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


最初に水銀を使うて「真空」を作って見せてくれたんは、ガリレイの弟子やったトリチェリやで。

世の中の人は「自然は真空を嫌う」ゆう理由で、なかなか納得でけへんかってん。

この実験の話を聞いたパスカル(1623~1662)は、おんなじようにやってみてな、

ほんでもっとええことを思いついたんや。

この実験を高い山の上でやってみたいって。

けど、パスカルがおったとこには高い山がなかってん。

しゃーないから姉ちゃんの夫のペリエに頼んで、1000mくらいの山に登ってやってもろてん。


水銀は重いから運ぶのが大変やったやろなあ。

そしたら水銀の高さは測る場所によってちょっとずつ違ってたんや。

これで気圧が測れるやんってことになったんやな。

パスカルの名前が気圧の単位に使われるのは納得ですわ。


この『全集』には、デカルトが訪ねてきた話とか、

フェルマ(フェルマーの定理で有名な数学者)からの手紙とか、

ホイヘンス(光は波やでとゆうた有名な物理学者)への手紙とか載ってて、

テンションめちゃあがる。


気圧の実験をやってくれたペリエからの手紙は、実験の具体的な様子が詳しく書いてあるし、

実験の結果に驚いてる様子までちゃんと書いてあるのがよかったわ。


ペリエは本の冒頭の「パスカルの生涯」の中で

「弟はよく、十八の年から一日として苦痛なしに過ごしたことはないと私どもにいっていた」て書いてる。

それほどパスカルの人生は病気との戦いやったんや。

ある時、あんまり歯が痛くて寝られへんから数学の問題を解いたりしてんねんけど、

他にすることなかったんかな。

39歳で亡くなってて悲しすぎる。


晩年は病気がひどうなりすぎて哲学者になりはった。

そっちに興味がある人は『パンセ』を読んでみたらええと思うわ。

「人間は考える葦である」とゆうたんはパスカルでっせ。


2022年4月2日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第三十回

『レオナルド・ダ・ヴィンチの手記 下』 P32

レオナルド・ダ・ヴィンチ/著

杉浦明平/訳

岩波書店 1958年


P32

 あらゆる運動は自己維持につとめる、換言すれば動かされたあらゆる物体は、彼の中に動かし手の力の印象が保存されるかぎり、いつまでも動く。〔V.U.13r.〕

 ――― 重さが自分の場所にじっと止まっていないのはなぜだろうか。

 ――― それは抵抗物をもたないゆえに止まらないのだ。

 ――― ではどこへ動いて行こうとするのか。

 ――― 地球の中心へ向ってうごく。

 ――― それではなぜ他の線に沿って(動か)ないのか。

 ――― なぜかなら、抵抗物をもたぬ重さは最短径路を通って落下しようとするが、そのもっとも低い場所は地球の中心だから。

 ――― それではなぜその重さというものはそんなにごくたやすく地球の中心を発見することができるのか。

 ――― 何となれば、感覚をもっていないので(自律的運動をもたないので)あらかじめさまざまな方向をさぐって見るわけに行かないからだ。〔Ar.175v.〕


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


「慣性の法則」みたいなん書いてあるやん!

こんとき、「慣性の法則」で有名なガリレオ・ガリレイはまだ生まれてへんねんけどお。

ほんで重力についてもめちゃ考察してはるし。

自分で考えた疑問に自分で答えてはんねん。

なんでこんな疑問がわくねんやろ。

やっぱり観察力やな。

それと好奇心のかたまり。


紹介でけへんかったけど、「太陽は動かない」て書いてあった。

これ、地動説やん。

光についても詳しいで。

ピンホールカメラもちゃんと説明してはるし、眼が光を受け取ると書いてる。

解剖はぎょーさんやってはったみたいやから体には詳しいなあ。

貝の化石が山の上にあるんは洪水のせいとちゃうでって書いてはる。


こんなん紹介してたらきりがないわ。

レオナルドはん、あんたはいったい何物なん?

ただの絵描きさんやなかったんやねえ。


「レオナルド・ダ・ヴィンチ」は、「ヴィンチ村のレオナルド」という意味なんや。

ほんまの名前はレオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ(1452~1519)。


「手記」はあちこちから発見されてて文章の後についてる記号は、それがどこの資料なんか教えてくれるねん。

〔V.U.〕はトリノ王室図書館蔵、〔Ar.〕は大英博物館蔵や。

上巻には人生論、文学や絵のことについて、下巻は科学論や手紙。


なんでか知らんけど、この手記は鏡文字で書かれてたんやって。

読みにくいし書きにくいやん。

なんでわざわざそんなことしたんやろ。

他の人に読まれるんがいややったんかなあ。

悪いけどぎょーさんの人が読んでしもてるで。

それに、今ではめちゃ人気もんになってまっせ!

けど、人気になったんはモナリザのせいで、物事の思索のせいやなかったんが悔しい・・・。

なんで鏡文字やねん!


2022年3月20日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第二十九回

『マッチの化学・日本酒の化学・お茶の健康科学』 (電子書籍)

産みの親と育ての親

池田菊苗/著

日本酒造会社


 世間の人の未だかつて見たこともなく聞いたこともない、全く新規のものを世の中に広めるということは、並大抵の才能と努力によっては成し遂げられないことである。すでに知れ渡っている品物を改良する方法によって製造し、あるいは既知の物に改良を加えて販売するなどということは、普通の製造業者や商人でも出来ることであるが、鈴木三郎助君が味の素を世の中に広めたことなどは、これらとは次元の異なるもので、その功績は真に特筆され、大書されるべきことである。

 そもそも私が味の素を発明した動機は、それまで合成化学の製品としては、視覚に訴える色素、嗅覚に訴える香料はその種類も産額も非常に多いにもかかわらず、味覚に訴える製品としてはサッカリン、ダルシトールなどの甘味料を除いては、ほとんど絶無であることに気付き、この方面で一つの新しい例を示したいと思ったからである。

 またもう一つは、昔から粗食に慣れた日本人には、欧米人に比べて栄養不良の患いが多いので、微力ながらこれを救うのに役立ちたいと思ったからである。当時、私は『東洋学芸雑誌』に掲載された三宅秀博士の講演で、「美味が大いに消化を助ける」ということを読んで、大変に感心した。そこで私は、良好な調味料を発明して粗食を美食に変え、私たち日本人の栄養状態を向上させようと志したのである。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


化学者やった池田菊苗(1864~1936) が産んだんは「味の素」や。

私が子どもの頃には、食卓に必ず置いてあったわ。


味の素は、Lグルタミン酸ナトリウムでできてんねん。

そやからグルタミン酸の発見者とまちがわれることがあるんやけど、

池田が発見したんは「うま味」のほうやった。

これを商品化して、みんながもっとおいしいご飯を食べたら日本人の体格もようなると考えたんや。

この頃から100年以上たった今では、体格もようなりすぎて太りすぎを心配してる人が多いなあ。


ほんで育ての親は鈴木三郎助、味の素株式会社の創業者や。

池田は、産むより育てるほうが大変やとゆうてはる。

そんだけ苦労が多かったちゅうこっちゃ。


味の素を作る最初の工場は逗子にあってんて!

へぇー、知らんかった。

逗子・葉山に昔から住んでる人にとっては有名な話らしい。

理科ハウスの学芸員の山浦は葉山で育った人やから聞いてみたら、

小学校の体育館に鈴木三郎助のでっかい肖像画があったと。

学校にたくさん寄付してくれてはったんやなあ。


池田は、なんとドイツのオストワルドのとこへ行って勉強して来たんやで。

オストワルドは名著『化学の学校』を書いた人や。(おもしろ科学史エピソード第28回を参照してな)

ほんで、その後イギリスに行ったときに、同じく留学してた夏目漱石と仲良しになりはった。

有名人同士でつながってるんがすごいなあ。

話が合うんやろな。


味の素株式会社のホームページに池田菊苗の紹介動画「うま味発見百周年ドキュメンタリーAMBITION」があるで。

15分くらいの短いドラマやねんけど、そこにオストワルドの写真も出てくるでえ。

よかったら見てみて。


ドラマはこちらから見ることができます。

味の素グループ 社史・沿革


2022年3月13日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第二十八回

『化学の学校 中』 P245

オストワルド/著

都築洋次郎/訳

岩波書店 1958年発行


P245

(先生) 西暦一六七〇年の頃一人の錬金術師がいました。名をブラントといい不徳の商人であった。彼は考えた。自然の中で最も貴いものは人間である、だから何物からか金が作れるとすれば人間の体から出たものから作れるにちがいないと。そこで彼は人間の流動排泄物をとり、それを蒸発させ残留物を陶器製のレトルトに入れ強烈な火を加えて蒸留した。金は全然得られなかったが彼はリンを得たのであった。

(生徒) いったいどうしてそんなことができたんですか。

(先生) 人間の食物にはリンの酸素化合物が含まれています。

(生徒) それじゃブラントは少しも金をもうけなかったんですね。

(先生) 彼のリンはほとんど金と同価値でした。というのは彼は方々を旅行し金銭をとってリンをみせ、またその少量を非常な高い値で売ったのです。

(生徒) いったいほかにも誰もリンがつくれなかったんですか。誰でもそれに必要なものを持っているのに。

(先生) ブラントは彼がどうしてリンをつくったかを誰にもいわなかった。それは彼が科学者ではなく一個の商人であったからです。ところでそれは永く続かなかった。その製法を他の人々が聞きこんだのです。すなわちドイツではクンケルという学者、英国ではボイル ------

(生徒) ボイルの法則を発見したボイルですか。

(生徒) そうです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


この、おしっこからリンを作った話は有名らしい。

なんでかゆうたら1669年に元素を発見した初めての人として、ヘニッヒ・ブラントは名前が残ったからや。

もちろん、元素のなかでも鉄とか銅とかは前から知られてたけど誰が発見したかなんてわからへん。


ブラントは、ほんまに金ができると思てたんやろか。

おしっこが金色やからな。

出てきたのはリンやったけど、これが光ったときにはほんまにびっくりしたやろなあ。

リンの作り方は秘密にしてたってことやけど、

ものすごい量のおしっこを集めるだけでも大変やのに、

それを煮つめるなんて誰が考えるんや。錬金術師はすごすぎたなあ。


この本の著者、オストワルド(1853~1932) は触媒の研究でノーベル賞をもろてはる物理化学者。

化学反応は触媒を使うたら速なるでぇってなって、

白金を触媒にしてアンモニアから硝酸を作る方法を考えはったんや。


ほんで、単位のモルを使い始めたんもオストワルドやねんて。

理科ハウスの展示で「モル風船」を作ったことがあったなあ。


この『化学の学校』は、なんでもよう知ってる先生と優秀な生徒さんの会話で書かれてる。

会話形式にしたんは、ガリレイの『新科学対話』がええなあと思てたからやて。

先生は元素をひとつひとつ説明して、実験のやり方も教えてくれはるんやけど、

この実験危ないやろと思うのもあったわ。

塩酸と水酸化ナトリウムの水溶液をまぜて蒸発させて塩(塩化ナトリウム)ができる実験は、今の中学校の教科書にも出てくるけど、

おおーってなるわ。


実験がたくさん出てくるから、化学が好きな人にはたまらん本やな。

この本の訳者は都築(つづき)洋次郎、日本の化学者やで。

いつか紹介できたらええなあ。


2022年3月6日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第二十七回

『化学命名法』

報告 1787年4月18日、王立科学アカデミーの公会の席上で読まれた、化学上の命名法を改良、完全化する必要性についての ラボアジェLavoisier 氏による P8

ラボアジェ/著

田中豊助、 原田紀子、牧野文子/訳

内田老鶴圃新社 1976年発行


P8

 化学に使われる表現の一部は、錬金術師たちによって導かれた。彼等にとって、彼等自身も知らない正確で真実のアイデアを伝えるのは、むつかしかったであろう。さらに、彼等の目的は、必ずしも理解されるということではなかった。彼等は、なぞの言葉を使った。なぞの言葉は、彼等に固有のものであり、その道の達人には、しばしばあるきまった意味をもつが、一般大衆には、別の意味をもつのである。したがって、双方にとって、正確さも、明確さももたらされない。このように、この哲学者たち[錬金術師] の油、水銀、水さえも、われわれがその言葉に結び付ける油、水銀、水ではない。武装した男、ホモ・ガレアトウスは、蓋のある蒸留びんのことだった。死人の頭は、蒸留びんの蓋。ペリカンは蒸留容器を表していた。劫罰を受けた土、カプト・モルトゥームは、蒸留残渣を意味していた。

 同じように、化学の言葉を歪曲したもう一方の学者たちは、故意的な化学者たちである。彼等は、事実のアイデアに合致しないものをさえ、事実として数えあげた。彼等はいわば、保存すべきものを変質させたのである。彼等は、推理という道具を身につけ、事実を見失ったのである。だから、科学は、彼等の手の中にあっては、空想によってつくられた建物でしかない。

 今は、化学の進歩の障害となるものを、すべて取り除くべき時期である。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


「武装した男」は、ビンのことやて。

「死人の頭」はその蓋のことやねんて!

なんでこんな名前つけてしもたんや!


もっとあるで。

「ビトリオルの油」は硫酸のことや。

「ビーナスの精」は酢酸や。

鉄の酸化物のことを「火星のサフラン」てゆうてたんや。

こんなん、いやや。

名前、変えたなる気持ちわかるわあ。


ついに、古い名前を全部新しくしよう思て

ラボアジェ、ベルトレ、ド・モルボー、ド・フールクロワの四人で書いたんがこの本や。

本の中身は、辞書のように古い名前と新しい名前がずらずらっと並んでる。


ようやってくれた。

私らが使うてる、炭酸カルシウムとか塩化ナトリウムとか

その物質が何でできてるんか

見ただけですぐわかる名前の付け方の基礎を作ってくれたんがラボアジェやねん。

もちろん当時はまだまだ完璧やなかったけどな。

けど、これはものすごう革命的なことやった。


ラボアジェ(1743~1794)は化学の父と言われてるくらい有名やん。

本業は徴税官やったんやけど、他にもいっぱい人の役にたつ仕事してはったんや。

こんなすごい人やったのに、フランス革命のとき裁判にかけられて、

徴税官やったゆうだけのためにギロチンの刑にされてしもてん。


裁判にかけられたときに、ラボアジェを助けよう思てまわりの人達ががんばったんやけど

「我が共和国には学者は要らない」

とあっさり言われてしもた。

これは悲しすぎる。

学者がいらん国てどんな国やねん!


その一年後、この裁判はまちがいやったことになったんやけど

ラボアジェはもう戻ってけえへん。

どないしてくれんねん!

『ラヴォアジェ傳』を読んだらラボアジェがどんだけかっこええ人か、ようわかるで。


2022年2月27日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第二十六回

『平賀源内集』放屁論後編 P20~23

平賀源内/著

塚本哲三/編

有朋堂 1917年発行


P20~23

 ゑれきてるせゑりていと (エレキテルセエリテイト) といへる、人のからだより火を出し病を治する器を作り出せり。そもそもこの器は西洋の人電(いなづま)の理をもって考へ、一旦工夫は付けけれども、その身の生涯には事成らず、三代を経て成就しけるといへり。阿蘭陀人(おらんだじん)といへども知る者はいたって少く、もとより朝鮮唐天竺の人は夢にも知らず。いわんや日本開びゃく以来はじめて出来たる事なれば、高貴の方々を初めとして、見ん事を願ふ者夥(おびただ)し。或日去る屋敷の儒官 石倉新五左衛門といへる人来りて、観る事やや久うしていわく、天地人の三才に通達するを儒といふ。我天下の書に眼をさらし、理を以て推す時は森羅万象 明かならざる事有るべからずと思ひしが、今是を見て始めて驚く。

  (中略)

 いかなる理にて火出づるや、後学のため承らんと。其時主人うちうなづき、書を読む計を学問と思ひ、紙上の空論を以て格物窮理と思ふより間違いもできるなり。さらば火の出る根元をお目にかけんと、取出す小冊に、昔語花咲男放屁論と題号せり。

  (中略) 

 拙者屁の講釈を聞きには参らず、かのゑれきてるより火の出る道理を聞かんとこそ望みしに、もってのほかの屁あしらひ。さては我らを屁のごとく思ひ給ふやと、真黒になって立腹す。そのとき銭内(ぜにない)ことばをやわらげ、ゑれきてるより火の出る道理を、聞かんとお尋ねあれども、一天四海ひっくるめての大論にて、一朝一夕に論じがたし。よく近く譬(たとえ)を取って教えんため、さてこそ屁論に及びたり。


(読みやすくするために一部の漢字をひらがなにしました)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


エレキテルのほんまの名前は「エレキテルセエリテイト」やったんや。

ほんでこれは、病気を治療するための道具やってんな。

今でゆうたら摩擦起電器のことやで。


上の文中の主人公は、貧家銭内(ひんかぜにない)とゆう名前やけど、

もちろん源内のことや。

エレキテルをまねして作れても、なんで火(放電)が出るのか説明でけへんかってん。

それがなんで放屁論につながるのかわかりにくいと思うから、簡単に説明するわな。


当時、両国橋に自由自在に屁を出すことができる大道芸人がおって、

えらい評判になったんやて(江戸時代ってすごいなあ)。

源内は友だちといっしょに見に行って議論になったらしい。

友だちが言うには、

あんなものでお金を取るのはけしからん、しかけがあるのかどうかもわからんと。


ところが、人々の工夫のなさに嫌気がさしていた源内の意見は全く違うてたんや。

放屁男にも工夫があるとほめたんや。

エレキテルかて、火が出る理由がわからんかっても意味があんねん、

と言いたかったんやろな。


うちのじーちゃん(石原純)が書いた『偉い科学者』の中に平賀源内のお話があるんや。

そのころは電池なんか無かったし、

クーロンが電気の法則を見つけ出したんが1785年やから

平賀源内によってエレキテルが1776年に作られたんは際立ってる、と書いてるで。


「エレキテル」は現在、東京都墨田区にある郵政博物館と香川県さぬき市にある平賀源内記念館にあるらしいから、見に行ってみたいなあ。


(石原純著『偉い科学者』の「平賀源内」は青空文庫で読むことができます)


2022年2月20日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第二十五回

『方法序説』 P80

ルネ・デカルト/著

谷川多佳子/訳

岩波文庫 1997年発行


P80

 さて、今から三年前、わたしはこれらすべてを内容とする論文(『世界論』)を書きあげて、印刷業者の手に渡すために見直しを始めていたのだが、そのとき次の知らせに接した。わたしが敬服する方々、しかも、わたし自身の理性がわたしの思想に及ぼす権威に劣らぬほどの権威をわたしの行動に及ぼす方々が、ある人によって少し前に発表された自然学の一意見を否認した。というのである。わたし自身同じ意見だったと言うつもりはないが、しかし次のことは言っておきたい。その方々の検閲が出るまでは、宗教にたいしても国家にたいしても有害だと想像されそうな点、したがって、もし仮に理性によってわたしが納得したならば、それを書くのを妨げるような点を、少しもその意見のなかに認めなかった、と。そして、きわめて確かな論証をもたないかぎりけっして新しい意見を信用しないように、また、人の不利益になりそうな意見はけっして書かないように、わたしはつねに細心の注意をはらってきたのだが、このような事件があると、それでもやはり自分の意見のなかに何か思いちがいがありはしなかったと心配になった、と。自分の意見を公表しようとしていたわたしの決意をひるがえさせるには、これだけで十分だった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


デカルト! びびってるやん!

なんか遠回しに書いてはるけど、ようは自分の本を出版するのがこわなってんな。

なんでかゆうたら

ガリレイのせいやねん。


1633年にガリレイは宗教裁判で有罪になってしまいはってん。

ガリレイは自分の書いた本、『天文対話』の中でコペルニクスの地動説は正しいでぇ、って書いたんや。

そしたらローマ法王庁の裁判所が、

それは、こういう説もあります、やったらええねんけど、

正しいってゆうたらあかん、ってなって、

ガリレイは監禁されてしもうたんや。


デカルトは自分も裁判になったらやばいと思て、

『世界論』を出版するのをやめたんや。

結局この本はデカルトが死んでから出版されたみたいやで。

科学の世界で、自分が正しいと考えたことを発表でけへんようになったらえらいこっちゃ。


デカルト、ゆうたら

「ワレ惟(おも)ウ、故ニワレ在リ」

で有名な哲学者やなあ。

『方法序説』は、ほんまは『理性を正しく導き、学問において真理を探究するための方法の話〔序説〕。

加えて、その方法の試みである屈折光学、気象学、幾何学』ていう長い名前の本の序文やねんで。

序文だけが、この名言のおかげで有名になってしもてるなあ。

本文は科学の分野や。

デカルトは哲学者と言われてるけど、

当時は哲学と科学に境目はなかったんや。


『幾何学』は、わかりにくかったから斜め読みしてみた。

今やったら当たり前に使うてるルールを説明してるから、よけい難しいねん。

これが科学史の難しいとこやな。

当時、何がわかってて何がわからへんかったんかを知ってんとあかん。

とにかく、未知数のxとかyとか、xy座標みたいなもんを使い始めたんはデカルトや。

わたしら、めちゃデカルトにお世話になってんねんなあ、

とゆうことですわ。


2022年2月13日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第二十四回

『数学する人生』 私の歩んだ道 P68

岡潔(おかきよし)/著

森田真生/編

新潮社 2019年発行


P27

 こういうわけで一年物理をやってみたのですが、どうしても数学がやりたくなる。これはさきにもいったようにそういう種をまいておいたのが一番大きな理由だろうと思います。それに数学を選ばないで物理を選びましたのは、まだしも物理でオリジナルな仕事をするほうがやりやすかろうと思ったので、数学でそういうことのできる自信はさらになかったのです。ところが、三学期に安田先生という講師をしておられた非常によくできるかたがあって、その先生の試験問題の一題がひどくオリジナリティの要る問題でして、それを解きましたあと、ちょっと私の解け方が、ポアンカレーが数学上の発見はこんなふうにしてできたものだ、と詳しく説明しているのですが、そういう形式でできたのです。それだけでなく、ポアンカレーはそのことは書いていないのですが、するどい喜びがまるで物質が体内に残るように、長くその日の暮れ方まで残っていました。

 私は、だから次に試験がひかえているのですが、ほかのものをやれないものですから、円山公園に行って、ベンチに寝そべって、まだ芽の出ていない木の枝をながめながら夕方までそうしていました。それはまるで砂糖分が体内に残るような喜びでした。そのことについて、私は「発見のするどい喜び」と呼んでいるのですがこのことばは、寺田(寅彦)先生から借りたのです。チョウ類の採集のとき、チョウがとまっているのをみると、それを感ずる、といっておられるのですが、これはほんとうなんです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


紹介した上の文は、NHKで放送された「私の自叙伝」を書き起こしたもんらしい。

そやから、ちょっとわかりにくい文章や。

岡は大学生のころのエピソードを語ってんねん。

自分は、あの有名な数学者であるポアンカレが太鼓判を押してくれるような解き方ができたんや!

これはうれしいで。

うれしすぎて、その後なんもでけへんようになってしもてるやん。

喜びが身体に突き刺さってはんねん。

ほんで、「するどい喜び」となるわけや。

こんな体験、なかなかでけへん。

岡はこの体験があったから数学に行くことを決めたんやて。

この話は『春宵十話』の「数学への踏み切り」にも書いてある。

岡の人生が決まる大事な場面や。


岡潔(1901~1978)は、伝説の数学者。

多変数複素関数論で未解決やった問題を一人で三つも解いてしもたんや。

多変数複素関数論は、一変数複素関数論(これを少し学ぶと下に描いてあるオイラーの等式を証明できます)をもっと難しくしたやつや。

岡は問題を解くために、「上空移行の原理」てゆうのを考え出したらしい。

次元をあげることらしいけど、ようわからん。

名前だけかっこええなあと思てまう。


中身がわかって、岡がかっこええなあと思えたら、どんなにええかと思うけど、そういう日はくるんやろか。

私にそういう日がけえへんかっても、未来人にはそういう日がくるんや。

今よりも簡単に理解できるようになる日が!

岡は、数学の客観的評価は死んでから50年くらいかかる、とゆうてはる。

そやから岡はこれからもっと有名になりはんねん、と思うわ。


最後に、岡潔をわかるためのキーワードを並べてみますわ。


すみれ

情緒

道元

芭蕉

鋭い喜び


本を読んだらみんなつながりまっせ。


オイラーの等式

(eは自然対数の底)


2022年2月6日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第二十三回

『寺田寅彦随筆集 第一巻』 花物語 P27

寺田寅彦/著

小宮豊隆/編

岩波書店 1947年発行


P27

 まだ小学校に通ったころ、昆虫を集める事が友だち仲間ではやった。自分も母にねだって蚊帳(かや)の破れたので捕虫網を作ってもらって、土用の日盛りにも恐れず、これを肩にかけて毎日のように虫捕りに出かけた。蝶(ちょう)蛾(が)や甲虫(かぶとむし)類のいちばんたくさんに棲(す)んでいる城山の中をあちこちと長い日を暮らした。二の丸三の丸の草原には珍しい蝶やばったがおびただしい。少し茂みに入ると樹木の幹にさまざまの甲虫が見つかる。玉虫、こがね虫、米つき虫の種類がかずかずいた。強い草木の香にむせながら、胸をおどらせながらこんな虫をねらって歩いた。捕って来た虫は熱湯や樟脳(しょうのう)で殺して菓子折りの標本箱へきれいに並べた。そうしてこの箱の数の増すのが楽しみであった。虫捕りから帰って来ると、からだは汗を浴びたようになり、顔は火のようであった。どうしてあんなに虫好きであったろうと母が今でも昔話の一つに数える。年を経ておもしろい事にも出会うたが、あのころ珍しい虫を見つけて捕えた時のような鋭い喜びはまれである。今でも城山の奥の茂みに蒸された朽ち木の香を思い出す事ができるのである。

 (続きは青空文庫で読むことができます) 


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


前回に書いた南方熊楠の虎の話に続いて、今回は1878年、寅年の寅の日生まれの寺田寅彦の登場や。

物理学者で俳人、随筆家としてもめちゃ有名やん、

と思てたんやけど、

理科ハウスに来る若者に聞いたらほとんどが知らんてゆうねん。

私らの世代が寺田寅彦を知ってるんは、国語の教科書で出会うてるからなんや。

今の教科書には載ってへんねんな。

寺田の文章はもはや古典に近づいてるんかもしれん。


うちのじーちゃんと寺田は手紙のやりとりをする間柄やった。

2009年に理科ハウスで「石原純展」をやったとき、展示資料の中で寺田の手紙を紹介したんや。

そんとき、寅彦のお孫さんたちが見に来てくれはってん。

なんと、そのうちのお一人は逗子に住んではると!

これにはびっくりしてしもたわ。


紹介した文は、特にすごいエピソードとゆうわけやないけど、

この続きがええで。

自分が見つけた立派なカブトムシを、通りがかりの小さな子どもにあげてしまう、

てな話やねんけど、

寅彦、優しすぎるやろ。

悲しさをにじませるその書き方がうまいねん。

かの夏目漱石の弟子やったんも、うなづけますわ。

寺田の随筆は科学物ばっかし読んでたから、こういうのは知らんかった。

この本にある『どんぐり』は泣けるで。

詳しゅう紹介でけへんですんまへん。


なんか、寺田の随筆には死が多い気がするで。

ついでに虫も多い。

死も虫も今よりもっとぎょーさんあったんやなあ。

実は、私が上の文を紹介したかったんは、わけがあんねん。

それは、文中に「鋭い喜び」という表現があるやろ。

「喜び」に「鋭い」はあんまり使わへんよねえ。

そやのに、この表現がめちゃくちゃ気に入ってしもた人がいてんねん。

次回はその人を紹介しまっせ。

楽しみにしといてな。


2022年1月30日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第二十二回

『十二支考』 虎に関する史話と伝説民俗 P7

南方熊楠(みなかたくまぐす)/著

岩波文庫 1994年発行


P7

 虎梵名ヴィヤグラ、今のインド語でバグ、南インドのタミル語でピリ、ジャワ名マチャム、マレー名リマウ、アラブ名ニムル、英語でタイガー、その他欧州諸国大抵これに似おり、いずれもギリシアやラテンのチグリスに基づく。そのチグリスなる名は古ペルシア語のチグリ(箭(や))より出で、虎のはやく走るを箭の飛ぶに比べたるに因るならんという。わが国でも古来虎を実際見ずに千里を走ると信じ、戯曲に清正のすばやさを賞して千里一跳(ひとはね)虎之助などとしゃれている。プリニの『博物誌』によれば生きた虎をローマ人が初めて見たのはアウグスッス帝の代だった。それより前に欧州人が実物を見る事極めてまれだったから、虎が餌をとるため跳るはやさをペルシアで箭の飛ぶに比べたのを聞き違えてかプリニの第八巻二十五章にこんなことを述べている。いわく「ヒルカニアとインドにトラありはやく走る事驚くべし。子を多く産むその子ことごとく取り去られとき最もはやく走る。例えば猟夫ひまに乗じその子供を取りて馬を替えて極力馳せ去るも、父虎もとより一向子の世話を焼かず。母虎巣に帰って変を覚ると直ちに臭をかいで跡を尋ね箭のごとく走り追う。その声近くなるとき猟夫虎の子一つを落す。母これをくわえて巣にはしり帰りその子をおきてまた猟夫を追う。また子一つを落すを拾い巣に伴い帰りてまた拾いにはしる。かかる間に猟師余すところの虎の子供を全うして船に乗る。母虎浜に立ちて望み見ていたずらに惆恨(ちゅうこん)す」と。

 (読みやすくするために一部漢字をひらがなに変えました) 


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


今年は寅年やからこの本を紹介しときますわ。

南方熊楠(1867~1941)は博物学者やし民俗学者やし、粘菌の研究でも有名やなあ。


『十二支考』が虎から始まってるんは、今から108年前の1914年に南方が『太陽』という雑誌にこの連載を書きはじめたからやねん。

その年が寅年やった。

この本の上巻には、虎、兎、竜、蛇、馬、ほんで下巻には、羊、猿、鶏、犬、猪、鼠が書いてあります。

なんでか知らんけど、丑(牛)だけないねん。

十二支やから毎年読んだらええなあ。


とにかく虎にまつわる話をあらゆる本から引っ張り出して紹介してあんねん。

そのジャンルがすごいで。

『源氏物語』『今昔物語集』みたいな日本の本もあるねんけど、

『南米諸州誌』、

『波斯(ペルシャ)スシャナおよび巴比崙(バビロン)初探検記』みたいな外国の本とか、

『菩薩投身餓虎起塔因縁経』みたいな仏教の本まであるで。

聞いたこともない本の名前がずらずらっと100個以上も出てくるねん。

なんやこれ。南方は全部読んだんやろか、すごすぎひん?


上の文中に出てくる「プリニ」ってゆうんは、古代ローマのプリニウスのことやで。

省略したらわからんやろ。

なんぼ有名でもニュートンのことをニューってゆうたらわからんやん。


虎の語源が矢(チグリ)からtigris (チグリス)、

ほんでtiger(虎)になるんはおもしろいなあ。


どこまでもとことん調べるんが南方流や。

虎がテーマやのに狼がいきなり出てきたり、

一見ぐちゃぐちゃに見えるけど、南方の頭の中ではちゃんと筋が通っているらしいで。

これを理解できるようになるんは相当な賢者でないとあきまへんわなあ。

(『十二支考』は青空文庫で読むことができます)


2022年1月23日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第二十一回

『やれば、できる。』 P123

小柴昌俊/著

新潮社 2003年発行


P123

 試作品の光電子増倍管ですら、晝馬(ひるま)社長の会心の笑みが浮かんでくるような素晴らしい出来栄えでした。

 おそらく完成品ならば、電子を千倍以上に強め、たとえば月面上にある懐中電灯の光までとらえるほどの高性能になることが予想できました。さすがは世界に名だたる浜松ホトニクスの技術力です。

 ただ、これが、一個三十万円。

 出来栄えからすれば決して高い値段ではなかったのですが、なにしろぼくらは国民の税金を使わせてもらって実験するわけだから、どんなにこちらが無理を言って頼んだこととはいえ、メーカーの言い値に首肯(しゅこう)することはできません。これは、常日頃から学生に言い続けている、ぼくのポリシーでもあるんです。

 だから、値切りに値切りました。

 「うちの優秀な部下二人を助っ人に送り込んだんだから、開発費は相殺して欲しい。それで原価計算をしてみたんだが、ひとつ十二万くらいで上がるはずだ。申し訳ないが、それでなんとかしてほしい」

 晝馬社長は真ん丸の目をぎょっとさせ、絶句してしまいました。

 結局、一個につき十三万円くらい払ったと記憶しています。なんでもその時、晝馬社長は心の中で、「もってけ、ドロボー!」と叫んだそうですが。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


やるなあ、小柴先生(会うたことあるんで敬称つけるで)。

30万円を13万円に値切ったんや!

半額以下やて、関西人もびっくりやん。


これを1000個使って作ったのが、2002年に小柴先生がノーベル賞をもらうことになったカミオカンデや。

光電子増倍管はレフ電球をでっかくしたみたいな形してて、光をキャッチしてくれるんや。

なんの光かゆうたら、たとえば、外からやってきたニュートリノが、水の中で電子や原子核にぶつかったときに、ぶつかったもんから出る光や。

ニュートリノが光るんとはちゃうねんで。

ニュートリノを直接捕まえるのは難しいけど、光が出たことで見つけられるというわけやな。

カミオカンデの話を書いたら長なるから、もっと知りたい人は『ニュートリノ天体物理学入門』を読んでみて。


理科ハウスは、小柴先生が理事長やった財団法人平成基礎科学財団から小柴昌俊科学教育賞優秀賞をもろてん。

うれしかったでぇ。

2014年のことや。

そのときにサインをもらいに行ったんやけど、色紙に書いてくれはった言葉が「やれば、できる」やった。

いつもこの言葉を大事にしてはってんなあ。

きっと自分の体験からくる言葉なんや。


この本には、その気合で乗り越えてきた人生ドラマが書いてあんねん。

どんだけ前向きやねん、

と思うけど、

ほんまに「やってみたら、できた」になってるからすごいなあ。


小柴先生は「ぼくが本当に幸運だと思ったのは、素晴らしい人たちに巡り会えたこと」やとゆうてはる。

浜ホトの晝馬社長はその中の一人やったに違いないわ。

残念やけど2018年に亡くなりはった。

小柴先生も2020年に亡くなりはったけど、むこうできっとおしゃべりしてはるんやろなあ。


2022年1月16日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第二十回

『蘭学事始』 P35

杉田玄白/著

片桐一男/全訳注

講談社 2000年発行


P35

 たしか三月三日の夜のことと覚えている。当時の町奉行曲渕甲斐守(まがりぶちかいのかみ)殿の家来で、得能万兵衛(とくのうまんべえ)という人から手紙で知らせてよこしたことには、

 「明日、おかかえ医師の何某というものが千住の骨が原(現在の東京都荒川区南千住五丁目のあたり) で腑分けをするということである。もしご希望であったならば、そちらへおでかけください」 という文面であった。

 かねて、同僚の小杉玄適というものが、以前、京都の山脇東洋先生の門人となって京都にいたとき、先生の企画で腑分けの観察が行われたことがあった際に、この玄適もお供をして行き、親しく観察したところ、古人の説明したことはみなうそで信じられないことばかりであった。大昔は九臓といっていたが、いまはそれを五臓六腑に分類しているのは、後の人の杜撰な誤りである、などという話もあった。そのとき、東洋先生は『蔵志』という著書を出版された。

 わたしは、その著書も見ていたことでもあるので、よい機会があったならば、自分も親しく観察してみたいと思っていたのである。ちょうど、こんなときに、オランダの解剖の書物をはじめて入手したことでもあるので、実物と照らし合わせてみて、どちらが正しいか試してみようと喜び、このうえもなく絶好の機会が到来したものだと、もう骨が原へ出かけてゆくことで、わたしの心はおどりあがらんばかりであった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


「腑分け」は解剖のことやで。

医師の杉田は、解剖したら身体の本当のことがわかると思うてうれしかったんやろな。

友達もさそって出かけたんや。

ほんで、解剖を見てめちゃ感動してしもたんや。


文中に「オランダの解剖の書物」ってゆうのが出てくるやろ、

これが『ターヘル・アナトミア』や。

感動した理由は、ここに書いてあることとおんなじやったからやねん。

杉田玄白は、これの日本語訳を作りたいて思うたんやなあ。

解剖を見た次の日からもう友達を集めて翻訳にとりかかってるで。


そやけど言い出しっぺの杉田はオランダ語をよう知らんかってん。

医学書やから専門用語が多いし、これは難しかった。

オランダ語の辞書もないような時代やったから、そら苦労したみたいやな。

翻訳するのに3年半もかかってんて。

ようやくできたんが、かの有名な『解体新書』(1774年出版)やねん。


この本はお医者さんには役にたったに違いないけど、それだけで終わりやなかってん。

この本がきっかけで、オランダの本が役に立つことがわかって、蘭学そのものが盛んになったんや。

杉田玄白、がんばったかいがあったなあ。


『蘭学事始』(1815年)は、そのいきさつを杉田が晩年になってから書いたもんやで。

ようするに『解体新書』のメイキングと蘭学仲間の紹介やな。

写真の本には原文もついてるからそっちで読んでもええけどちょっと読みにくいかも。

訳がついててありがたいなあ。

70ページくらいの短い文章やからさらさらっと読めますわ。

文章の最後に杉田が、戦乱の世ではこんなことはでけへんかったやろけど、天下太平のおかげでできた、って書いてるのがめちゃええなあと思いましたわ。


2022年1月9日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第十九回

『新版 本多静六自伝 体験八十五年』 P231

本多静六/著

実業之日本社 2016年発行


P231

 しかし、再三いうことであるが、渋沢の偉い点はあくまでも合理的な公利公益主義で、いかによさそうな話でも、理屈に合わなければ取り上げようともしないし、またいかに有利有望な事業でも、独り占めにしてウマウマやろうという考えは絶対になかった。どんな計画でもできるだけ念には念を入れ、多くの人にはかってその利益を均霑(きんてん)させるようにした。そうして、いったん自分がそれに名をつらねて責任をもったとなると、どこまでもその面倒をみつづけたのである。しかも、会社創立の場合など、有利有望とみられるあまり、渋沢さんの特株分まで他にうばい去られても、

 「みんなで儲かればそれでいい」

と笑っていたし、また先の見込みがあやしくなって、予定以上の残株を引き受けなければならなくなっても、一向平気で黙って済ましていた。これなぞは、やはり渋沢の大物を物語る話で、私は毎々ながらいたく感服させられたものだ。

(10行略)

 いずれにしても、渋沢という人は、他者の話をよくきいた。そしてよく検討した。そしてよく実行した。私などのような一学究の言でも、それがもし実業上の何かの参考になると思えば、いつも熱心に親身になって耳をかたむけてくれた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


これは、NHKの大河ドラマ「青天を衝け」の主人公、渋沢栄一の話やで。

この本には渋沢の他にも後藤新平とか政治家も登場すんねん。

なんでかゆうたら、

鉄道事業とか都市計画に本多静六は大いにかかわってたからやねん。

本多静六(1866~1952) は林業博士で、「日本の公園の父」として有名や。

日比谷公園、明治神宮とかぎょーさんの公園を設計しはってん。

それから、雪の多い東北で鉄道を走らせるってなったとき、防雪林の必要性を進言しはってん。

渋沢はその鉄道の会社(国鉄)の重役さんやった。

林業ってゆうんはみんなにかかわることやし、先の先まで考えとかなあかん。

100年先まで考えられるてすごいことやなあ。

渋沢も豪快やけど、本多もそれに負けず劣らず豪快やでー。

明治の人らはなんでかパワフルすぎるやろ。


本多静六はめちゃぎょーさん本を書いてるねんけど、その中に『私の財産告白』ていうベストセラーがあんねん。

本多は貧乏やったとき、収入の四分の一を貯金してお金を貯めて、

ほんでそのあとお金持ちになりはってんけど、

貯めた莫大なお金を全部寄付してしまうねん。


実はこの本との出会いが理科ハウスを作るきっかけになったんやで。

私が夫から思いがけないお金を相続したときに、このお金をどないしたらええねんやろと悩んでしもてん。

相談する相手もおらんかったから本屋に行ったけど「こうやったら貯められる」みたいな本が多くて

「貯めたお金はこうやって使う」が書いてある本が見つからへん。

そのときに本多静六のこの本をたまたま見つけて読んだらびっくりしてしもた。


背中を押された気がしてん。

そやから本多は私にとっては特別な人や。

理科ハウスがあんのも本多のおかげでっせ。


2021年12月26日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第十八回

『星界の報告』 P42

ガリレオ・ガリレイ/著

山田慶児、谷泰/訳

岩波文庫 1976年発行


P42

 一六一〇年、つまり、今年の一月七日の翌夜の一時に、筒眼鏡で天体観測中、わたしはたまたま木星をとらえた。わたしはたいへんすぐれた筒眼鏡を用意していたから、木星が従えている、小さいけれどもきわめて明るい三つの小さな星をみつけた(それまでは、ほかの劣った筒眼鏡を使っていたので、発見できなかったのである)。当初、わたしは恒星だと信じていたが、黄道に平行な直線にそって並んでおり、等級もほかの恒星より明るいという事実に、かるい驚きを覚えた。木星にたいするそれらの星の配置は、つぎのとおりである。


 E   ★      ★  O    ★     W


 東には星が二つ、西には一つあった。いちばん東と西との星は、もう一つの星より大きくみえた。木星との距離については、気にとめていなかった。いま述べたように、恒星と考えていたからである。ところが、いかなる運命の導きによってか、翌八日にもおなじ観測にたちもどって、その配置がまったく変わっているのを発見した。次図に示したように、三つの小さな星はみな木星の西にあり、まえの晩より相互に接近していて、いずれも等間隔であった。


 E          O  ★  ★  ★     W


(星の配置図は原文のママではありません)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


この本はガリレイが月、天ノ川、星雲、木星、太陽の黒点を望遠鏡で観察したときの記録を書いたもんやで。

上の部分は木星の衛星発見の最初のとこや。

このとき見つかった4つの衛星イオ、エウロパ、ガニメデ、カリストは、ガリレイが見つけたから、今では「ガリレオ衛星」て呼ばれてんねん。

望遠鏡で見たことがある人は知ってると思うけど、木星の大きさに比べたらめっちゃちっさいねん。

あるで、て言われへんかったらわからんくらいや。

ガリレイは望遠鏡がよかったから見えたと書いてるけど、見つけたんはえらすぎる。

初めはわからんから恒星かと思た、て書いてあるな。

そりゃそーやな、誰かてそう思うわ。

たまたま木星と並んでるなーと不思議やったやろな。

次の日に見たらまた並んでて、しかも並び方が一直線やておかしいやん。

ほんで、木星といっしょに動いてるでーて気づいたんや。

星の並び方が日毎に違うのんも驚きでしかないわ。

こりゃー大発見やで。

うれしかったやろなあ。


記録は1月7日から3月2日までが書いてある(本には書いてないけどもっと続けてたみたいや)。

曇りや雨の日以外は毎日欠かさず観察してるんや。

まあ、木星の観察はええけど、太陽の黒点を毎日観察するんは、今は絶対やったらあかんやつや。

太陽の光のせいで眼が壊れんねん。

ガリレイは晩年、眼が見えんようになったらしいけど、これが原因なんかな。


月の観察もすごすぎてびっくりや。

クレーター(ガリレイは山とゆうてる)の影を観察して、それからちゃんと高さを計算して「月の山が地球の山より高い」とゆうてはる。


こういう観察力と考える力が、かの『天文対話』につながっていくんやな。

ガリレイのすごさはほんまに半端ないですわ!


2021年12月19日

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第十七回

『新天文学』 P167

ヨハネス・ケプラー/著

岸本良彦/訳

工作舎 2013年発行


P167

 こうしてその時から、観測結果を入手したいと真剣に考えはじめた。そして私の小著に関する意見を求めて1597年にティコ・ブラーエに手紙を書いた。返書をくれた彼が自身の観測にも言及していたので、私は彼の観測結果を見たいと渇望した。それ以来、私の運命の重要な一部ともなったティコ・ブラーエ自身も、自分のもとに来るようにと絶えず私をせき立てたのである。あまりにも遠隔地なので躊躇していたところ、彼のほうがボヘミヤにやって来たのを私は再び神の配剤としたい。そこで、修正された各惑星の離心値を学び取ろうという希望を抱いて、私は1600年の初めに彼の所にやって来た。初めの半月で、ティコもプトレマイオスやコペルニクスと同様に太陽の平均運動を用いていることが判明したが、視運動のほうが私の小著には適切だったので(それは私の著作から明らかになる)、ティコ本人に頼んで、観測結果を私自身の手法で利用できるようにしてもらった。当時、火星論はティコの助手のクリスチャン・セヴェリンが手がけていた。人々が初更の位置の観測つまり火星と太陽の獅子宮9°での衝の観測にたずさわっていたので、時期的な巡り合わせで彼が火星論を手がけていたのである。もしクリスチャンが他の惑星を扱っていたら私も彼と同じ惑星に出会っただろう。

 だから、彼が火星に専念していたちょうどその時機に私がやって来たのも、神の配剤によるものだと思う。火星の運動からの全く必然的な帰結である天文学の秘密を知らなければ、われわれはいつまでも無知のままだからである。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


最初に正直に書いとこ。

私はこの本をちゃんと読んでへんで。

600ページ以上もあってたらたらと説明してあるねん。

むずかしゅうてわからんがな。

そやからパラパラとめくっただけや。


そやけど十分楽しめたわ。

これがあの大発見なんやー!てな。

この本は、ケプラーが見つけた第一法則「惑星は、太陽を焦点のひとつとする楕円軌道上を動く」と第二法則 (説明は省略) を説明したもんなんや。

それまでは惑星の軌道は円やと考えられてたんや。

円やったら太陽と惑星の距離はいつも同じやないとおかしいやろ。

けど、観測したら同じやないねん。

これ、なんでか説明してみーてなるやん。

そんでケプラーが火星で調べたら楕円やったってわけや。

他の惑星ではあかんかってんってケプラーさんはゆうてはる。


火星を研究できたんは神様のおかげやて。

科学者かて神様を信じてるねんで。

それぐらいびっくりすることなんや。


文中に出てくるティコ・ブラーエは天文学者として超有名や。

超新星も見つけてるし、たくさんのエピソードがある人やで。

自分の敷地のなかに天体観測所を作って観測してたんや。

そんで膨大な量の星の観測記録を持ってたんや。

望遠鏡のまだないときの話やで。


この本は1609年に出版されたんや。

コペルニクスの地動説を支持したガリレオ・ガリレイの『天文対話』の出版は1632年やねん。

そやからケプラーのこの本が地動説を支えることになったんは間違いないわ。

本の内容は難しいねんけど、後についてた訳者・岸本良彦さんの解説がものすごう役にたったわ。

この訳を書くのにどんだけ年数がかかったんやろな。

岸本さんは、ケプラーの他の本も訳してはんねん。

ケプラーとおんなじくらいすごい人やと思うわ。ほんま。


2021年12月12日


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第十六回

『牧野富太郎 なぜ花は匂うか』 イチョウの精虫 P177

牧野富太郎/著

平凡社 2016年発行


P177

 夢想だもしなかったイチョウ、すなわち公孫樹、鴨脚、白果樹、銀杏であるGinkgo biloba L. に、精子すなわち精虫(Spermatozoid)があるとの日本人の日本での発見は青天の霹靂で、天下の学者をしてアット驚倒せしめた学界の一大珍事であった。従来平凡に松柏科中に伍していたイチョウがたちまち一躍して、そこに独立のイチョウ科ができるやら、イチョウ門ができるやら、イヤハヤ大いに世界を騒がせたもんだ。そしてその精虫を始めて発見した人は、東京大学理科大学植物学教室に勤めていた、一画工の平瀬作五郎氏であって、その発見は実に明治二十九年(1896) の九月で、今からちょうど五十七年も前だった。

 こんな重大な世界的の発見をしたのだから、ふつうなら無論平瀬氏はやすやすと博士号ももらえる資格があるといってもよいのであったが、世事魔多く、底には底があって、不幸にもその栄冠を勝ち得なかったばかりでなく、たちまち策動者の犠牲となって江州は琵琶湖畔彦根町に建てられてある彦根中学校の教師として遠く左遷せられる憂き目をみたのは、憐れというも愚かな話であった。けれども赫々たるその功績は没すべくもなく、公刊せられた『大学紀要』上におけるその論文は燦然としていつまでも光彩を放っている。むべなるかな、後明治四十五年(1912) に帝国学士院から恩賜賞ならびに賞金を授与せられる光栄を担った。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


イチョウの精子やて、見たことないなあ。

裸子植物にも精子あんねんや!って大騒ぎになったんやなあ。

これで進化の様子がちょっとわかったんかな。

この精子を見たかったらイチョウの雌の木を探すんやて。

おかしいやん、精子やから雄の木やろと思うやんか。

雄の木から花粉が飛ぶのは春やな。

ほんで飛んで来た花粉が雌花にくっついて、やがて秋になってからその花粉から精子が2個できて、泳いで卵にたどりつくねん。

そやから秋に雌の木の黄色くなる前の実の中を探せば見つけられるそうや。

やり方は『たねの生いたち』(西田誠/著 岩波科学の本 1972年) に詳しく書いてあるで。


牧野富太郎は植物図鑑でお世話になってる人が多いやろな。

牧野は植物が好きすぎて自分のことを植物の愛人やてゆうてはる。

好きなだけあって植物のことにはうるさいで。

漢字で書く紫陽花(アジサイ)、馬鈴薯(ジヤガイモ)、蕗(フキ)、杉(スギ)、山茶花(サザンカ)とか他にもいっぱい使い方がまちごうてるで、と書いてある。

へぇー、そうなんかあ。


牧野は、みんながもっと植物に興味を持ったらええのになあ、植物ってこんなにおもしろいでぇって一つ一つの説明を書いてくれてはる。

これを読んでしもたら植物をもっと真剣に見たなるなあ。

牧野富太郎の博物館は、出身地の高知県に大きな植物園があるし、東京都にも練馬区立牧野記念庭園記念館とゆうて牧野が30年間住んでたところが素敵な博物館になってるで。

よかったら行ってみてな。


2021年12月5日


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第十五回

『夾竹桃(きょうちくとう)』 チューリッヒに於けるアインシュタイン教授 P69

石原純/著

文明社 1943年発行


P69

 ヨーロッパに行って私はアインシュタイン教授に親しく接する機会を得ることを私の最も大きなよろこびの一つに期待していました。しかし最初の半年を先づドイツのミュンヘンで、次の半年をベルリンで過ごしたので、アインシュタイン教授の居られるスイスのチューリッヒに赴いたのは、その翌年の四月でした。もちろんこの頃(1913年) はまだ一般相対性理論はでき上がっていなかったので、彼の名は物理学界のなかでしか知られていないのでしたが、私はこの理論についての幾らかの研究を果していたのでそれを切に望んでいたのでした。スイスという国では、普通にポリテクニクムと称へている工業大学が国立で大規模につくられて居り、そのなかに純粋な数学や物理学や物化学などの教室もあって、アインシュタイン教授もそこの物理学教室に居られたのですが、この外に州立の大学もあったので、ここには同じく相対性理論の研究者として知られているラウエ教授が居ました。このラウエ教授とは、私は日本にいた頃から論文を交換したこともあり、また前年にはミュンヘン大学に居られたので、そこで能く知り合いにもなっていたので、チューリッヒに来て再会したのは奇妙なめぐり合いでもあり、それだけに親しい感もあったのでした。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


じーちゃん(石原純)、ラウエとも知り合いやったんか!

ラウエって誰やねん!ってゆう人がほとんどやと思うから説明しとくわな。

ラウエは、X線回折現象の発見で1914年にノーベル賞もろてはんねん。

X線の波長は原子の大きさに近いから、分子の中の構造を調べるのにちょうどええ長さやったんや。

波長が長いとそれより小さいもんは調べられへんから可視光ではあかんのやな。

X線やったら結晶の中の原子や分子がどんなふうに並んでるのかがわかるねんて。

かの寺田寅彦(おもしろ科学史エピソードの第六回参照)もX線回折現象の研究してはった。

ワトソンとクリックがD NAの二重らせん構造の発見できたんもX線回折写真のおかげやった。

タンパク質の構造を調べたりするのにも使われてるで。

そんなわけでラウエは有名な物理学者や。


この本は石原純の随筆集やねん。

随筆の他にも詩や和歌も載ってるで。

文を書くのは好きやったんやろなあ。

大学に入るとき、理系に行くか文系に行くか迷うたてどっかに書いてあったなあ。

いろいろあって東北帝国大学の教授をやめてからは、本を書く人になったんや。

研究者もよかったけど、本を通して科学を伝える人になったんはよかったこともあると思う。

科学っておもしろそうやってぎょーさんの人が思うてくれはった。


ちょうど一昨日、知り合いからメールが来てん。

東大の駒場博物館でやっている「物理学者・久保亮五の研究と人生展」を見てきたんやけど、展示の中に久保に影響を与えた人として石原純が出てたでーって教えてくれたんや。

じーちゃんはやっぱりすごすぎたなあ。


2021年11月28日


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第十四回

『フランクリン自伝』 P282

ベンジャミン・フランクリン/著

松本慎一・西川正身/訳

岩波文庫 1957年発行


P282

 この新知事の在任中に公共の問題で私が演じた役割について話を進める前に、ここで少し私が科学者として名声をうるようになった次第を述べておくのも不都合ではあるまい。

 1746年にボストンへ行った時、私はそこで最近スコットランドからきた人で、スペンスという博士に会い、電気の実験をして見せてもらった。博士はあまり熟練していなかったので、実験は完全には行かなかったが、実験の対象が私にはまったく新しいものだったので、私は驚きもし喜びもした。フィラデルフィアに戻るとまもなく、ロンドンのイギリス学士院の会員ピーター・コリンソン氏から組合図書館にあてて、この種の実験に使う時の心得書を添えてガラス管を一本寄贈してきた。私はこれ幸いとばかりにすぐさまボストンで見た実験を繰返し、また大いに練習した結果、イギリスから説明書のきた実験がとてもうまくやれるようになっただけでなく、新しい実験もいくつかできるようになった。いま大いに練習したと言ったが、実際当分の間というもの、私の家はこの新しい奇蹟を見に来る人でいつも満員だったのである。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


フランクリンはアメリカ建国の父や。

そやからこの自伝はアメリカではベストセラーなんやて。

知らんかったわあ。

私は、フランクリンは凧揚げで雷から電気を取り出した人として覚えてたんや。

ほんで、この本を読んでみたけど、なかなか雷の話が出てけーへんかったから、なんでやねん!と思ててん。

そしたら上の文章のようにちょこっとだけ書いてあったわ。

その後に、これは電気学史の中に出て来るはずやからこの本にその実験の話を長々と書くのはやめとくわって書いてあんねん!

もっと読みたかったのになあ。


フランクリンは他にもっと書いておきたいことがぎょーさんあったんやろな。

組合図書館(お金を出し合って作る)や他にも大学、病院を作るのに尽力したこととか、自分を律するための13個の徳についてとか。

徳ってゆうんはわりと具体的な、「飽くほど食うなかれ」とか「自他に益なきことを語るなかれ」とかや。

自分で書いておきながら守られへんねん、て自己反省もしてはる。

フランクリンが政治家として活躍できた理由のひとつは、みんなが暮らしやすうなるための工夫を次々と生んだってゆうのがあると思う。

ストーブや街灯を改良した話が出てくるんやけど、科学的にちゃんと考えてできる人やった。


話を戻すと、フランクリンの電気の実験はだんだんとすごい評判になってん。

電気とゆうても静電気しか知られてなかった頃やから、電気学史に残るくらいの大発見やったんや!

ほんで、1753年にイギリス王立協会からコプリー賞をもらいはった。

まだノーベル賞はない頃の話や。


科学者としてのフランクリンをもっと知りたかったら、『フランクリン』(板倉聖宣著 仮説社1996年) を読んだらええと思うわ。

わかりやすいで。

2021年11月21日


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第十三回

『宇宙に秘められた謎』 宇宙を知るためのガイド P41,45

スティーヴン・ホーキング/著

さくまゆみこ/訳

岩崎書店 2009年発行


P41

 わたしたちはなぜ宇宙に行くのでしょう?

 月の石を少しばかり持ち帰るために、なぜ多くの努力を重ね、莫大なお金を使うのでしょう? もっとましなことが、この地球でもできるのではないでしょうか?

P45

 一四九二年以前のヨーロッパにも、同じように考える人がいました。その人たちは、莫大なお金をかけて雲をつかむような探検にクリストファー・コロンブスを送り出すのはむだだと思っていたのです。でも、コロンブスはアメリカに到達し、そのことによって、時代は大きく変わったのです。わたしたちが今ビッグ・マックを食べられるのも、そのおかげかもしれないし、もちろん、ほかにもいろいろな変化が起こったのです。

 今のところ、宇宙旅行といってもそう遠くまで行けるわけではありません。じつは、とてつもない距離を超えて進む方法さえまだわかっていないのです。しかし今後二00年から五00年の間には、その方法を突き止めるという目標を持つべきです。人類は、約二00万年前から別個の生物種として存在してきました。文明は約一万年前から始まり、それ以来、発展の度合いは着実に増してきています。そして今、これまでだれも行ったことのない場所へ大胆に出ていく段階に来ているのです。その結果、何を見つけ、だれに会うかは、まだだれにもわかりません。

きみたちの宇宙の旅がうまくいくように、そしてこの小さな本がきみたちの役に立つことを願っています。

 宇宙での幸運を祈って。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


紹介した本は『宇宙への秘密の鍵』『宇宙に秘められた謎』『宇宙の誕生』の3部作のうちの2冊目や。

内容は、主人公のジョージが宇宙を大冒険する物語で、著者はルーシー・ホーキング、博士の娘さん。

ワクワクするようなフィクションの物語やけども、合間にコラムが挿入されててな、ホーキングをはじめ、いろんな博士が宇宙について説明してくれてはる。

ここだけフィクションとちゃうんや。

コラムだけ読んでも楽しめるやん。


2018年、76歳の理論物理学者ホーキング博士は亡くなりはった。

ブラックホールの研究で有名やった。

ホーキングが書きはった本はよう売れるみたいや。

なんでやろな。


書いてあることは、哲学的で難しぅて全部はわからへん。

ホーキングが有名なんは、車椅子の科学者やからというだけやないと思うわ。

チャレンジャーで、前向きな生き方がみんなに元気をくれるし、ジョークもうまいしな。

けどやっぱりすごいのは、今、わかっていることだけやのうて、私らに未来の宇宙を見せてくれるからやろな。

光までも吸い込んでしまうと言われてるブラックホールはゆっくりと蒸発してしまうねんでぇてゆうてはる。

ほんまかな。


ホーキングは著書『ホーキングの最新宇宙論』(日本放送出版協会 1990年)で、難病にかかってるってわかったときのことを書いてるで。

それまでは怠惰な大学生やったけど、「早死にするかもしれないという現実に直面すれば、誰でも命の大切さや、やるべきことが山ほどあることに気づくものです」と思てがんばりはった。

病気やったのにこれができたんは、えらすぎるやろ。

もうホーキングの新しい本はないんやなと思たら残念やなあ。


2021年11月14日


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第十二回

『物理学者の眼』 アインシュタイン先生の想い出 P332

湯川秀樹/著

学生社 1961年発行


P332

昭和二十三年に私はプリンストンの高等科学研究所に招聘されたので、先生とはたびたびお目にかかる機会ができた。私の部屋は研究所の三階にあり前の広い芝生が一目で見渡せた。朝十一時ごろになると芝生の中の道を向うからゆっくりと歩いてこられる先生の白髪が一目でそれとわかった。先生は質素というか簡素というか、身なりも住居にもゼイタクということには全然関心を持たれなかった。自動車その他文明の利器を利用することさえも好んでおられなかったようである。研究所へ入って来られてもエレベーターには乗らず、コツコツと階段を上ってゆかれるという風だった。先生がプリンストンに落着かれた当時、あるエレベーター会社が二階しかない先生の家にエレベーターをつけようと申込んできた。先生の周囲の人がビックリしてこの申出を断わったという話も聞いている。エレベーターのいるような豪壮なお宅ではもちろんなかったし、また仮にエレベーターをつけてもそういうものを利用されなかったに違いない。先生とお会いしてよもやま話をしていると、先生の人間としての温かさがひしひしと感ぜられた。自分は東洋人だということをいつも私にはいわれた。そういう言葉の中にはアメリカの機械文明に対する皮肉が幾分か含まれているように私には感ぜられた。かっての日本訪問は先生にたいへんいい印象を与えたらしく、改造社長山本実彦氏や石原純博士のことをなつかしく想い出しておられた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


アインシュタインの人柄とかについて語ってる文章はぎょーさんあるなあ。

アインシュタインがいてはったプリンストン高等科学研究所に行った人はたいてい書いてるねん。

アイドルなみの人気やで。

まあ、誰でも知ってる有名人やからな。


中学生に「知ってる科学者の名前ゆーてみて」とお願いしたら、たいていアインシュタインやな。

あとはニュートンくらいしか出てきーひん。

子どもにも人気のアインシュタイン。

なんでこんなに有名なん?


著者の湯川秀樹は1949年に日本で最初のノーベル賞もろた理論物理科学者。

この文章のころには、石原純(じーちゃん)はもう死んでしもうてたんやけど、アインシュタインはじーちゃんのこと、ちゃんと忘れんと思い出してくれてはってんなあ。

アインシュタインと親しくしてた日本人ってどのくらいおるんかな。

そもそもアインシュタインは社交的やなかったからなあ。

湯川秀樹もその数少ないうちの一人やったんや。


この文章の終わりのほうに「私が日本に帰る前、映画を撮られることになった」ってゆうのが書いてあって、

アインシュタインにも出てもろたーて書いてある。

ふーん、と思うてググってみたらYou Tubeで 40分くらいの映画「ものがたり湯川秀樹1954年」を見つけたで。

湯川の家族が俳優みたいやなあと思たけど、みんな本人やな、たぶん。

アインシュタインもちょっとだけ出てて、もちろん本物で動いてて感激してしもたわ!


2021年11月7日


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第十一回

『相対性理論』 世界大思想全集 48 P124

アインシュタイン/著

石原純/訳

春秋社 1930年発行


P124

 「幾何学と経験」

私たちの空間が無限であると言うのは何を意味しているのでしょうか。それは私たちが大きさの等しい物体をどんなに沢山並べても空間を充たすことが出来ないということに外ならないのです。今大きさの等しい立方体の賽(さい)をつくったとしてみましょう。それをユークリッド幾何学に従って上にも下にも横にもお互同志並列させて勝手にどこまでも大きな空間を充たすことが出来ます。この並べ方は、併(しか)しどこまで行っても決しておしまいにはなりますまい。いつまで新しい賽(さい)を外へおいても、おき場所のなくなることはないでしょう。これが空間の無限であるということを言いあらわしているのです。


(8行略)


そこで私たちは二次元の連続体であって有限であるが、併(しか)し限界のないものの例を挙げて見ます。大きな地球儀の表面と、たくさんの等しい円形の小さな紙片とを取出してごらんなさい。この円い紙片の一つをどこまでも表面においてみます。私たちが指でその紙片を地球儀の上で勝手に移動させますと、どちらへ歩いても決して限界に衝き当たることはありません。私達はそれ故に地球儀の球面を限界のない連続体と言うことが出来ます。その上、球面は一つの有限な連続体です。


(13行略)


相対性理論の最近の結果によりますと、私たちの三次元の空間もほぼ球面的であることは確からしく思われます。即ちそのなかにおける剛体の配置法則はユークリッド幾何学によってでなく、十分大きな範囲を考えに取りさえすれば、寧ろほぼ球面幾何学によって与えられるのです。ここに読者の直観が革新されるべき点があるのです。「こんな事は誰だって考えられるものじゃない」彼は激してそう言うでしょう。「それは言うだけのことで考えられはしない。なる程球面は考えられるけれども、それの三次元の類推は無理だ」と。


(旧仮名づかいを読みやすくするために直しました)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


これは1921年1月27日にベルリンでアインシュタインが講演したのを書き起こしたもんやで。

なんか難しそうなことゆうてるけど、宇宙の形について語ってはんねん。

そんで、びっくりするようなこと書いてあったから紹介しときますわ。


私は、宇宙って果てがなくどこまでも広がってるんやろなあ、と思ててん。

アインシュタインはそやないとゆうてはる。

宇宙は果てはないけど有限やと。

宇宙の形は3次元球面やとゆうてはる。

3次元球面って何? てなるやろ。

地球の表面みたいなもんか?

いやいや、それは2次元球面なんやで。

緯度と経度がわかったら場所を決めることできるやろ。

2個の数字で表せるから2次元球面なんや。

この球面はいわゆるユークリッド幾何学の平面にはおさまりきらんで、3次元空間やったら見ることができんねん。

これはわかるねん。


この考え方を、もうひとつ次元をあげるんや。

3次元球面ってゆうのは4次元の中で見ることができる球面ということらしいで。

そやけど、これはアインシュタインの考えた宇宙の形やから本当かどうかはまだわからんで。

理論物理学者のジョージ・ガモフは、宇宙は無限に広がってるってゆうてるしな。

宇宙の形はまだいろんな考え方があるみたいや。


どっちにしても、4次元の世界はおもしろそうやなー、ということで理科ハウスでは「多様体への道」っていう生解説動画を作ったんや。

みんなでワイワイしゃべりながら、頭の中でぐるぐる考えるんはめちゃ楽しい。

よかったら見に来てな。


アインシュタインの著書にもっと興味がある人は『特殊および一般相対性理論について』(アインシュタイン/著 金子務/訳 白揚社 2004年)も読んでみてな。

宇宙の形のことも書いてあるで-。


2021年10月31日


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第十回

『ピエル・キュリー傳』P112

キュリー夫人/著

渡邊慧/訳

白水社 1942年発行


P112

 彼の科学的問題に関する他人との交渉において、彼は角立ったようなところを示したことは一度もありませんでした。彼は自愛心や個人的感情によって自らを動かすようなことを決して致しませんでした。あらゆる美しい成果が彼に取って歓びの源となりました。彼自身が最初の発見者であると主張出来るような分野においてさえ同様でありました。

 「他の人が発表しさえすれば、何も僕自身が発表しなかったって構いはしない。」と申すのでした。彼の考えでは、科学に関しては事実に注目すべきで人には注目してはいけないのでありました。競争心というものはおよそ彼の感情に正反対なものであって、それが競争試験とか、中学校の席次とかいう形においてでも、又は栄誉とか表彰という形においてであっても、すべて張合いということを彼は罪悪視しておりました。彼が科学的な仕事に向いていると思った人に対しては、必ず助言とか激励とかを与えました。それらの人のある者は、彼に対して深い感謝を後々まで心の中に抱いておりました。

(旧仮名づかいを読みやすくするために直しました)


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


キュリー夫人が書いた本を探してたらこの本を見つけたで。

淡々と書いてあるねんけど、めちゃめちゃ愛のこもった本やったわ。

夫の伝記を書くのはどうやろな。

書きにくいちゃうん。

キュリー夫人も最初は断ったけど書くことになった、と打ち明けてるし。

世間ではキュリー夫人のほうが有名になってしもうて、ピエルのほうはあんまり知られてへん気がするなあ(私が知らんかっただけか?)。

夫婦でノーベル賞もろてるけどな。


ピエルの研究は私らの生活に役立ってるのがけっこうあるで。

たとえばクォーツとか圧電素子(チャッカマンに使われてる)。

結晶の研究してて、結晶に力加えたらどうなるかなあとか、電気流したらどうなるかなあとか、いろいろやってみたんやろな。

それから「キュリー温度」。

磁石を熱して温度を上げたら、ある温度で磁力がなくなってしまうねん。

その温度のことを、キュリー温度ってゆうんや。


ピエルは、出世なんかどうでもええ、とにかく研究やりたい!の人やったみたい。

ラジウムから出る放射線を研究してたとき、自分の腕にラジウムを当ててどうなるか実験してたんや。

そんで、ひどいやけどみたいになってしもてな。

人体実験やで。すごすぎるわ。

ふつうの家族やったら「やめときー」てゆうてしまうわ。

けど、キュリー夫人やったからなあ。

ピエルにとってはキュリー夫人に出会えたことは、ほんまに幸せなことやった。

ものすごい理解者やったと思うわ。

まあ、お互いにな。


ピエルが馬車にひかれて亡くなったんは46歳のときやってん。

早すぎるし、突然やった。

キュリー夫人の落胆は相当なもんやったみたいやな。

研究があったから立ち直れたんかな。


古いけど、映画の『キュリー夫人』(1943年)はピエルのこともわかるし、なかなかええで。

本を読むのがめんどくさい人は見てみて。

2021年10月24日


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第九回

『怠け数学者の記』 プリンストンだより P262、267、271

小平邦彦/著

岩波現代文庫 2000年発行


P262

11月21日

 今僕の今度の大発見の最後の一コマが完成しつつある所。これが出来れば、今までの僕の論文の中で一番のケッ作になる筈です(おかしなことに、英語は一寸も進歩しないのに漢字を少し忘れました。変な所に仮名を使うのはそのためです)。


P267

 12月19日

・・・・・朝永先生は二、三日前からニューヨークへ行って歯を直しています。今日来た葉書によると先生歯を全部引っこ抜かれて八十歳位の顔になったそうです。明日ニューヨークへ行って八十歳オジイサンの朝永先生とシカゴで世話になった学生ギャフネイ氏と三人でお昼を食べる積りです。


P271

 1月4日

・・・・・お雑煮のない筈のお正月が、日本でも仲々食べられないような日本料理を御馳走になって、流石世界一のニューヨークなる哉と大いに感心しました。しかし、あまり食べ過ぎと飲み過ぎで朝永先生は風邪をひいてお腹を悪くしてしょげています。僕は余り飲まなかったから何ともないけれど。この前書いたかも知れないけれど、朝永先生は歯を全部引っこ抜いて総入歯を入れて、すっかり若くなりました。アメリカ製の歯を入れると日本語が下手になって英語がうまくなるから不思議です。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


これは、小平邦彦がアメリカのプリンストン高等研究所で研究してたとき、単身赴任やったから妻に宛てた日記や。

戦後から4年しか経ってない1949年のことやで。

小平は数学のノーベル賞と言われているフィールズ賞という、ものすごい賞を受賞している数学者。

大学では数学科を出た後に、さらに物理学科も出て、そのあと数学博士になったんや。

小平の専門は複素多様体(説明してみよと思て調べたけどわからん日本語やった)。

ユークリッド幾何学とはちょっと違うけど、宇宙の形とかにもめちゃくちゃ関係ある新しい考え方の「図形」みたいなもんかな。


日記には、なんか「朝永先生」が何回も登場するねん。

(朝永振一郎については「おもしろ科学史エピソード」第五回を読んでみて)

二人は同じ家の2階の別の部屋に下宿してたから、しょっちゅういっしょにおったんやな。

小平は「朝永先生」を観察するのが楽しそうや。

笑いのネタにしてるやん。

朝永は1906年生まれやから40歳代で総入歯になってしもたんか。

かわいそうやな。


それからこの年は湯川秀樹がノーベル賞もろた年やねん。

湯川もこのとき同じプリンストン高等研究所の客員教授やったから、二人で湯川の家に行ってお祝いしたりしてる。

みんな仲よーて楽しそうやわ。


小平の日常で私が驚いたんは「毎日十二時間寝ます」と書いてあることや。

これはほんまにびっくりやで。

みんなも小平に見習って、もっとたくさん寝たほうがええでー。


2021年10月17日


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第八回

『力と物質』 P9

マイケル・ファラデー/著

稲沼瑞穂/著

岩波文庫 1949年発行


P9

 私は、あなたがたのクリスマス休みの予定をたいへん狂わしたのではないかと考えて、ひじょうに申しわけなく存じております。私はお約束したことをその通りに実行したいと願っていたのではありますが、とかくこのようなことはすべて、私たち自身の思うようにはまいらないものであります。そのときの定められた情況によっては、どうしてもそれにしたがうよりほかはないことがあります。

 私は今日は、とにかくできるだけをつくしてみますが、少ししかお話ができないかもしれませんので、その点はどうぞお許し下さるようねがいます。その代り、私ができるだけ十分にいい表わしたいと思う意味については、実験による説明をいたしましょう。もし今日の講演が終わったとき、次の週間には私のチカラがもっと回復してくることを考えに入れながら、この講演をつづける方がよいということが、みなさんによってみとめられましたならば、もちろんみなさんの意見にしたがって、この話のつづきを進めて行くか、または別の話にうつるか、どちらでもあなたがたが適当とお思いになる順序にしたがってやって行きたいと思います。今日は、私は病気―といって単にカゼなのですがーのためにどうも少し弱ってはおります。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


このとき、ファラデーは68歳。

そりゃあ風邪ひいたらしゃべるのはつらいで。

これは1859年にファラデーが実演したクリスマスレクチャーの冒頭の部分や。

この次の年のクリスマスレクチャーが、かの有名な『ロウソクの科学』の講演ですわ。


おもしろい講演やったから、これを本にしたら売れるやろなあ、と考えたのは「序文」を書いてるウィリアム・クルックス(真空放電のクルックス管で有名や)。

今みたいに録音機はなかったから、記録を速記する人を雇ったんかなあ。

この記録は臨場感ある。

ファラデーのていねいな言い訳まできちっと書いてはる。


ファラデーは化学者でもあったし、電磁気学でもぎょーさんの発見をしてる。

この講演のお話のテーマは「力」やねん。

今でゆうたらエネルギーのことかなあ。


化学エネルギーが熱エネルギーに変わったり、電気エネルギーに変わったりするやろ、

逆もあるでー、ほらなーって、次々実験して見せてくれるねん。

ファラデー自身も実験ショー見て、科学の道に進んだ人やったからやりがいを感じてたんやろなあ。


実験内容は、どれも当時では最先端のレベルやったはずや。

そやけど、今では、この本に出てくる実験と似たような実験を学校や科学館でやってたりするで。

この本があるからお手本になるしな。

理科ハウスでも毎年12月には、『ロウソクの科学』の実験をやってんねん。

人気あるで。

これもファラデーさんのおかげやな。ありがとうな、ファラデー。


2021年10月10日


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第七回

『生命とは何か』 P17

エルヴィン・シュレーディンガー/著

岡 小天・鎮目恭夫/訳

岩波文庫 2008年発行

P17

 この「きまじめな物理学者の考え方」を進めてゆくうまい方法が一つあります。それは、風変わりな、人をばかにしたような疑問、「原子はなぜそんなに小さいのか?」から出発することです。そもそも、原子というものは実際まったく小さなものです。われわれが日常生活で取り扱うものは、どんな小さな一片の物質でも、とほうもなく多数の原子を含んでいます。このことを人々にピンとわからせるために、いろいろな説明の仕方が今までに工夫されてきましたが、ケルヴィン卿の次のようなたとえほど印象的なものはないでしょう。いま仮に、コップ一杯の水の分子にすべて目印をつけることができたとします。次にこのコップの中の水を海に注ぎ、海を十分にかきまわして、この目印のついた分子が七つの海にくまなく一様にゆきわたるようにしたとします。もし、そこで海の中のお好みの場所から水をコップ一杯汲んだとすると、その中には目印をつけた分子が約100個みつかるはずです。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


コップ一杯の水の話はいままでに何回か聞いたことあったんや。

これな、誰が最初に言いはったんか、知りたかってん。

ケルビン卿(ウィリアム・トムソン)やってんなあ。

絶対温度の単位になってるケルビンやで。


これ、ほんまにそうなるんか、計算してみたなる。

ケルビンが言うてるからまちがいないで、と思うのはあかん。

科学者かてまちがえることあるしな。


ほんで、私の計算の答えは770個くらいやった。

「100個みつかる」やから、まあ、まちごうてないわ。

けど、答えが100個としても1000個としても水の一滴にも到底たらんけどな。


理科ハウスでは、こんなふうに研究者もやったんやろうなと思う計算を、みんなでやってみたりしてんねん。

ちょっとだけ科学者に近づけた気がしてええと思いますわ。

もちろん、計算が簡単なときだけやけど。


この本は量子力学で超有名なシュレーディンガーが書いたんやけど、物理学者が生物学の本を書くってめずらしいやん。

本人もまえがきで、掟やぶりやけど許してちょ、て書いてるねん。

けど、ワトソンとクリック(この二人はDNAの二重らせん構造を見つけた)は、この本にめちゃくちゃ影響されたんやって。

もし、読んでなかったらDNAの研究はせーへんかったかも。


そやから、掟やぶりでも書いてくれてよかったやん。

日本の科学者もこの本に影響されてたっていうから、もう名著とゆうてもええんちゃう。

シュレーディンガーが分子生物学への扉をあけた、とゆうこっちゃ。

薄い本やから、飛ばし飛ばし読めば誰でも読めますわ。


2021年10月3日


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第六回

『第三冬の華』 P86「寺田先生の追憶」から

中谷宇吉郎/著

甲鳥書林 1941年発行


P86

 先生はどんな人でも憎んだり、避けたりされるようなことはなかった。沢山の学生の中には、随分気障な男や、内攻的な打算家などもあって、私たち仲間ではいやな奴となっていた男でも、先生はよく親身になって面倒を見て居られた。もっとも時々癇癪を起こされることもあったが、その後ではいつも「今の若い連中には、無限に気を長く持たなければならないようだ。それぞれ長所はあるんだが」と言って居られた。

 そういう気持ちの先生でも、矢張り憎悪に近い感情を持たれた一種の人たちがあった。それは、道徳とか愛国とかいう最も神聖なことを売り物にして、それで生活の資を得ている人たちに対してであった。その頃物理の畏敬すべき先輩が恋愛事件で失脚されたことがあった。その事件をいつまでも如何にも楽しそうに蒸し返し繰り返して非難することによって、自己の道徳が堅固であることを誇示するつもりになっていた先生方が、大学の中にもあったそうである。それからこれも末期の現象の一つであったのであろうが、東京の下町などには、女髪結のような職業の人たちにいやがらせをやって生活していた自称愛国団体の下っ端の連中があった。こういう人たちの話が稀に出ることがあると、先生は妙に興奮気味の口調で「僕はああいう人たちには、どうにも我慢が出来ない」と言われた。そして「寺田君の説によると、泥棒をする男は皆善人なのだそうだ」という風に意地の悪い人たちから言われても、平気な顔をして居られた。これは推測であるが、そういう風に言われると、却って内心少し御得意のようでもあった。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


「寺田先生」というのは、物理学者であり、俳人、随筆家の寺田寅彦。

中谷宇吉郎は寺田の弟子、雪の研究で有名やな。

別におもろないで、このエピソード。

そやけどこれは書いとかなあかん。

これはうちのファミリーヒストリーやから。

文中の「恋愛事件で失脚」したんは石原純のことやねん。


石原が歌人・原阿佐緒と不倫。

大正10年7月30日の東京朝日新聞2面にデカデカと写真入りで載ったんや。

記事の内容は事実とはけっこう違うかったみたいやけどな。

じーちゃん、真面目な性格やったから,恋愛に対しても真面目やった。

おかげで家族は大変やったみたいやけど、「大変」のほとんどは周りの目のせいや。

私も学生時代に教授陣に呼び出されて質問されて、ちょっといややった。

そのとき初めて「じーちゃん、不倫でこんなに有名なんや」と知ってん。

人の恋愛てそんなに気になるもんなんか。

そやから寺田寅彦、援護してくれてはってんなあと思たら泣けるやん。


寺田と石原は岩波の雑誌『科学』の創刊にかかわっててん。

そんでどんな紙にするん? てなったときに、

石原が推してた紙に、「そんなツルツルなんはいややー」て寺田が言ったとか。

仲ええな。


(追記)「寺田先生の追憶」はインターネットの青空文庫で読むことができます。

似ている題で「寺田寅彦の追想」もあるのでご注意ください。

2021年9月26日


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第五回

『科学者の自由な楽園』 P30、P138

朝永振一郎/著

江沢洋/編

岩波文庫 2000年発行


P30

 「繰り込み」理論の話が出ましたから、ちょっと、私は「くりこみ」とひらがなで書く習慣があるんですが、そうしたら、それを書いた校正刷りがきまして、それを見ましたら、「しりごみ」になっているんです。「しりごみ理論」と。つまんないことを申し上げて・・・・・。


P158

 中学五年生のとき、有名なアインシュタインが来日した。何もわからぬのにジャーナリズムはいろいろと書きたて、なまいきな中学生もそれに刺激されて、なんにもわからぬのに石原純先生の本などを手にしたりした。時間空間の相対性、四次元の世界、非ユークリッド幾何の世界、そんな神秘的なことが、このなまいきな中学生を魅了した。物理学というものは何と不思議な世界を持っていることよ、こういう世界のことを研究する学問はどんなにすばらしいものであろうかと思われた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


しりごみ理論は笑えた。

朝永振一郎は「くりこみ理論」でノーベル賞もらいはった理論物理学者。

そんなすごい理論をこんなエピソードにできるって太っ腹すぎるやん。

「くりこみ理論」は難しいから、私は説明でけへんで。

知りたかったら『量子力学と私』を読んだらええと思うわ。


科学者の自由な楽園、ていうのは財団法人理化学研究所のことや。

ふえるわかめちゃんの、りけん。

ビタミンAやわかめの売り上げのおかげでのんびりできたんかなあ。

月給はもらえて義務はないねんて。

令和の研究者が聞いたら、うらやましすぎて泣いてまうわ。


この本にはノーベル賞の受賞式のこととか、訪英旅行のこととか、いっぱい笑えるエピソードがあんねんけど、話が長いからここに書くのはあきらめましたわ。

この本のエッセイや講演の記録は読みやすいで。

量子力学みたいにわけわからん理論の説明を読むときは、めちゃ疲れるけどな。


ほんで、でたー! 石原純! 

うちのじーちゃんや。

これは、理科ハウスに関係あるから書いとかなあかんエピソードやった。

ノーベル賞もらいはったあの人もこの人も、ほんでノーベル賞をもろてないぎょうさんの人に影響与えたんや。

これ、すごいことちゃうの?

けど、そんなすごい人やったって、私は40歳近くになるまで知らんかった。

孫としてどうなん?

まあ、科学史エピソード書いて挽回しますわ。

2021年9月19日


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第四回

『完訳 ファーブル昆虫記1巻~10巻』 6巻上のP85

ジャン=アンリ・ファーブル/著

奥本大三郎/訳

集英社 2008年発行(第6巻)

P85

 私は五歳か六歳であった。家が貧しいから口減らしのために、先ほども述べたとおり、私は祖父母のところに預けられたのであった。

 その人里離れた農家の、鵞鳥や仔牛や羊のなかで、私の知性の最初のかすかな光が差しはじめたのである。

 それよりまえのことは真っ暗闇のようで、私には何もわからない。私の内部から曙の光が差しはじめ、無意識の暗雲が晴れて、いつまでも消えない記憶が残るようになったとき、私は本当に生まれたのだ。

 いまも自分自身の姿がはっきり目に浮かぶ。私は粗い布の子供服を着ていた。裾を引きずっているので、裸足の踵のところは泥だらけになっていた。腰に締めた帯に紐でぶら下げたハンカチのことを覚えているが、このハンカチをよく失くしたものだ。それで、その代わりに服の袖の裏側で何でも拭いたのだった。

ある日のこと、幼い私は両手を後ろに組み、太陽に向かってさっきから考え込んでいた。まぶしい輝きが私をとらえていて、私はランプの灯りに惹きよせられた一頭のシャクガであった。私がこの燦々とした輝きを受けているのは、口で、なのか、それとも目で、なのか?

 これが、芽生えはじめた私の科学的好奇心から出された問題なのであった。読者よ、笑わないでいただきたい。未来の観察者はもうすでに練習し、実験しているのである。私は口をあんぐりと大きく開け、目を閉じてみた。輝きは消えた。目を開いて口を閉じてみた。輝きは再び現われた。私はそれを繰り返してみた。結果は同じである。

これで決まりだ。つまり、私は“自分の目で太陽を見る”ということをはっきりと知ったのである。ああ! なんと凄い発見だろう! その夜、私は家じゅうのものにその話をした。祖母は私の無邪気さに優しくほほえんでくれた。ほかのものたちは馬鹿にして笑った。世間というのはこんなものである。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


今回はダーウィンが「類いまれな観察者」とゆうてたファーブルの本やで。

ファーブルは進化論には反対してたけど、二人は手紙のやりとりをしてたんやな。

英語とフランス語で大変そう。

ファーブルは、自分が虫好きなんは遺伝なんか?と祖父や祖母や親を振り返ってみたけど思いあたらん。

小さい頃を思い出して、上のエピソードを書いたんや。


なんや、最初の発見は虫とちゃうやん!

そやけど、観察力、普通やないな。

昆虫学やのうて、別の分野でも科学者になれたと思うわ。

実際、コルシカ島で物理の先生にもなってはった。


『ファーブル昆虫記』に出てくる虫の話は、観察→仮説→実験→考察がめちゃ多いねん。

とにかく実験がすごいわ。

そこまでやるかー、のレベル。

虫に詳しい人にはたまらんやろな。


私が感動したのは、91歳までの波瀾万丈の生き方やね。

子どもや自分より40歳も若い妻が先に亡くなりはったんは辛かったやろなあ。

本の訳をやりはった奥本大三郎さんは、東京都文京区千駄木にあるファーブル昆虫館(虫の詩人の館)の館長さんや。

興味がある人は、コロナ禍が落ち着いたら行ってみてくだはれ。

2021年9月12日


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第三回

『ダーウィン先生地球航海記1巻~5巻』 4巻のP174

チャールズ・ダーウィン/著

荒俣宏/訳 内田春菊/イラスト

平凡社 1995~1996年発行

P174

 泉の近くでは、なんとも興味ぶかい光景がみられた。たくさんの巨大な陸ガメたちが、あるものは頭を前方につきだしながら必死に脚をうごかして旅をつづけ、またあるものは満腹するまで水を飲んでゆっくりと帰っていくのだ。

 陸ガメは泉にたどりつくと、付近になにがいようとおかまいなく、頭を目のところまで水にしずめて、一分間に十度ほどの割合で、ごくごくと口いっぱいに水を飲む。

 住民からきいたところ、陸ガメたちは泉のあたりに三日から四日とどまったあと、低地にもどるのだという。かれらがここへやってくる頻度はまちまちである。おそらくは、ふだん生活している場所でたべているものの性質によって、水場へおもむく回数がきまるのだろう。しかしながら、この動物たちは、年間にほんの数日、雨がふる以外にまったく水気のない島でさえ、確実に生きていける。

 カエルの膀胱が、生きるのに必要な水分をたくわえる機能をはたしている事実は、ひろくみとめられていると思う。どうやらおなじことが陸ガメにもいえるらしい。なぜならば、カメたちは泉に着いた直後、膀胱がしばらく水をたくわえてふくれているのに、すこしずつその容積がちいさくなり、なかの水も純度が落ちてくるからだ。ここの住民は低地をあるいているときにのどがかわくと、この現象を参考にして、カメの膀胱がじゅうぶんにふくれている場合にそのなかの水を飲むようにしている。わたしの目前でころされた陸ガメの場合、なかの水はすきとおっていて、かすかに苦い味がするだけだった。しかし住民たちはさいしょに頭骸骨膜のなかにある水を飲む。これが最良なのだそうだ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


飲んだんかい!

ダーウィン、ワイルドやん。

まあ、そのくらいのことはなんでもあらへん。

そやないとこんな大冒険はでけへんな。

この航海はダーウィンの人生を変えたんや。

かの有名な『種の起源』はこの経験が元になってるからなあ。

上に登場する陸ガメはもちろん、ガラパゴスゾウガメのことでっせ。


ダーウィンは動物や植物や生き物のことはよー知ってるんやろなー、くらいはなんとなくわかるやん。

けど、もっと詳しいのは地形とか地層、化石とかやってん。

そらそやな。

もう死んでしもた生き物は化石になってんねん。

地面の中のこともぎょーさん知ってんとあかんやろ。進化論やから。


この全5巻の本の中身は全部がエピソードやねん。

エピソードだらけの本。

ほんで、ダーウィンを一番驚かせたんは、フエゴ島に住んでた「フエゴ人」。

うちらと違う文明を持ってたフエゴ人。

文明の進化についても書いてるで。

すべての人が平等にあつかわれている社会では文明の発達を遅らせる、てゆうてんねん。

フエゴ人はみんなが物を分け合うねん。

どひゃー!

これにはびっくりしてしもたなあ。

2021年9月5日


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第二回

『素粒子はおもしろい』 P14,P82

益川敏英/著

岩波ジュニア新書 2011年発行

P14

 翌日、いつもどおり、午前10時すこし前に大学に着きました。小林くんが10時ちょうどにやって来ました。「四元ではダメだという論文ではなく、六元にしたらうまくいくという論文にしよう」と提案したら、小林くんも一瞬だけ考えて「あ、そうですね」とOKの返事が来ました。それで、論文の骨子が決まったのです。

 四ページの短い論文だったので、手早い人だったら、二~三日間で書いたかもしれません。英語には「ハードワーカー」という言葉があって、「ソフトワーカー」という言葉はないそうですが、私は基本的にソフトワーカーです。一ヵ月ぐらいかかって日本語で論文をまとめ、こんどは小林くんがそれを参考にしながら、英語で論文を書きました。小林くんが思いきって削ったので、最終的には分量が半分ぐらいになっています。


P82

 私の似顔絵が饅頭に描かれた「名大饅頭」が名古屋大学の生協で売られています。私はこれはなかなかセンスのいい試みだと思っています。学生たちに「益川、かじっちゃえ。ノーベル賞なんか、食っちまえ」とハッパをかけているわけですから。

日本だけかもしれませんが、偉人の姿とか名前を書いたものに人格が宿るとして崇拝します。なにも偉い人が名前を書いたからといって、それを破ろうが燃やそうが何でもありません。夜中に藁人形に釘打ちして相手を呪い殺すというようなことがあるといわれていますが、そういう言霊の世界は科学とはあいいれません。

 もっとも、私は甘いものは嫌いなので、名大饅頭を共食いすることはありません。かじっている写真を撮らしてくれというので、かじる格好をしたことはありますが。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


名大饅頭食べてみたい。

7月に亡くなってしもうたから、もう饅頭でしか会われへん。

こんな写真のリクエストにもこたえてくれるなんて優しい人やってんな。

益川さんは理論物理学者。

上の本は、素粒子の本やけどコラムがたーくさんあって、益川さんの人柄が、ほんま、よーわかるで。

素粒子の説明はわからんかってもええねん(文中で益川さんもそうゆうてはる)。


いっしょにノーベル賞をもろた小林誠さんの著書、『消えた反物質』も紹介しときますわ。

Bファクトリー(B中間子を作る高エネルギー加速器)の実験結果が出る前、要するにノーベル賞もらう前に書きはったんや。

この本を読んでも小林さんのことはぜんぜんわからん。まじめな本や。益川さんがまじめやない、というてるのとはちがうで。性格の違い。

複素数が出てきてちょっと難しいけどな、わかるとこもあるで。


この二人が何をやったんか。

これ、ちゃんと人にわかるように言える人はなかなかおらんやろ。

そやからわかりたかってん。自分なりにな。

ほんで、理科ハウスの生解説動画「原子のなかみ」を作ったんや。

これがなかなかよーできてんねん。

二人はただのおじさんにしか見えへん人が、これ聞いたら「めちゃかっこええ科学者やん」になるねんで。

中身を見るってこういうことやんな。

2021年8月29日


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

第一回

『熱き探求の日々』DNA二重らせん発見者の記録 P92-93

フランシス・クリック/著 中村桂子/訳

TBSブリタニカ 1989年発行

P92-93

今日では、DNAが何であるか知らない者はほとんどいない。たとえ知らなくとも、それが「化学的」とか、「合成」などと同じ「汚らわしい」言葉に違いあるまいぐらいのことはわかる。その中に、幸いワトソン、クリックというふたりの人物がいたという事実を覚えている人がいてはくれても、この二人を区別のできる人はあまり多くない。熱狂的なファンだと言い、あなたの書いた本は実に面白かったという人にどれだけ会ったことか。もちろん例のジムの本のことだ。しかし、こんな時にそれは私ではありませんなどと説明しないほうが良いことは、これまでの経験から身にしみてわかっている。

もっとおかしなこともある。1955年にジムがケンブリッジに戻ってきたときのことだ。ある日私は、新しくキャベンディッシュ研究所教授に就任したばかりのネビル・モットと歩きながら、

「ワトソンをご紹介します。研究所に来ていますから」というと、教授は驚いたような顔をして私をまじまじと見つめ、

「ワトソン、ワトソンって? 私は君の名前がワトソン=クリックだと思っていたよ」と言ったものだ。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・


解説 森裕美子


「例のジムの本」ていうんは、ジェームズ・ワトソンが書いてベストセラーとなった『二重らせん』のことやで。

DNAの二重らせんの構造を見つけるまでのたった約2年間のできごとを、人間関係のごちゃごちゃも含めておもしろーに書いてあるん。

そやけど、これはワトソンの偏見で書いてあるから、この本が出版された後に登場人物からめっちゃクレームがあったんやて。

そしたら次に、そのクレームの中身やたくさんの証拠を追加して「二重らせん 完全版」を出したんや。

ワトソンすげぇ。

「正直ジム」って呼ばれてんねんて。


一方、クリックが書いたのが上の本やで。

おんなじ登場人物が出てくるから、この2冊を読み比べるとよろしいわ。

ここはワトソンの偏見やってんな、とかわかってしまうで。

クリックもおしゃべりで有名やってん。

ふたりはええコンビやってんな。

ずーっと後にワトソンは『DNA』という本も書いてんねん。

遺伝についてまとめた本や。DNAの研究の歴史がわかりやすいし、ヒトゲノム計画にかかわったジムが自分の宣伝もちゃんとしてるとこが正直やと思うわ。

2021年8月22日


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    著作権とリンクについて